死者は眠らない
砕けた核を見つめながら、ユウはしばらく動かなかった。
戦いが終わったことで、洞窟を満たしていた異様な圧迫感もすっかり消えている。張り詰めていた緊張が途切れた途端、今まで押し込めていた疲労が一気に押し寄せてきた。
「……さすがに限界か」
小さく呟き、ユウは周囲を見回した。血に濡れた地面はとても横になれるような場所ではないし、死体の近くで眠る気にもなれない。それでも、今は立っていることすら億劫だった。
幸い、周囲から新たな気配は感じられない。
「……少しだけ、休むか」
ユウはできるだけ血の少ない場所を選び、壁へ背を預けた。短剣を手元に置いたまま目を閉じると、張り詰めていた意識がゆっくりと沈んでいった。
♢
そして――気づけば、朝になっていた。
洞窟の入口から差し込む薄明かりの中でユウは目を覚まし、外から響く雨音に耳を傾けながら、重い身体を起こした。
「……寝ちまったか」
昨日の戦闘でHPもMPも大きく削られ、身体のあちこちにはまだ傷が残っている。幸い、周囲から危険な気配は感じられなかったため、ユウは今日はここで休むことにした。
「……少しは回復させとかねぇとな」
《即時回復》を発動すると、淡い光が身体を包み込み、残っていた傷と疲労が少しずつ癒えていく。完全に元通りとはいかなかったが、これなら動くには十分だろう。
集めておいた小枝へ火を点け、ユウは小さな炎を眺めながら壁へ背を預けた。しばらく雨音と薪の爆ぜる音だけを聞いていると、不意に遠い記憶が脳裏をよぎる。
舞い上がる土煙。耳をつんざく爆発音。飛び交う怒号。その中を必死に駆け抜ける自分の姿と、空から降り注ぐ赤い炎――。
「逃げろ!」
誰かの叫び声と同時に凄まじい衝撃が身体を吹き飛ばし、景色がぐるりと反転する。
――そこで、記憶は途切れた。
「……あの時も、立ち止まる暇なんてなかったな」
一瞬だけ母の笑顔が脳裏に浮かんだが、ユウは小さく息を吐き、ゆっくりと首を横へ振った。
「……今さら考えても仕方ねぇか」
ユウが炎へ視線を戻した、その直後だった。雨音に混じって、何かを引きずるような音が遠くから聞こえてくる。
ザッ……ザッ……。
「……ん?」
ユウは顔を上げ、洞窟の入口へ目を向ける。音は少しずつ近づいているのに、《気配察知》にはほとんど何も引っかからない。
「……なんだ、この感じ」
警戒しながら短剣へ手をかけた瞬間、風に乗って腐臭が流れ込んできた。
「……嫌な予感しかしねぇ」
雨の向こうで揺れていた人影が、ゆっくりと近づいてくるにつれて、その異様な姿が少しずつ浮かび上がってきた。
足を引きずっているのに倒れる気配はなく、身体も不自然な方向へ傾いている。それでも何かに操られているかのように、影は止まることなくこちらへ歩き続けていた。
「……マジかよ」
姿を現したのは、一体のゴブリンだった。
関節はあり得ない方向へ曲がり、片腕は千切れかけ、雨に濡れた肉は崩れて骨を晒している。生きているとは到底思えない姿だった。
それでも、そのゴブリンは止まらない。
さらに雨の向こうから、同じような影が現れる。一体、また一体と数を増やし、その中には昨日ユウが倒したはずのゴブリンの姿まで混じっていた。
「……勘弁してくれ」
思わず漏れた声を雨音へ紛らわせながら、ユウは迫ってくる死体を睨みつける。
先頭のゴブリンが間合いへ入った瞬間、ユウは迷わず踏み込んだ。短剣を肩口へ叩き込み、肉を裂いて骨へ届く確かな手応えが伝わってくる。
それでも、ゴブリンは止まらなかった。
「……やっぱり、倒れねぇか」
短剣を引き抜くと、傷口から血の代わりに黒ずんだ液体が溢れ、腐った肉片が地面へ落ちていく。それでもゴブリンは何事もなかったかのように歩き続けていた。
(……最悪だな)
腹が裂けようが、首が千切れかけようが関係ない。ただユウだけを見据え、雨の中をゆっくりと近づいてくる。
(こっちはまだ体力も戻りきってねぇってのに……厄介なのが来やがったな)
「……気持ち悪ぃな」
吐き捨てるように呟き、目の前まで迫ったゴブリンを蹴り飛ばす。死体は地面を転がったものの、すぐに腕だけで身体を起こし、何事もなかったかのようにこちらへ向かってきた。
(うわ……キモ)
ユウは思わず顔をしかめ、それでも短剣を構え直す。
「……なら、動けなくするしかねぇか」
ユウは意識を切り替えるように息を吐き、《加速》を発動する。次の瞬間、身体が一気に軽くなり、踏み出した足が先ほどまでとは比べものにならないほど速く地面を蹴った。
(よし)
一瞬で間合いを詰め、短剣を関節へ正確に叩き込む。腕を切り落とした勢いのまま踏み込み、今度は膝を断ち切った。
地面へ倒れた死体は、それでも這うように前へ進もうとする。ユウは残った関節へ次々と刃を叩き込み、すべての動きを奪ったところでようやく短剣を止めた。
「……関節を潰せば、止まるのか」
倒し方は分かった。だが、安心する暇はなかった。
雨の向こうから、また一体の影が現れる。その後ろからも、さらに一体、また一体と腐った死体が姿を現し、途切れる気配がない。
「……まだ来んのかよ」
ユウは短剣を握り直し、迫ってくる死体を睨みつけた。
(休ませてくれる気、ねぇのかよ……)
そのとき、頭の奥を何かが掠めるような感覚が走り、視界の端に見慣れた文字が浮かび上がった。
《スキル:浄化を取得しました》
《穢れ・呪い・アンデッド由来の異常を浄化する》
「……浄化?」
表示された効果を一瞥し、ユウは目の前へ視線を戻す。新たなゴブリンがすでに迫ってきていた。詳しく確認している暇はない。
(アンデッド由来の異常……ってことは、こいつらにも使えるのか?)
そう考えた瞬間、頭の中に《浄化》の使い方が自然と浮かんできた。
「……なるほどな」
ユウは短剣を握り直し、迫ってくる死体へ刃を向ける。
「試してみるか」
《浄化》を発動した瞬間、身体の奥から何かが抜けていくような感覚とともに、短剣の刃へ淡い白い光が宿った。ユウはそのまま刃を振り抜く。
触れたところから腐敗した肉体が崩れ、黒い塵となって雨の中へ消えていった。
「……効いたな」
関節を潰すより、こっちのほうがずっと楽だ。
だが、まだ終わりではない。雨の向こうから、さらに死体が姿を現している。ユウはステータスを確認し、減っていた魔力に眉をひそめた。
(……魔力、結構持っていかれるな)
一体ずつ《浄化》していたら、こっちのMPが先に尽きる。なら、まず動きを止めてから使うしかない。
ユウは泥を蹴って踏み込み、迫ってきた一体の膝へ短剣を叩き込んだ。鈍い音とともに骨が砕け、死体が地面へ崩れ落ちる。そのまま短剣を突き立てる。
「《浄化》」
白い光が刃を包み込み、腐った肉体を内側から呑み込んでいく。死体は抵抗する間もなく崩れ、黒い塵となって雨の中へ消えていった。
「……やっぱ、かなり持っていかれるな」
ユウは短剣を握り直し、降り続く雨の向こうに残った三体を見据える。
(使う相手は選ばねぇとな)
ユウは雨でぬかるんだ地面を蹴り、先頭の死体へ一気に距離を詰めた。関節へ刃を突き込み、腕を切り落とした勢いのまま蹴り飛ばして地面へ転がす。
すぐさま次の一体へ向き直り、振り下ろされた腕を身を屈めてかわす。そのまま懐へ入り込み、膝へ短剣を叩き込んだ。
「……ったく、しつこいな」
動きを失った死体へ《浄化》を使うと、白い光が身体を包み込み、腐った肉体が次々と崩れて黒い塵へ変わっていく。
残るは一体。
最後の死体は、ふらつきながらも真っ直ぐユウへ向かってくる。ユウは短剣を構え、その動きを見極める。
「……お前で最後だ」
踏み込んだ瞬間、死体の腕が振り下ろされた。ユウは身体を横へ滑らせてかわし、そのまま背後へ回り込むと、膝の関節へ短剣を突き込む。
身体が崩れたところへ刃を突き立てる。
「《浄化》」
白い光が一気に広がり、腐敗した肉体を包み込む。次の瞬間、死体は形を失い、黒い塵となって雨の中へ消えていった。
洞窟の入口には、降り続く雨音だけが残る。
ユウは短剣を構えたまましばらく周囲を見回し、もう敵の気配がないことを確かめると、ようやく息を吐いた。
「……やっと静かになったな」
短剣を鞘へ収め、ユウは重い足取りで洞窟の奥へ戻った。壁へ背を預けると、そのまま身体の力を抜いて目を閉じた。
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■とある吟遊詩人の記憶(風の英雄)
酒場で歌を求められると、私は決まってある物語を語る。今ではすっかりおとぎ話として語られている、遥か昔の英雄の話だ。
魔法が今よりずっと身近だった時代、一人の英雄がいた。戦場では風を自在に操り、どれほどの窮地に陥っても仲間を守り抜き、襲い来る魔物を次々と討ち倒した男で、人々は敬意と憧れを込めて、彼を「風の英雄」と呼んだ。
誰もが認める、まさに英雄だった。
だが、そんな男にも一人の人間としての人生があった。
ある日、彼は嵐の海で一人の女性と出会った。沈みかけた船を救った魔法使いだったという。
英雄は、彼女に一目で恋をした。
そこからが大変だった。周囲が呆れるほど何度も言い寄り、何度も拒絶され、ときには怒鳴られても、それでも決して諦めなかった。それほどまでに彼女を追いかけ続けた末、二人は長い年月を経て結ばれた。
笑い合い、支え合い、ときには些細なことで言い争いながら、それでも最後には同じ食卓を囲む。英雄が命を懸けて守ろうとしたものは、世界の平和などという大層なものではなかったのかもしれない。ただ、大切な人と過ごす、そんな当たり前の日々だった。
だが――その幸せは、ある冬の日に終わりを迎える。
彼女が病に倒れたのだ。
英雄は持てるものすべてを使った。金も、権力も、知識も惜しまず、名のある医師を集め、遠い国の秘薬を探し、あらゆる治療法を試した。それでも、彼女を救うことはできなかった。
最後に残されたのは、英雄の腕の中で静かに息を引き取る彼女の姿だけだった。そして――二度と、その目が開くことはなかった。
ここから先の話を語る者は、あまり多くない。
なぜなら、英雄はそこで終わらなかったからだ。
愛する者を失った男は、死者を蘇らせる禁術へ手を伸ばした。魂を呼び戻す魔法、死者の肉体を再び動かす術――人が踏み込んではならないとされていた領域へ、彼は次々と足を踏み入れていった。
世界を救うためでも、誰かに命じられたわけでもない。
ただ一人。愛した女性を、もう一度この手に取り戻すために。
その執念に取り憑かれるようにして、英雄はやがて歴史の表舞台から姿を消した。後に残ったのは、禁忌を追い続ける魔法使いの噂だけだった。
ここまで話すと、酒場では決まって誰かが尋ねる。
「その英雄は……悪人だったのか?」
そう尋ねられるたび、私は少しだけ考える。悪人だったのかもしれない。けれど、最後まで英雄だったのかもしれない。私には、そのどちらが正しいのか分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。もし彼が彼女を愛していなければ、この物語は始まらなかった。
世界を救った英雄としてではなく、たった一人の女性を愛し、その人を失ってからも忘れることができなかった男として、私はこの物語を語り継ぎたいと思っている。
それが幸福だったのか、悲劇だったのか、今となってはもう誰にも分からない。それでも、彼が最後まで彼女を愛していたことだけは、きっと誰にも否定できないだろう。
だから今日も、私はこの歌を歌う。
かつて「風の英雄」と呼ばれた、一人の男のために。




