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赤き核の亡霊

(……まさか、こいつが喋ってるのか?)


 ユウが赤黒い石を見つめた、その瞬間だった。核を包んでいた風がわずかに揺らぎ、まるで空間そのものが波打つように視界の奥がゆっくりと歪み始める。


(なんだ……?)


 何かを見せられている。そう感じた直後、世界の輪郭が崩れた。鼻を突く血の匂いが一気に濃くなり、気づけば周囲の景色は別の場所へと塗り替えられていた。


 そこは石造りの研究施設だった。壁には無数の傷が刻まれ、砕けた魔導具の残骸が床に散らばっている。ここで何か大きな惨劇が起きたことだけは、嫌でも分かった。


 その中心に、一人の男が立っていた。痩せ細った身体に黒髪を乱し、鋭い目には焦りと執着、そして長い年月で積み重なった絶望が滲んでいる。


 男の視線の先には、一人の女性が横たわっていた。


 血や土に汚れた金色の髪に、閉じられた青い瞳。それでも、その顔立ちは息を呑むほど美しく、まるで眠っているだけのような穏やかさを残していた。


 男の唇が震える。


「リシェル……」


 男はゆっくりと膝をつき、震える指先で女性の頬へ触れた。返事はない。呼吸もない。その身体はすでに冷たくなっている。


 それでも男は現実を認められないように、何度もその頬を撫でながら掠れた声で呟いた。


「待っていてくれ、リシェル……もう少しだけだ。もう少しで、必ずお前を取り戻してみせる……」


 男は何年もの歳月を費やし、失われた命を取り戻す禁忌の術を研究し続けていた。しかし、研究が完成へ近づくほど、自分の命の方が先に尽きようとしている現実を思い知らされる。


「まだ終われるはずがない……ここで諦められるものか……」


 焦燥に震える声が漏れる。あと少しだけ時間があれば届くはずだった。そう信じるように、男はさらに深い禁忌へと手を伸ばす。


 永遠の命――禁忌の果てに存在すると伝えられる、血魔石。


 男が顔を上げる。その視線の先では、赤黒い石が脈打つように揺らめき、不気味な光を放っていた。


「これがあれば……まだ研究を続けられる。何十年でも、何百年でも……そうすれば、必ずお前を取り戻せる……」


 男の視線の先には、血魔石の周囲に転がる無数の遺体があった。すべて研究の犠牲であり、血魔石を完成させるために奪われた命だった。


 本来なら目を背けるべき光景だった。それでも男はもう振り返らない。引き返せる場所など、とっくの昔に通り過ぎていた。


「今度こそ助ける……今度こそ、もう二度とお前を失わない」


 そう呟いて男は血魔石へ手を伸ばし、その指先が触れた瞬間、世界が内側から崩れた。


 骨が軋み、肉が引き裂かれ、血とは別の何かが身体の奥を逆流する。全身が別の存在へ作り替えられていくような激痛に、男は何が起きているのか理解できないまま立ち尽くした。


「……え?」


 何が起きたのか理解できないまま、男は自分の手を見つめる。指先から肉が崩れ、骨が砕け始めていた。


「待て……違う……こんなはずでは……!」


 伸ばした腕から力が抜け、身体が次々と崩れていく。


「なんでだ……! あと少しだった……あと少しで届いたはずなのに……!」


 男は必死に血魔石から離れようとする。しかし、身体はすでに自分の意思では動かなかった。


「俺はまだ死ねない……! まだ終わってないんだ……!」


 声は次第に悲鳴へ変わっていく。


「俺が死んだら……リシェルはどうなる! 誰が、お前を助けるんだ……!」


 それでも身体の崩壊は止まらない。膝から力が抜け、男の身体は泥のように地面へ崩れ落ちた。


「失敗するはずがない……こんなの、おかしいだろ……!」


 肉体が崩れ去っても、意識だけは消えなかった。切り離された魂は逃げ場を失い、そのまま赤黒い石の奥へと引きずり込まれていく。


 最後に男の目へ映ったのは、地面に横たわるリシェルの姿だった。


「待ってくれ……リシェル……」


 震える手を伸ばす。だが、指先は何も掴めないまま闇へ沈み、やがて視界は完全な暗黒に閉ざされた。


 そこには時間も空間もなく、ただ男の思考だけが残っていた。


(禁書に……魂を別の器へ移す方法が書かれていたはずだ)


(器が必要だ……血が足りない。もっと血があれば……)


(時間さえあれば研究を続けられる。そうすれば、リシェルを……)


(もう一度だけでいい……あいつに会いたい)


 同じ思考が何度も繰り返されるうちに、まともだったはずの願いは少しずつ歪んでいった。やがて残ったのは、リシェルを取り戻したいという渇望だけだった。


 そして――視界が弾けるように現実へ引き戻される。


 ユウは片膝をついたまま、荒い呼吸を繰り返していた。


 血に染まった床も、砕けかけた赤い核も、目の前の光景は何も変わっていない。ただ、頭の奥には他人の記憶を無理やり流し込まれたような重い不快感が残っていた。


「……最悪だな」


 額を押さえながら、ユウは赤い核へ視線を向けた。リシェルを蘇らせたい――その願いだけを支えに、男は禁忌へ手を伸ばし、最後には自分自身さえ失った。


「……気持ちは分からなくもねぇ。けど、それで他人を犠牲にしていい理由にはならねぇ」


 ユウはゆっくりと立ち上がり、短剣を握り直す。残された力をすべて込めるように柄を強く握りしめると、迷いなく地面を蹴って赤い核へ駆け出した。


 ――ガンッ!!


 振り下ろした短剣が核へ食い込み、その一撃を起点に無数の亀裂が一気に走った。


「……っ!」


 ユウが短剣を引き抜くより早く、核の内部から赤い光が一気に噴き出した。


 ――ドォンッ!!


 次の瞬間、赤い核は内側から砕け散り、血のような赤い粒子が周囲へ飛び散ると、そのまま光を失いながら次々と空気へ溶けていった。


 ユウは短剣を下ろし、荒い息を吐きながらその光景を見つめる。


 先ほどまで洞窟を満たしていた禍々しい気配も、身体へまとわりついていた重圧も、すべて嘘だったかのように消え、あとに残ったのは血に染まった床と、砕けた核の欠片だけだった。


(……終わったか)


 そう思った直後、砕け散った核の中心から黒い霧がゆっくりと立ち上り、人の上半身を思わせる曖昧な輪郭を形作った。


「……」


 ユウは短剣を構えたまま霧を睨みつける。敵意や殺気は感じない。それでも、消えたはずの核から何かが現れたことに、本能が警戒を促していた。


「あと少しだったんだ……あと少し、時間があれば……リシェルを……取り戻せたのに……」


 霧の中から、先ほどの男の声が響く。その声には、何十年もの間抱え続けてきた執念と後悔が滲んでいた。


「……それで、リシェルをどうするつもりだったんだ?」


 ユウが問いかけると、男はしばらく黙り込んだ。


「……決まっている。生き返らせるんだ」


「……そこまでして?」


「ああ……もう一度だけでいい。もう一度、あいつに会いたかった。笑っているところを、もう一度だけ見たかったんだ……」


 その声には怒りも憎しみもなく、ただ失ったものへ縋りつくような悲痛さだけが残っていた。ユウはしばらく黙って霧を見つめ、それから小さく息を吐く。


「……でも、もう終わったんだ」


「終わってなんか……いない」


「いや、終わったんだ」


 ユウは霧から目を逸らさず、静かに言葉を続ける。


「お前が何をしたのか、全部分かってるわけじゃねぇ。でも……誰かを助けるために、他の誰かを犠牲にした。それだけは間違ってる」


 黒い霧が大きく揺れる。


「……他の誰かを……」


 男はその言葉を噛みしめるように繰り返し、しばらく黙り込んだ。やがて霧の中に浮かぶ輪郭がゆっくりとユウへ向き直る。


「……そうか」


「……何だ?」


「まだ、終わっていない」


 先ほどまでの悲痛な声とは違い、その言葉には再び執念が滲んでいた。


「器さえあれば……まだ続けられる」


「……器?」


 ユウが眉をひそめた瞬間、黒い霧がゆらりと揺れた。


「お前なら……足りるかもしれない」


「何を――」


 問い返すより早く、黒い霧が一気に膨れ上がった。次の瞬間、それは獲物へ飛びかかるようにユウとの距離を詰め、そのまま身体へ入り込もうとする。


「っ……!?」


 その瞬間、右手が突然熱を帯びた。視界の端に文字が浮かび上がる。


《スキル:シールドを取得しました》

《物理・魔力防御障壁を生成》


 文字を見つめた瞬間、その使い方が頭へ流れ込んできた。理由は分からない。それでも、今はこれを使うしかないということだけが妙にはっきりと分かる。


 黒い霧がなおも身体へまとわりつこうとする中、ユウは反射的に右手をかざした。


「《シールド》!」


 瞬間、透明な障壁がユウの身体を包み込み、侵入しようとしていた黒い霧を激しい音とともに弾き返した。


「……なっ!?」


 大きく弾き飛ばされた霧が空中で揺らめき、ユウを包む障壁を凝視する。


「何だ、これ……」


 ユウ自身も目の前に浮かぶ障壁へ目を向ける。


「……俺がやったのか?」


「違う……そんなはずは……」


 黒い霧が震えるように揺れた。その声には、先ほどまでになかった動揺が滲んでいる。


「その結界……まさか、リシェルのものなのか?」


「リシェル?」


「あいつが最後まで使っていた結界と同じだ。間違えるはずがない……なのに、どうしてお前が……?」


「知らねぇよ。俺だって、こんなの初めてだ」


 ユウが眉をひそめた、そのとき再び視界の端に文字が浮かんだ。


《スキル:バインドを取得しました》

《対象の動作を拘束する》


 戸惑いながらも、その使い方だけは自然と理解できた。


「《バインド》」


 次の瞬間、見えない力が黒い霧へ絡みつき、その動きを強引に縛り上げる。


「待て……!」


 霧が激しくもがく。


「なぜだ……どうして、お前がそんな力まで……!」


「だから知らねぇって!」


 ユウが睨みつけると、男は答えず、砕けた血魔石へ目を向けた。しばらく残骸を見つめていたが、やがて何かに気づいたように呟く。


「……そうか。リシェルの血か」


「……リシェル?」


「あいつが死んだあとも、ここに血が残っていた。血魔石は……何十年も、それを取り込んでいたんだ」


 男の視線が、血魔石から、かつてリシェルが横たわっていた場所へ移る。


「……だから、あいつの力が残っていたのか」


 砕けた血魔石の奥で、わずかに赤い光が明滅する。それもやがて力を失い、静かに消えていった。


 男はその光を見つめたまま、動かなかった。


「……もう、何も残ってないんだな」


 リシェルの身体もない。血魔石も壊れ、そこに残っていた血も失われた。


「血魔石を完成させれば……いつか、あいつを取り戻せると思っていた。何十年も研究して、血を集めて……人まで犠牲にした。それでも、いつか必ず、あいつにもう一度会えるって……そう信じていたんだ」


 黒い霧がゆっくりと揺らぐ。その輪郭は、すでに人の形を保つことさえ難しくなっていた。


「……なのに、もう無理なんだな」


 男の声に、ようやく諦めが滲む。


「俺には、もう……あいつを取り戻せない」


 ユウは何も言わず、消えかけた男を見つめていた。


 男もしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと顔を上げる。その目には、先ほどまでの焦りとは違う、遠い記憶を懐かしむような色が浮かんでいた。


「……あのとき、約束したんだ」


 かすかな声が、静かな洞窟に響く。


「必ず助けるって。どれだけ時間がかかっても、絶対に諦めないってな」


 男の口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。


「リシェルは寒がりだった。冬になると、いつも俺のマントを勝手に持っていくんだ。返せって言っても、悪びれもせず笑っててさ……」


 その笑みが、わずかに深くなる。


「花も好きだった。道端に小さな花が咲いてるだけで、嬉しそうに笑うんだ。本当に……よく笑う奴だったよ」


 やがて、その笑みも消えていく。


「だから……もう一度だけでよかったんだ。もう一度だけ、あいつに会いたかった」


 男は静かに目を伏せた。


「リシェル……すまなかった」


 そして、ゆっくりとユウへ顔を向ける。


「君も……巻き込んじまって、悪かったな」


 その言葉を最後に、黒い霧は細かな光の粒へと変わり、静かに空気へ溶けていった。ユウはしばらくその場を見つめたあと、足元に散らばった血魔石の欠片へ視線を落とす。


「……救いたかったんだろうな」


 短剣を腰へ収め、ユウはゆっくりと立ち上がった。


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