崩壊の始まり
次回から■とある○○の記憶の記載が減ります
低く不気味な鼓動が、雨音に混じって繰り返されていた。男の手の中で濁った光が脈打つたび、地面の奥からかすかな振動が伝わり、周囲の木々がざわめいていく。
ユウはその場から一歩下がった。
「……何をする気だ」
男は答えず、血の流れる腹を押さえることもなく、ただ手の中の石を見つめていた。やがてゆっくりと顔を上げると、どこか諦めたような声で呟く。
「もう、私には戻る場所もない」
その声音には、先ほどまでの苛立ちも焦りもなかった。ただ、すべてを捨てると決めた者の静けさだけが滲んでいる。
「ならば……最後くらい、好きにさせてもらおう」
男が石を胸元へ掲げると、濁った光が一気に膨れ上がり、地面へ染み込むように広がっていく。足元の泥が大きく揺れ、地の底から低い轟音が響き始めた。
その異変を感じ取ったユウの背筋を、強烈な悪寒が駆け抜ける。
「……っ! 何をする気だ……!」
男は答えず、残された魔力を絞り出すように黄色い石へ注ぎ込むと、低く言葉を紡ぎ始めた。
「我が残る魔力を贄とし――眠れる楔を解き放て。大地よ、裂けろ。深き底より、闇を呼び起こせ」
男が詠唱を重ねるたび、黄色い石の光が強まり、濁った光が地面へと染み込んでいく。足元には無数の亀裂が走り、地の底から響く低い振動が森全体を揺らし始めた。
「やめろ……!」
ユウが踏み込む。しかし、男は止まらない。血を吐きながらも石を握り締め、最後の魔力まで注ぎ込むように詠唱を続ける。
「すべてを呑み込み、すべてを沈めろ――」
男の口元に、狂気じみた笑みが浮かんだ。
「崩落魔法――《アビスフォール》」
直後、黄色い石から凄まじい光が噴き出し、石そのものが限界を迎えたように膨張する。乾いた破裂音とともに石が砕け散った瞬間、大地が激しく震え、足元がゆっくりと沈み始めた。
最初は小さな揺れだった。だが、それは瞬く間に地中から響く轟音へと変わり、水たまりも木々も土砂もまとめて呑み込みながら、崩壊が周囲へ広がっていく。
「……っ!」
ユウは反射的に跳んだが、着地した地面にも亀裂が走り、雨で緩んだ土が崩れ落ちる。崩壊は森全体を飲み込むように広がり、木々は根元から引きちぎられるように倒れていった。
跳ね上がる泥水が視界を遮り、どこまでが地面で、どこからが奈落なのかさえ分からない。
「くそっ……!」
ユウは走り出す。雨で足を取られるうえ、踏み込んだ地面まで次の瞬間には崩れ落ちかねず、まともに信用できる足場などどこにもなかった。
その背後で轟音が響く。
ドォンッ――!
振り返った先で地面そのものが抜け落ちていた。雨水も木々も土砂も、すべてが黒い裂け目へ吸い込まれていく。
(まずい……!)
ただ地面が崩れているんじゃない。森そのものが沈み始めている。最後に見た男の笑みが脳裏をよぎり、自分ごとこの一帯を道連れにするつもりだったのだと悟った。
(逃げるしかない!)
《加速》が頭をよぎる。だが、残っているMPは僅かしかない。今使えば、逃げ切る前に力尽きる可能性がある。
(……いや、駄目だ)
ユウは《加速》を使うのを諦め、亀裂を飛び越えながら森を駆ける。着地するたびに足元へ新たなひびが走り、背後では土砂や木々を呑み込みながら崩壊が広がっていく。
振り返っても、そこに男の姿はもうなかった。降り続く雨さえ呑み込むように口を開けた巨大な裂け目だけが、森の奥へと広がっている。
ユウは荒い息を吐きながら、それでも足を止めずに走り続ける。そんな中、ふと先ほどの男の異様な姿が脳裏に浮かんだ。
(……人間、なのか?)
褐色の肌に左右で色の違う瞳、頭から伸びた二本の黒い角――少なくとも、ユウがこれまで知っている人間とは明らかに違っていたが、この世界に人間以外の種族がいることなどユウは知らない。
(……考えても分からないか)
「……結局、あいつは何者だったんだ……」
答える者はいない。崩れ続ける大地の轟音と降り続く雨音だけが、まるで世界の終わりを告げるように森へ響いていた。
ーーー
どれだけ走っても崩落の轟音は遠ざからず、振り返れば黒い裂け目がなおも大地を呑み込み続けていた。まるで森そのものが沈んでいくようだった。
(……広すぎるだろ。森一つ沈めるつもりだったのか、あいつ……)
足元が割れるたび、ユウは反射的に飛び退きながら走り続ける。
(……戦場のときと似てるな)
不意に、かつての戦場が脳裏に蘇った。静かだった空から次の瞬間には炎が降り注ぎ、人も陣も何もかもを呑み込みながら、世界が白く染まっていく光景――あの日も、逃げる暇などなかった。
(いや……違う)
ユウは歯を食いしばる。
(あのときは、逃げることすらできなかった)
「……はは。こんなのをマシだと思う日が来るとはな」
自嘲気味に笑いながらも、足は止めない。巻き込まれれば死ぬことに変わりはない。それでも、あの戦場とは違って、今はまだ自分の足で逃げることができる。
脳裏に浮かぶのは、姿を隠し、認識すら欺き、最後には森そのものを呑み込む崩落まで引き起こしたあの男の姿だった。
(……正面から勝てる相手じゃなかった)
勝てたのは、最後まで自分を格下だと思い込み、油断していたからだ。もし最初から本気で殺しに来ていたら、一太刀も浴びせられないまま殺されていただろう。
「姿を隠すだけじゃない。認識まで欺くとか……化け物かよ」
あれほどの力を持った相手が、この世界には他にもいるのだろうか。
(……もし、あいつみたいなのが何人もいるとしたら)
そこまで考えたところで、ユウは小さく息を吐いた。今さら考えたところでどうにもならない。今はただ、生き残ることだけを考えるしかなかった。
(……運が良かった。それだけだ)
喉の奥が渇く。戦いの余韻が残っているからではない。自分がどれほど危うい綱渡りの末に生き残ったのかを、今になって実感していた。
(……あんなやつとは、もう二度と戦いたくねぇな)
そう思った直後、再び大地が大きく沈んだ。
「ふざけるな……! いつまで続くんだよ!」
ユウは崩落の縁から無理やり飛び出し、不安定な足場へ着地すると、そのまま前だけを見て走り続ける。どこまで逃げればいいのか分からない。それでも足を止めれば呑み込まれる――そんな確信だけを胸に、背後の轟音を聞きながらひたすら走った。
――それから、どれほど走っただろうか。
「はぁ……はぁ……もう、収まったのか……?」
崩落地帯を抜けると、ようやく足元が安定した。その途端、張り詰めていた緊張が切れ、全身に重い疲労が押し寄せる。
(……このまま無理したら、本当に動けなくなる)
ユウは荒い息を吐きながら歩調を落とし、休めそうな場所を探して周囲を見回した。森の中が安全とは思えないが、このまま進み続ければ先に身体が限界を迎える。
崩落の影響が薄れた森をしばらく進むと、やがて木々の向こうに一本の道が見えた。
「……道か」
ユウは道の先へ目を向ける。
「人が通る道なら……村か、街に繋がってるかもしれないな」
呼吸を整えながら空を見上げ、雲の切れ間から覗く太陽の位置を確かめる。しばらく道の左右を見比べたあと、ユウは片方へ視線を向けた。
「……こっちにするか。方角もたぶん合ってる。外れても、森を歩き回るよりはマシだ」
根拠らしい根拠はなかったが、当てもなく森を彷徨い続けるよりは遥かにいい。そう判断し、ユウは雨の降り続く道へ足を踏み出した。
しばらく歩いたところで、腕や脇腹、背中に鈍い痛みが走り、ユウは顔をしかめた。
「……そういや、結構あちこち斬られてたな」
崩落から逃げることに必死で忘れていたが、肩や太腿、背中にはいまだに血が滲み、逃げる途中についた傷も重なって全身が痛んでいた。走っている間は気にする余裕もなかったが、足を止めた途端、押し込めていた疲労と痛みが一気に押し寄せてくる。
ユウは傷口を見下ろし、思わず苦笑した。
(……思ったよりボロボロだな)
近くの大木の根元に腰を下ろし、革袋から包帯を取り出すと、傷口を確かめながら一つずつ巻いていく。応急処置にすぎないが、傷を覆うだけでも少し気が楽になった。
包帯の端を押さえながら、ユウは雨の向こうへ目を向ける。雨は相変わらず降り続き、道の先は白く霞んでいた。
(この状態で、街まで行けるか……)
少しだけ休みたい気持ちはあったが、いつまでもここに留まっているわけにもいかない。
(……休んでる場合じゃないな)
ユウは重い身体を起こし、再び道の先へ歩き出した。
雨の向こうに何が待っているのかは分からない。それでも、今はこの道を進むしかなかった。
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■ とある村長の記憶
最初は、ただの不作だった。
雨が少ない年は珍しくない。畑が痩せても、少し耐えれば次の季節には戻る――私はそう思っていた。
だが、雨は戻らなかった。
畑は枯れ、収穫は減り、倉も日に日に空になっていった。そんな状況にもかかわらず、税だけは例年と変わらず徴収にやってきた。
「今年の税は、これだけ納めてもらう」
役人が淡々と告げる。
「……今年は、ほとんど収穫がない。これだけの額、とても払える状況じゃない」
「事情は分かっている。だが、こちらも決められた額を徴収するしかない」
「なら、払えない分はどうすればいい」
「……来年に持ち越すか、別の方法を考えてくれ」
「別の方法って……」
それ以上、役人は何も言わなかった。
村からは、少しずつ人が消えていった。夜のうちに村を出る者もいれば、家族を残したまま戻らなくなる者もいて、昨日まで人の気配があった家が、朝には空っぽになっていることも珍しくなくなった。
名前を呼んでも、返事はない。
ただ、村の静けさだけが増えていった。
次に来たのは盗賊だった。
持っていくものなど、もうほとんど残っていない。それでも彼らはやって来た。抵抗する力もなく、奪われるままに村はさらに荒れていった。
私は何度も書状を出した。
飢饉の報告、治安の悪化、住民の減少――そして、助けを求める言葉を何度も書き綴った。
だが、返事は一度もなかった。届いているのか、それすら分からない。
そんなある日、村人の一人がぽつりと口にした。
「……もう、ここにいても仕方ないだろ」
私は黙って、その男を見つめた。
「畑も駄目だ。食べるものもない。税は来るし、盗賊まで出る……もう、この村には何も残ってない」
返す言葉がなかった。
「……村長。俺たち、もう出ようと思う」
私はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……そうか」
引き止めることなど、できなかった。この村に残る理由を、私自身がもう見つけられなかったのだから。
夜になり、私は倉庫を覗いた。食料も、種も、売れるものも何一つ残っていない。かつて村の暮らしを支えていた場所も、今では空っぽだった。
村は、もはや人が暮らす場所ではなかった。誰かが去り、誰かが倒れ、それでも帰ってくる者はいない。そんな日々が続くうちに、最後に残ったのは私と数人の村人だけになった。
だが、その数人も次第に口を開かなくなり、互いに目を合わせることすらなくなっていった。
そこで、私はようやく気づいた。
この村は、もう守るべき場所ではない。ただ、終わりを待っているだけなのだ。
その夜、私は村を歩いた。家々には灯りがなく、かつて子どもたちの声が響いていた広場も静まり返っている。
そして、村の外れにある大木が目に入った。昔は村人たちが集まる場所だったが、今ではその枝からいくつもの縄が下がり、その下にはすでに何人もの村人がいた。
私はしばらく、その光景を見つめていた。驚きはなかった。悲しみすら、もう残っていない。ただ――ああ、ここまで来てしまったのか、と、そんな思いだけが胸に浮かんだ。
私は大木の根元に立ち、最後にもう一度だけ村を振り返る。暗闇に沈んだ村には、もう誰もいなかった。
「……いつからだったんだろうな」
村長として、この場所を守ろうとしていた。それなのに、気づけば守るべきものは何一つ残っていなかった。
私は静かに目を閉じる。
そして、そのまま暗闇の中へと足を踏み出した。
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いただいたリアクションやコメントが、いつも執筆の励みになっています。これからも楽しんでいただけるよう頑張りますので、引き続きよろしくお願いします!




