その洞窟の先へ
いつもたくさんのリアクション、本当にありがとうございます。
そして、拙作を読んでくださりありがとうございます。
洞窟へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。鼻を突くのは錆びた鉄のような濃い匂いで、息を吸うたびに喉の奥がひりつき、まるで血の匂いそのものが洞窟の中に染みついているようだった。
「……うわ、なんだこれ」
顔をしかめながら短剣を握り直し、ユウは慎重に足を進める。そのとき、足元からぐにりと嫌な感触が伝わってきた。
「……?」
反射的に足を止め、恐る恐るもう一歩踏み出すと、ぬちゃりと湿った音が洞窟の中に響く。
(……血か?)
床は一見すると乾いているが、表面を覆う土の下にはまだ湿ったものが残っているらしく、歩くたびに靴底へ嫌な感触がまとわりついてくる。
「……最悪だな、これ」
長い間、ここで何かが殺され続けてきたのだろう。腐臭は意外なほど薄いのに、鉄のような匂いだけが異様な濃さで残っていた。
さらに奥へ進もうとした、その瞬間だった。
全身へ、ずしりと重いものがのしかかった。
「……っ」
ユウは思わず足を止める。魔物の気配とは明らかに違う。何かに襲われているわけでもないのに、まるで洞窟そのものに押さえつけられているような感覚だった。
(……なんだ?)
ユウは警戒しながらステータスを開く。
■ステータス
HP:33/52
MP:7/18
(数値は……変わってない)
毒や状態異常を受けているわけでもない。それなのに、本能だけが危険だと訴え続けている。奥へ進むほど圧迫感は強くなり、視界に映るものと《気配察知》が捉える感覚にも、どこか噛み合わない違和感があった。
ふと、壁へ向けた視線が止まる。
「……なんだ、これ」
そこには、長さの揃った骨が幾本も並べられていた。壁の隙間へ無造作に突き刺されているのではない。まるで建材のように組み込まれ、最初から壁の一部として使われていたかのようだった。
ユウはしばらく無言でそれを見つめる。
(……悪趣味にもほどがあるだろ)
生活の痕跡なら、まだ理解できる。だが、これは違う。骨をただ放置しているのではなく、明らかに何者かが意図を持って配置している。それが分かるからこそ、ユウは背筋に嫌なものを感じた。
警戒を強めながらさらに奥へ進むと、やがて狭い通路が途切れ、その先だけ突然視界が開けた。
「……広いな」
思わず声が漏れた。そこは、それまでの狭く湿った洞窟とは明らかに様子が違っていた。
壁は不自然なほど滑らかに削られ、床も何度も踏み固められたように平らになっており、その中央には祭壇を思わせる石の台が置かれている。
そして、その上にあるものを見た瞬間、ユウは足を止めた。
「……なんだ、あれ」
石台の上に置かれていたのは、赤黒い球体だった。心臓を思わせる形をしているのに脈動はなく、宝石のようにも見えるのに光を反射することもない。ただそこにあるだけなのに、妙に視線を引き寄せられる。
(……宝石、なのか?)
そう考えたものの、すぐに違和感を覚える。
(いや……違う。そもそも、何なんだよ)
ユウは警戒しながら周囲へ視線を巡らせた。祭壇を囲むようにいくつもの死体や骨が並べられ、床には細い溝が幾筋も刻まれている。その溝を伝って流れた血は、すべて中央の石台へ集まるようになっていた。
「……」
ユウの表情が険しくなる。ここには、先ほどまで見てきたゴブリンの巣のような雑然とした生活の跡がなかった。食べ残しも寝床もなく、並べられた骨と乾ききらない血、そして中央に置かれた赤黒い球体だけが、この場所に残されている。
(……祭壇、なのか?)
そう考えてみても、祈りを捧げるための場所にはどうしても見えない。床に刻まれた溝や周囲に並べられた骨を見れば、むしろ何かを呼び寄せるためか、あるいは何かに血を捧げるために作られた場所のように思えた。
ユウは短剣を握り直し、赤黒い球体を睨みつける。
「……ここで、何をしてたんだよ」
その直後、腕に小さな違和感が走った。
「……?」
反射的に腕へ視線を落とす。傷口はすでにほとんど塞がっている。それなのに、身体の奥から何かが抜けていくような感覚があった。
視界の端で、ステータスの数字が変わる。
■ステータス
HP:33 → 32
(……今、減ったか?)
眉をひそめた、その瞬間だった。今度は逆に、身体の奥へ温かい何かが流れ込んでくるような感覚が走り、視界の端に表示されていたステータスの数字が再び変化した。
■ステータス
HP:32 → 34
「……は?」
確かにHPが回復している。身体もわずかに軽くなった気がするが、ユウは素直に喜べなかった。頭の奥には何か重たいものが沈み込んでいるような、不快な感覚が残っている。
(……気持ち悪い。普通の回復じゃない)
ユウは警戒を解かないまま、祭壇の中央に置かれた赤黒い球体へ視線を向けた。すると、先ほどまで戦っていたゴブリンたちの姿が脳裏をよぎる。仲間が何体倒されても逃げず、傷を負っても怯まず、最後までユウを殺そうと襲いかかってきた。
(……まさか)
そこで、ある考えが浮かんだ。
(あいつら……こいつを守ってたのか?)
そう考えれば、あの異様な執念にも納得がいく。自分たちが生き残るためではなく、この球体を守るためにユウを排除しようとしていたのだとすれば、仲間が倒されても逃げなかった理由も分かる。
森の中でわざと逃げ道を残してユウを追い込み、さらに奥へ追い立ててきたのも、この場所から遠ざけるためだったのかもしれない。
(俺を……ここへ近づけたくなかったのか)
ユウは赤黒い球体を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……だから、あいつら……何匹倒されても逃げなかったのか」
あれだけ仲間を殺されても、最後まで退かなかった。まるで自分の命よりも、この球体を守ることを優先しているようだった。
「……死ぬことすら、怖くなくなるってわけか?」
ユウはしばらく球体を睨みつけた。
確かに、こんな力があるのなら強くなれるのだろう。生き残るためなら手段を選んでいられない――そう思ったことも、一度や二度ではない。
だが、目の前にあるものだけは受け入れられなかった。
祭壇の周囲に転がる死体や積み重なった骨を見れば、この力がまともなものではないことくらい分かる。誰かの命を奪い、その犠牲を糧にしているのだとしたら、そんな力を手に入れたところで何の意味があるのか。
(……異世界でいう、アーティファクトってやつか)
これがどんな力を持っているのかは分からない。だが、少なくとも誰かの命を奪い、その犠牲の上に成り立っている力なら、ユウには必要なかった。
「……力は欲しいさ」
ユウは球体を見据えたまま、静かに言葉を続ける。
「生き残るためなら、何だって使ってやるって思ったこともある。でも……誰かを犠牲にして強くなるくらいなら、俺は別の方法を探す」
短剣を握り直す。迷いはもうなかった。
「だから、お前はここで壊す」
ユウは地面を蹴り、一気に祭壇との距離を詰めると、赤黒い球体へ向かって短剣を振り下ろした。
その瞬間――ドンッ!! 刃が球体へ届く直前、球体から凄まじい衝撃が噴き出し、短剣ごとユウの身体を弾き飛ばす。
「うわっ――!」
身体が軽々と吹き飛ばされ、背中から地面へ叩きつけられる。そのまま血と泥の混じった床を転がり、肺から空気が一気に抜けた。
「……っ、痛ぇ……!」
それでもユウはすぐに身体を起こし、痛む背中を押さえながら祭壇へ視線を向けた。
(……近づいた瞬間に反応した)
ユウは短剣を構えたまま、試すように一歩踏み出す。すると再び身体へ圧力がかかったものの、先ほどほどの勢いはない。
(……一度使うと、しばらく弱まるのか)
ユウは目を細めた。ならば、防御が弱まった隙を狙って攻撃を叩き込めばいい。
「……一回で壊れないなら、壊れるまで叩き続けるだけだ」
迷いなく地面を蹴り、再び祭壇へ駆け出す。赤黒い球体には先ほどの一撃で細かなひびが走っており、その奥からは不快な圧力が滲み出していた。
(……ここで終わらせる)
距離が縮まった瞬間、球体を中心に凄まじい風が吹き荒れた。正面から叩きつけられた圧力に身体が浮きかけるが、ユウは踏みとどまり、そのまま前へ出る。
「っ……!」
風に押し返されながらも一歩、また一歩と距離を詰め、短剣を振り下ろす。――ガンッ!! 刃が見えない壁に弾かれ、ユウの身体もそのまま後方へ押し戻された。
「……まだ足りねぇか」
すぐに体勢を立て直して再び踏み込むが、今度は先ほど以上の圧力が腕を痺れさせ、そのまま身体ごと押し返される。
「そんなに壊されたくねぇのかよ」
吐き捨てるように笑い、ユウは荒れ狂う風へ意識を集中させた。三度目は力任せに進まず、風の流れを見極める。絶え間なく吹き荒れていた風の中に、ほんの一瞬だけ流れが乱れる場所があった。
(……右……いや、違う。そこだ)
乱れた瞬間を狙って地面を蹴る。風の壁が押し返してくるより早く身体を滑り込ませ、短剣を振り抜いた――ガッ!! 刃先が球体へ届き、確かな手応えが手元へ返ってくる。赤黒い表面に新たな亀裂が走り、細かな欠片が床へ落ちた。
だが、その直後には風が一気に巻き返し、ユウの身体を容赦なく後方へ弾き飛ばした。
「……ちっ!」
地面を滑りながら舌打ちし、ユウはすぐに身体を起こして球体へ視線を戻す。全身が悲鳴を上げていたが、球体には確かな傷が刻まれ、荒れ狂っていた風も先ほどより明らかに弱まっている。
「……効いてるな」
荒い息を吐きながら、ユウはひび割れた球体を見据えた。
「なら……もう一押しだ。どっちが先に音を上げるか、勝負だな」
短剣を握り直し、再び踏み込もうとした――そのときだった。
「……やめろ」
不意に声が響き、ユウの足が止まった。
「……?」
反射的に周囲を見回すが、人影はない。そもそも、今の声は耳から聞こえたものではなかった。頭の奥へ直接流し込まれたような、妙に生々しい声だった。
「やめてくれ……頼む……やめてくれ……!」
ユウは短剣を構えたまま《気配察知》へ意識を向ける。しかし、感じ取れるのは祭壇の周囲に漂う異質な気配だけで、人間らしい反応はどこにもない。
「……誰だ?」
返事はなかった。静まり返った洞窟の中で眉をひそめていると、再び頭の奥へ声が響く。
「お願いだ……壊さないでくれ……」
その言葉に、ユウの視線が赤黒い球体へ戻った。
(……まさか、こいつが喋ってるのか?)




