姿なき襲撃者
今回短いです
雨は絶え間なく森を叩いていた。
ユウは目を閉じたまま、短剣を構えている。先ほど掴んだ男の位置は、まだ分かる。気配そのものは薄いが、雨の流れや空気の僅かな乱れを追えば、そこにいることだけは感じ取れた。
「……もう探す必要はない、か」
雨音の向こうから、男の声が響く。
「ずいぶんと自信があるようだな。たかが勘を掴んだ程度で、私を捉えたつもりになっているとは……面白い」
ユウは答えず、短剣を握る手に力を込める。
「ならば、その自信がどこまで続くか見てみるとしよう」
男の気配が、ふっと薄れた。
(……どこだ)
ユウは目を閉じたまま、周囲へ意識を広げる。さっきまで感じ取れていた気配が、雨音や風に紛れるように遠ざかっていく。
(……どこから来る)
一瞬、何も掴めなくなる。だが、完全に消えたわけではない。雨の流れが僅かに乱れ、右側の空気がほんの少しだけ押し退けられたことで、ユウはその微かな違和感を捉えた。
(……右!)
直後、右から刃が迫る。ユウは咄嗟に身体を捻って紙一重でかわしたが、刃が腕を掠めて皮膚を裂き、血が飛んだ。
「……っ!」
痛みに顔をしかめながらも、ユウは怯まず踏み込み、斬撃が来た方向へ短剣を振り抜いた。キィンッ!! 甲高い金属音が森に響き、ぶつかった刃を弾いた確かな手応えが手に返ってくる。
「ほう。見えていないわりには、よく合わせたな」
「……全部は無理だ。でも、さっきよりは分かる」
腕から血を流しながらも、ユウは構えを崩さない。その様子を見て、男は小さく笑った。
「そうか。なら、もう少し速くしてみるか」
次の瞬間、男の気配が再び薄れた。
ユウは動かず、目を閉じたまま周囲へ意識を広げる。雨音や風の流れ、その僅かな乱れを追いながら気配を探るが、先ほどよりもさらに捉えにくい。
(……どこだ)
焦るな。ほんの僅かな変化でもいい。そう自分に言い聞かせながら感覚を研ぎ澄ませていると、右側にかすかな違和感が生まれた。
(……そこだ!)
ユウが踏み込んだ瞬間、背後から殺気が走る。
(……違う!)
咄嗟に身体を捻ったものの間に合わず、刃が脇腹を浅く裂いた。血が雨に流れ落ち、ユウは痛みに顔を歪めながら数歩後ろへ下がる。
「ぐっ……! ……やっぱ、そう簡単にはいかねぇか」
脇腹を押さえながら息を整える。
男の姿は、まだ見えない。それでも、先ほどまでのように一方的に斬られているわけではなかった。攻撃の瞬間だけは、わずかに気配を捉えられる。
(……少しずつだ)
ユウは短剣を握り直し、次の瞬間に走った気配へ迷わず刃を振り抜いた。キィンッ!! 激しい金属音が森に響き、打ち合った刃の向こうに、一瞬だけ男の輪郭が浮かび上がる。
「……ほう。なかなかしぶといな」
男はすぐに距離を取り、口元をわずかに吊り上げた。
「……簡単にはやられねぇよ」
「そうか」
男の声に、先ほどまでとは少し違う響きが混じった。
「なら、これはどうだ?」
言葉が途切れた直後、左右から風を切る音が走り、ユウが反射的に身を屈めると、二本の短剣が頭上を通り過ぎ、そのまま背後の木へ深々と突き刺さった。
「……短剣まで投げてくるかよ」
一瞬だけ背後へ視線を向けた、その直後、正面から鋭い気配が迫る。
「……っ!」
咄嗟に身体を捻ったものの、刃が頬を掠めて薄く血が滲む。ユウはそのまま距離を取り、頬を伝う血を手の甲で拭った。
「どうした? さっきまでの威勢はどこへいった?」
「……うるせぇよ。まだ終わってねぇだろ」
ユウは短剣を構え直して再び目を閉じ、雨音や風の流れ、木々の揺れる音へ意識を向けながら、その中から男の存在だけを探っていく。焦りを抑え、僅かな変化も見逃さないよう感覚を研ぎ澄ませていると、しばらくして感覚の端にほんの僅かな違和感が触れた。
(……今のは)
雨の流れが一瞬だけ乱れ、空気が何かに押し退けられたような、ごく小さな変化が生まれる。
(……そこだ!)
ユウは迷わず地面を蹴り、《加速》と《身体強化》を発動して一気に距離を詰め、その勢いのまま感じ取った気配へ短剣を振り抜いた。
「――っ!?」
初めて、男の声に驚きが混じる。
ガキィンッ!!
激しい金属音が洞窟内に響き、見えない何かとぶつかった刃から確かな手応えが返ってきた。その一瞬だけ、これまで捉えられなかった男の位置がはっきりと浮かぶ。
「……捕まえたぞ!」
ユウは間髪入れずに踏み込み、短剣を握ったまま魔力を叩き込む。
「《バインド》!」
身体の奥から一気にMPが引き抜かれ、見えない拘束が男の身体へ絡みつく。男が拘束を振りほどこうともがくより早く、ユウは短剣を両手で握り直し、そのまま渾身の一撃を振り下ろした。
「なっ……!? 拘束魔法だと!?」
「終わりだ!」
刃が男の身体を捉えた。
だが、斬り裂く寸前、男の身体が大きく歪む。拘束を無理やり引き千切りながら身を捻ったことで刃は急所を外れ、それでも避けきれなかった一撃が腹部へ深々と食い込んだ。
「ぐ……っ!」
男が後退するが、ユウは逃がさない。すぐさま踏み込んで距離を詰め、退路を塞ぐように刃を押し込む。
「ふざけるな……! この私が……こんな小僧に……!」
初めて男の声から余裕が消えた。ユウは答えず、そのまま首へ狙いを定めて短剣を振り抜く。しかし、刃が届く寸前に男が身体を大きく捻ったため、短剣は首を外れ、代わりに腹部へ深々と食い込んだ。
「……馬鹿な……」
男は傷口を押さえながら数歩よろめき、そのまま膝をつく。腹から流れ出た血が雨に洗われ、泥の上へ赤い筋を描いていくと、同時に周囲を覆っていた妙な違和感も消え、ぼやけていた男の姿が少しずつ鮮明になっていった。
ユウは思わず息を呑む。目の前に現れたのは、褐色の肌に左右で色の違う赤と金の瞳、そして頭から伸びる二本の黒い角を持つ、明らかに人間ではない姿だった。
(……なんだ、こいつ……)
目の前にいるのは、どう見ても人間ではなかった。
「ありえん……」
男は腹を押さえたまま、信じられないものを見るようにユウを見上げる。
「私が……こんな場所で……こんな小僧に……」
血の混じった息を吐き、しばらく泥へ視線を落としていた男は、やがてゆっくりと顔を上げる。ユウは短剣を構えたまま、一歩も動かない。
「……はは。分からんな。十歳そこらのガキが、あれだけの魔法を使うだけでも妙だというのに……詠唱すらしていなかった。あれは、どういうことだ?」
ユウは答えない。男はそんなユウの様子をしばらく眺めていたが、やがて小さく笑った。
「……まあいい。今さら聞いたところで、答えるつもりはなさそうだ」
それ以上は追及せず、男は自分の胸元へ手を伸ばした。
泥と血に濡れた指が服の内側を探り、何かを掴む。何度か手を滑らせながら、ようやく引きずり出したのは、拳ほどの大きさをした黄色い石だった。
雨に打たれているはずなのに、石だけは不自然なほど乾いている。その表面には淡い光が滲み、内部で何かが脈打つように揺らめいていた。
「……こんなところで、これを使うことになるとはな」
男は石を眺め、苦々しげに笑う。
「まったく……最後の最後まで、面倒をかけてくれる」
そう呟きながら、石を強く握り締める。
掌の隙間から漏れた光が、濁った色へと変わっていく。淡い輝きは次第に強まり、まるで石そのものが鼓動しているかのように、一定の間隔で明滅を繰り返した。
(……なんだ、あれ)
ユウは短剣を構えたまま、男が握る石から目を離せなかった。石なのかどうかすら分からない。見たことのない黄色い石から、肌を這うような異質な気配が滲み出ている。
(……あれを使わせちゃいけない)
理由は分からない。ただ、身体の奥から湧き上がる嫌な感覚だけが、あの石を警戒していた。
「小僧。まだ勝ったと思うなよ」
男が石を強く握り締めると、濁った光が激しく脈打ち、低く不気味な鼓動が雨音に混じって響いた。
(……まずい)
ユウは反射的に身構えた。
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■ とある歴史学者の記憶
今から数百年前、人々はその時代を「魔道時代」と呼ぶ。
もっとも、それは後世の人間が付けた呼び名であり、当時の人々がそう認識していたわけではない。彼らにとって魔法は特別なものではなく、火を起こし、水を汲み、夜を照らす、生活の一部に過ぎない技術だった。
現代では火球を生み出せるだけでも一流の魔法使いとされる。しかし当時は違った。街灯は魔道具で灯り、馬車は魔力で動き、農地には成長促進の術式が刻まれていたと伝えられている。
それが事実かどうかは、もはや断言できない。
なぜなら、その時代の記録の大半が失われているからだ。
戦争、災害、国家の滅亡、そして宗教的な焚書。理由はいくつもある。数百年という時間は、人が思う以上に多くのものを奪っていく。
現代の魔道時代像は、砕けた石碑や欠けた羊皮紙の断片を繋ぎ合わせて再構成した想像に過ぎない。本当の姿を知る者は、すでに存在しないのだ。
特に大きく失われたのは、魔物に関する記録である。
現在確認されている魔物の多くは下級種だ。ゴブリン、グレイウルフ、ローラビット、オーク。いずれも繁殖力が高く、生存能力に優れた存在として知られている。
だが古い文献には、それらとは比較にならない存在が数多く記されている。
ドラゴン、フェニックス、海王種、巨人種、古代樹の精霊。
現代では伝説や童話として語られる存在ばかりだ。
多くの学者は、それらを絶滅したと結論づけている。確かにその説には合理性がある。魔道時代、上級魔物の素材は極めて高価だった。鱗は鎧に、骨は杖に、心臓は触媒に、血液は高位魔術の材料となる。狩られ続ければ滅びる。自然な結論だろう。
だが私は、その説に納得していない。
数百年前には空を覆うほどのドラゴンがいたという。山を歩く巨人がいたという。海を渡る島ほどの魔獣がいたという。
そんな存在が、本当に一匹残らず消えるだろうか。
私はそうは思わない。
人が未踏と呼ぶ山脈、地図にない大森林、誰も帰還したことのない海域、禁域と呼ばれる古代遺跡。世界には、いまだ人類の知らない領域が数多く残されている。
だから私は信じている。今この瞬間も、誰も知らない空の彼方で、誰も踏み入れたことのない山の頂で、あるいは深海の底で、最後の一匹が生きているのではないかと。
学者としては失格かもしれない。証拠もなければ記録もない。だが歴史というものは、不思議とロマンを捨てきれないのだ。
だから今日も私は古い文献をめくり、埃まみれの遺跡を掘り、笑われながらも調査を続けている。
もし本当にドラゴンが生き残っているのなら、その発見は歴史そのものを変えるだろう。もっとも、私が生きている間に見つかるとは思っていない。
それでも構わない。
歴史学者とは結局のところ、「もう誰も信じなくなった可能性」を追い続ける生き物なのだから。
見返してみたら、思ったより短かったです。
書いているときはもっと長く感じていたんですが……あれ?




