透明な殺意
洞窟の前に広がる斜面は雨でぬかるみ、倒れたゴブリンの残骸も泥にまみれていた。ユウは岩陰へ腰を下ろして短剣を鞘に収めると、重くなった身体を休ませるように深く息を吐いた。
「……さすがに疲れたな」
昨日は血魔石との戦いがあり、その直後にはアンデッドまで相手にした。身体は鉛のように重く、今すぐもう一度戦えと言われても、とても動く気にはなれない。
ユウは降り続く雨の向こうへ目を向け、先ほどまで襲いかかってきたゴブリンの死体を眺めた。
「……あいつら、何だったんだ?」
普通のゴブリンなら、あれほど身体を壊されれば動けるはずがない。それなのに、死んだはずのゴブリンたちは痛みも恐怖も感じていないかのように、ただユウへ向かってきた。
(……この世界じゃ、死体が動くなんてこともあるのか?)
異世界なのだから、地球ではありえないようなことが起きても不思議ではない。そう考えかけたものの、ユウはすぐに眉を寄せた。
(いや、それにしても妙だ。あれじゃ、まるで何かに操られているみたいだった)
「……誰かが動かしてたのか?」
何気なく漏らしたその言葉に、雨音の向こうから低い声が返ってきた。
「ほう。そこまで気づいたか」
「……っ!」
ユウは反射的に立ち上がり、短剣へ手をかけた。声のした方向を探るように周囲を見回すが、雨に煙る斜面には人影ひとつ見当たらない。
「なら、教えてやろう。あれを動かしていたのは――私だ」
「……お前が?」
「ああ。死んだあとも、よく働いてくれたよ」
男は愉快そうに笑ったが、すぐに声を低くした。
「それにしても、よくも壊してくれたものだ」
ユウが足元へ目を落とすと、泥にまみれた血魔石の欠片が転がっていた。
「……これのことか?」
「そうだ。何年もかけて、ようやく使えるところまで仕上げたというのに……」
男は悔しそうに息を吐いた。
「魔道時代の遺跡で見つけたときは、何に使うものなのかも分からなかった。そこから調べて、何度も試して……ようやく治癒の力を引き出せるようになったんだ」
淡々とした口調だったが、その奥には費やした年月への執着が滲んでいた。
「魔物の血も、同族の血も使った。失敗を繰り返しながら、ようやく完成させたものだった。それを貴様は、あっさり壊してくれたな」
「……それは残念だったな」
「本気で残念だと思っているようには聞こえんな」
「別に、お前のために壊したわけじゃないからな」
「ふっ、違いない」
男は小さく笑うと、周囲に転がるゴブリンの死体へ目を向けた。
「まあ、失ったものをいつまでも惜しんでも仕方がない。こいつらも、もう使い物にはならんだろう」
「……やっぱり、あいつらもお前が動かしていたんだな」
「ああ。死体は便利でいい。命令に逆らわないし、痛みも恐怖もない。多少壊れたところで、動くなら問題はないからな」
ユウは泥にまみれたゴブリンたちを見やった。ついさっきまで自分へ襲いかかってきた相手だが、今となってはただの残骸にしか見えない。
「……死んだ奴まで、道具扱いかよ」
「何か問題でもあるか?」
男の声には、悪びれる様子など少しもなかった。
「死んだ者が何を思う? もう何も感じないんだ。残された身体をどう使おうが、構わんだろう」
「……そういう考え方もあるんだな」
ユウは不快感を覚えながらも、それ以上は言い返さなかった。目の前の男に、死者を冒涜しているという自覚がないことは明らかだった。
「まあ、いい。それよりも……貴様のほうが気になるな」
男の声が変わった。
「さっきの浄化魔法だ。あれほどの力を使える人間は、そう多くない」
ユウは答えず、短剣を握る手にわずかに力を込めた。
「それも、あれだけの数を相手にしながら何度も使っていたな。セレニア聖王国なら、浄化師として声がかかっていてもおかしくないほどの腕だ」
「……だったら、何だよ」
「いや、単純に不思議でな。これほどの力を持ちながら、なぜこんな森の奥にいる?」
男は雨の向こうからユウを観察するように、言葉を続けた。
「この森にはゴブリンの群れをいくつも置いていた。普通の人間なら、ここまで来ることすら難しい。それを突破したうえに、死体になったゴブリンまで相手にして、浄化魔法も使いこなす。……どう考えても、ただの子供には見えんな」
ユウが口を閉ざしたままでいると、男は追及することなく、くつくつと笑った。
「まあ、無理に聞き出す必要もないか」
その声から、先ほどまでの気軽さが消えていく。
「貴様が何者なのかは、話を聞くより直接確かめたほうが早そうだ」
瞬間、空気が張り詰めた。
鋭い殺気が背筋を走り抜け、ユウは反射的に身を横へ投げ出す。直後、さっきまで立っていた場所の地面が大きく弾け飛び、泥が雨とともに跳ね上がった。
「……っ!」
何が起きたのか理解するより早く、ユウは着地と同時に数歩後ろへ下がって短剣を構え直した。そこでようやく太ももの脇に鋭い痛みを感じ、裂けた布の隙間から血が滲んでいることに気づく。
浅い傷だ。だが、それよりも――どこから攻撃されたのか、まるで分からない。
「今のを避けるか」
雨音の向こうから男の声が響いた。ユウは咄嗟に振り返ったが、そこにも人影はない。濡れた斜面と、雨に煙る森が広がっているだけだった。
「姿を隠してんのか?」
「隠しているわけではない。姿を消しているわけでもない。ただ、少しだけ存在の位相をずらしている」
「……は?」
「そこにいる。だが、お前には捉えられない。それだけだ」
意味が分からない。ユウは短剣を構えたまま、雨に煙る斜面へ視線を走らせる。それでも、どれだけ探しても男の姿は見つからなかった。
「……まあ、言葉で説明しても分かりにくいか」
男の声がふっと途切れた次の瞬間、すぐ右から「こういうことだ」と声が響き、ユウが反射的にそちらへ顔を向けるが、そこには誰もいない。
直後、左肩の後ろに鋭い痛みが走った。
「……っ、いっ!」
ユウは咄嗟に前へ飛び退き、肩を押さえる。指先にぬるりとした血が付いた。
「どうだ? 少しは分かったか?」
またしても、男の声がどこからともなく響く。ユウは荒くなりかけた呼吸を整えながら周囲を睨み回した。姿は見えない。だが、今の攻撃で一つだけ分かった。
「……見えないんじゃなくて、認識できないってことか」
「理解が早いな」
「だったら――見えなくても、当てりゃいい」
ユウは目を閉じることなく、周囲へ意識を広げた。《気配察知》に集中し、雨を叩く音や風に揺れる木々のざわめき、足元で泥が沈む感触まで、周囲のわずかな変化を拾っていく。
さらに《集中強化》を重ね、余計な情報を頭の中から削ぎ落としながら、男の気配だけを探った。
(……いる)
ほとんど何も感じない。だが、何もないはずの空間に、ほんのわずかな引っかかりがあった。
(……あっちだ)
確信なんてない。それでも、今はそれに賭けるしかなかった。
ユウは迷わず地面を蹴り、感じ取った違和感へ向かって短剣を振り抜く。刃が何かを捉え、手にわずかな手応えが返ってきた。同時に、目の前を黒い布の切れ端がひらりと舞い、泥の上へ落ちる。
(……当たったか?)
「まぐれにしては、よく当てたものだ」
声が背後から響いた。ユウが振り返るより早く、背中に強い衝撃が叩き込まれ、身体が前へ大きくよろめく。
「ぐっ……!」
倒れそうになるのを踏ん張りながら振り返るが、やはり男の姿はない。ようやく一度は攻撃を当てた。それでも相手は姿を見せることなく、こちらの隙を突いて好きな場所から攻撃してくる。
(このままじゃ、先にこっちが削り切られる)
ユウは荒くなりかけた呼吸を整え、短剣を構えたまま周囲へ意識を張り巡らせた。
「趣味悪ぃな。こうやってチマチマ削るのが好きなのか?」
「そうでもない。貴様が必死になっているのを見るのが面白いだけだ」
男の声がすぐ近くから聞こえたかと思えば、今度は背後へ、そしてまた別の場所へと移っていく。
「右を向けば左から斬られ、左を向けば背後から斬られる。なかなか愉快だろう?」
「……どこがだよ」
「私は楽しいがな」
雨の中に男の笑い声だけが響く。悪びれる様子はなく、こちらが追い詰められていることすら楽しんでいるようだった。
「……性格まで終わってんな」
「今さら気づいたのか?」
ユウはそれ以上言い返さなかった。短剣を握り直し、ゆっくりと目を閉じる。
(見えないなら――目に頼るな)
一度だけ深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。《集中強化》で研ぎ澄まされた意識をさらに広げ、雨音や風の流れ、足元の泥を叩く雨粒の振動まで拾い上げながら、その中に混じる僅かな変化を探っていく。
だが、いくら意識を集中させても男の位置だけは掴めない。
(……もっとだ)
音だけではない。空気の流れ、雨粒の落ち方、地面を伝わる振動――周囲で起きているすべてを一つの情報として捉えようとした、その瞬間だった。
《スキル:空間知覚を取得しました》
《周囲の空間の変化を敏感に察知し、気配や空気の流れ、物体の位置を把握しやすくなる》
(……っ!?)
次の瞬間、ユウの中で何かが切り替わった。
目を閉じているはずなのに、周囲の空間が別の形で浮かび上がってくる。木々の位置も、地面の起伏も、降り注ぐ雨の流れさえも、まるで見えているかのように感じ取れた。
そして、その中にわずかな歪みがある。
(……いた)
姿そのものは見えない。それでも、降り注ぐ雨の流れが僅かに乱れ、そこだけ空気が押し退けられている。その微かな違和感を辿っていくと、何もないはずの空間に、確かに何かが立っているのが分かった。
(……ようやく、掴めた)
男の位置が分かる。それだけで十分だった。
「……何をしている?」
雨音の向こうから、男の声が響く。
「目を閉じたところで、私の姿が見えるわけではないだろう。それとも、そんなことで私を探しているつもりか?」
ユウは答えず、目を閉じたまま短剣を握り直した。口元に、ほんの僅かな笑みが浮かぶ。
「……もう、探す必要はねぇよ」
雨に紛れるほど僅かな空気の揺らぎを、ユウは確かに捉えていた。




