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ゴブリンの追撃

 ユウは地下通路へ落ちた場所まで戻ってきていた。見上げた先は思っていた以上に高く、崩れた地面と絡み合った木の根が壁のように行く手を塞いでいる。


(ここから落ちて、生きてるのか俺は……)


 我ながらよく生き残れたものだと思いながら、ユウは岩の出っ張りや露出した木の根を頼りに崖を登り始めた。何度も足を滑らせ、そのたびに腕へ鋭い痛みが走ったが、歯を食いしばって身体を引き上げ、一歩ずつ上を目指していく。


(そういえば、オスカーはどうやって出たんだ)


 ふと疑問が浮かぶ。あれほどの傷を負っていたオスカーが、自分と同じ場所を登ったとは考えにくい。


(別の出口でもあるのか……?)


 地下通路の奥はほとんど調べていない。あの場所なら、別の通路や隠し部屋があっても不思議ではなかった。


 そんなことを考えながら登り続け、ようやく頭上の縁へ指が届く。


「っ……!」


 最後の力を振り絞って身体を引き上げると、閉ざされていた視界が一気に開けた。


「……なんとか出られたか」


 短く息を吐いたところで、視界の端に小さな文字が浮かび上がる。


《スキル:登攀を取得しました》

《崖・岩壁・樹木などの登攀能力を向上させる》


(……登る前にくれよ)


 思わず呆れながら立ち上がったユウだったが、すぐに表情を引き締めた。


 何かがおかしい。


 鳥の鳴き声が聞こえない。小動物が動く気配もない。風だけが木々の間を抜けていき、森全体が息を潜めているように静まり返っている。


(……静かすぎる)


 ユウは足を止めた。鳥の鳴き声も、小動物の気配もない。森全体が息を潜めているような静けさの中、《気配察知》がすぐ近くにある反応を捉えた。


(……いる)


 ユウは短剣へ手をかけ、気配のする方向へ視線を向ける。反応はそれほど強くない。それでも、こちらの様子を窺いながら近づいてくる何かがいることははっきりと分かった。


 やがて、すぐ近くの草むらが揺れる。


 ユウは短剣を抜き、低く身構えた。しばらくすると、茂みの向こうから三つの影がゆっくりと姿を現す。緑色の肌に痩せた身体、手には粗末な武器を握っている。


「ギギッ」


 乾いた鳴き声を上げたのは、三体のゴブリンだった。


(……三匹か)


 ユウは半歩だけ後ろへ下がりながら、周囲の地形を素早く確認する。木々が密集し、足場も悪い。ここで逃げれば追いつかれるだろう。


(……なら、ここで片付ける)


 短剣を握り直し、ユウは三体の動きを静かに見据えた。


「《集中強化》」


 意識を研ぎ澄ませた瞬間、周囲の音が遠のき、ゴブリンの動きだけがはっきりと見えるようになる。


 一体が地面を蹴って飛び込んできたが、ユウはわずかに身体をずらして突進をかわし、その勢いを利用するようにすれ違いざま短剣を振り抜いた。


「ギャッ!」


 短剣が首筋を裂き、ゴブリンが地面へ転がる。だが、残った二体は怯むことなく左右から飛びかかってきた。


(連携……いや、考えて動いてるわけじゃないな)


 二体の動きを見たユウは、背後へ下がるのをやめた。足元には段差があり、木の根も絡み合っている。この場所では逃げるより、先に懐へ入り込んだほうがいい。


 ユウが一歩踏み込むと、それにつられるように一体が跳びかかってきた。直前で膝を落として身体を沈め、そのまま懐へ潜り込む。


 すれ違いざま、短剣を下から突き上げた。


「ギィッ――!」


 喉を貫かれたゴブリンが崩れ落ちる。


 残った一体はようやく相手の力量を悟ったのか、後ずさりしながら森の奥へ向かって甲高い声を張り上げた。


「ギィィッ!」


 その声に、ユウは眉をひそめる。


(まずい)


 何を呼んでいるのかは分からない。だが、ろくなことにならないのは確かだった。


 ユウはすぐさま距離を詰め、ゴブリンが武器を振り上げるより早く懐へ潜り込む。そのまま短剣を喉元へ滑り込ませた。


「ギッ……!」


 短い悲鳴を残し、最後のゴブリンが地面へ崩れ落ちる。

 静寂が戻った――ように思えた。


 だが、ユウは短剣を下ろさない。《気配察知》へ意識を向けると、木々の向こうから複数の反応がこちらへ近づいてきている。


(……やっぱり呼んでたか)


 しかも、一つや二つではない。《気配察知》が捉える反応は次々と増えていき、このままここで迎え撃てば囲まれるのは時間の問題だった。


 ユウは倒れたゴブリンのそばへ駆け寄って荷物を拾い上げると、迷うことなく森の奥へ走り出す。


「……付き合ってられるか」


 木々の間を縫うように駆け抜ける。背後からは草を踏み荒らす音が追ってきて、《気配察知》にも複数の反応が張り付いたままだった。何度か進路を変えて振り切ろうとするものの、気配はしつこく追ってくる。


 森の奥へ進むにつれて木々はさらに密集し、陽の光も届きにくくなっていく。やがてユウは速度を落とし、荒い息を整えながら《気配察知》へ意識を集中させた。


(……まだ振り切れないか)


 距離はほとんど変わっていない。追いつこうとしているというより、一定の距離を保ちながらこちらの消耗を待っているようにも感じられた。


「……しつこいな」


 ユウは足を止めずに森を進んでいたが、《気配察知》が右前方と背後に新たな反応を捉えた。


(……挟むつもりか)


 そう思った直後、右前方の茂みからゴブリンが一体飛び出し、ほぼ同時に背後からも別の一体が姿を現した。


「ギギッ!」


 ユウは短剣を抜き、先に飛び込んできた一体の攻撃を紙一重でかわすと、すれ違いざまに首筋を裂き、そのまま身体を反転させて迫ってきたもう一体の腹へ短剣を突き立てる。


「ギッ……!」


 二体のゴブリンがほとんど同時に地面へ崩れ落ちた。


 だが、ユウは短剣を下ろさなかった。《気配察知》が捉えている反応は消えるどころか、周囲で次々と増えている。


(……まだいる)


 次の瞬間、森の奥から枝の折れる音が立て続けに響き、木々の間をいくつもの気配が一斉に駆け抜けた。


「ギギギギギギッ!」


 甲高い鳴き声が森に響き、木々の間から緑色の身体が次々と姿を現す。視界に入るだけでも十体近く、その向こうにもまだ気配が残っていた。


 気づけば、ユウは完全に囲まれている。


(……多すぎるだろ)


 そう思った瞬間、背後から強い衝撃が走った。


「っ!」


 肩を殴られて身体がよろめいたところへ、横から爪が飛んできて頬を浅く切り裂く。


(囲んで、少しずつ削るつもりか)


 一気に仕留める気はないらしい。逃げ道を塞ぎながら傷を重ね、動けなくなったところを数で押し潰すつもりなのだろう。


 ユウは頬を伝う血を手の甲で拭い、短剣を握り直した。


「《集中強化》」


 意識を研ぎ澄ませた瞬間、周囲の音が遠のき、迫ってくるゴブリンたちの動きが鮮明になる。どこから飛び込んでくるのか、その一挙手一投足まで手に取るように分かった。


(左から……!)


 最も近い一体へ踏み込み、喉を裂く。そのまま身体を返して二体目の首筋を切り裂き、勢いを殺さず三体目の胸へ刃を突き立てた。倒れた身体を蹴って間合いをずらした直後、別のゴブリンが棍棒を振り下ろす。


「《加速》!」


 身体が弾かれたように前へ飛び出し、棍棒をかわした勢いのまま四体目の腹へ短剣を突き込む。


 だが、倒しても倒しても包囲は崩れない。四方から棍棒や爪が飛び交い、投げつけられた石が肩をかすめ、その直後には別の一撃が左腕へ叩き込まれた。


「ぐっ……!」


 骨まで響くような痛みに顔をしかめながらも、ユウは周囲の動きを追い続けていた。そのとき、ふと足元へ目を落とすと、土の上に白いものが転がっているのが目に入る。


(……骨?)


 視線を巡らせると、少し開けた場所のあちこちに人骨が散らばり、その周囲には剥ぎ取られた装備や折れた武器が無造作に転がっていた。


(……そういうことか)


 ここで何人もの人間がゴブリンに襲われ、命を奪われてきたのだろう。ユウは短く息を吐き、周囲を取り囲むゴブリンたちへ視線を向ける。


(逃げても追われるだけか)


 なら、ここで数を減らすしかない。


 次の瞬間、ゴブリンたちが一斉に襲いかかってきた。ユウは最も近い一体へ踏み込み、喉を切り裂くと、そのまま返す動きで次の一体を刺し抜き、崩れ落ちた身体を蹴って無理やり間合いをずらす。


「ギャッ!」


「ギィッ!」


 悲鳴が重なり、血が地面へ飛び散る。一体、また一体と倒していくが、それでも包囲は崩れなかった。ユウの呼吸は次第に荒くなり、短剣を握る腕も重くなっていく。脚も思うように動かず、全身に蓄積した痛みが動くたびに襲ってきた。


(……まだだ)


 ここで倒れるわけにはいかない。そう思って無理やり身体を動かした、その瞬間だった。


 身体の奥で、何かが軋んだ。


(……なんだ?)


 痛みとは違う。限界まで酷使された身体が、それでもなお動こうとしているような奇妙な感覚だった。


 ユウはその違和感を振り払うように息を吐き、短剣を握り直す。振り下ろされた棍棒を半歩だけかわして懐へ潜り込み、腹を裂く。そのまま返す刃で腕を切り落とすと、ゴブリンが悲鳴を上げて崩れ落ちた。


「ギャアッ!」


 だが、包囲は崩れない。それどころか森の奥からは、さらに新しい気配が近づいてきていた。


(……まだ増えるのかよ)


 そう思った瞬間、横から強烈な衝撃が叩き込まれ、ユウの身体が大きく吹き飛んだ。


「っ……!」


 地面を転がり、肺から空気が抜ける。立ち上がろうとしても膝に力が入らず、視界まで霞み始めた。


 それでも倒れているわけにはいかない。ユウは震える腕で短剣を地面へ突き立て、身体を支えながら荒い息の合間に声を絞り出した。


「……《即時回復》」


 淡い光が身体を包み込むと、内側から何かを削り取られるような感覚が走り、次いで全身を覆っていた痛みが急速に薄れていく。潰れかけていた呼吸が戻り、霞んでいた視界も徐々に鮮明になった。


 だが、失った体力まで戻ったわけではない。あくまで限界寸前だった身体を、もう一度動かせるところまで引き戻しただけだった。


(……立て。こんなところで終われるか)


 ユウは短剣を引き抜き、ふらつく身体を無理やり起こした。その姿を見たゴブリンたちが一斉にざわめき、倒れたはずの獲物が再び立ち上がったことに警戒したのか、じりじりと距離を取り始める。


 だが、それも一瞬だった。


「ギギ……」


 低い鳴き声を合図に、前後左右からゴブリンたちが再び迫ってくる。ユウは短剣を握り直し、荒い息を吐きながら迫る敵を睨みつけた。


(……まだ動ける)


 身体は重い。傷も残っている。それでも、短剣を握る手に力は入る。


(なら、まだやれる)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


■とある姉弟の記憶


 両親は、ある日突然いなくなった。


「すぐ戻るから」


 そう言い残して家を出ていったきり、二度と帰ってくることはなかった。理由も行き先も教えてもらえず、残されたのは私と弟だけだった。


 それから間もなく、私たちは住んでいた家も失った。大人たちが何かを話しているのは覚えている。でも、子供だった私に分かったのは、ただ「ここにはもういられない」ということだけだった。


 気づけば私たちは家を追い出され、行くあてもなく路地裏で眠るようになっていた。


 最初のうちは怖かった。夜になれば冷たい風が吹き込み、知らない足音が聞こえるたびに弟を抱きしめて身を固くした。それでも、人は慣れてしまうものなのだろう。いつしか路地裏で眠ることが、私たちにとっての普通になっていた。


 弟はよく泣いた。


「お腹すいたよ……」


「寒い……」


「ねえ、お姉ちゃん。もう、おうちには帰れないの……?」


 そのたびに私は笑って、弟の頭を撫でた。


「大丈夫だよ。ちゃんとなんとかなるから」


「ほんと……?」


「うん。お姉ちゃんがいるから」


 根拠なんて、どこにもなかった。


 本当は、私だって怖かった。明日食べるものがあるのか、このまま二人で生きていけるのか、何も分からなかった。


 だから私は、花を売るようになった。


 市場の片隅で拾った余り花を束ねて、通りに立つ。一輪売れればパンが一つ買える。二輪売れれば、少しだけ具の入ったスープが飲める。三輪売れれば、その日はお腹いっぱいになれる。


 それだけだった。


「お花、どうですか?」


 何度声をかけても、足を止めてくれる人は少ない。


「綺麗な花だね」


「ありがとうございます」


「でも、ごめんね。今日はちょっと……」


「……はい」


 優しい人はいた。足を止めて花を褒めてくれる人もいた。けれど、どれだけ声をかけても花はなかなか売れず、朝から立ち続けたその日も、夕方になって残った花を見つめることになった。


 結局、手に入ったのは固く乾いたパンが半分だけだった。


「ほら」


 私は弟へ差し出す。


「お姉ちゃんは?」


「私はいいの」


「でも……」


「大丈夫。お姉ちゃん、昼に食べたから」


 嘘だった。けれど弟はそれを疑うことなく、受け取ったパンを小さな手で大事そうにちぎりながら口へ運んだ。


「おいしいね」


「……うん」


 笑って答えながら、私は弟の顔を見つめていた。


 夜になると、いつもの路地裏へ戻り、壁にもたれて弟を膝の上に寝かせる。弟は疲れていたのか、すぐに眠りにつき、静かな寝息だけが夜の路地裏に響いていた。


 私はなかなか眠れなかった。空腹も寒さも、遠くから聞こえる足音も怖い。それでも、膝の上で眠る弟の姿を見ていると、不思議と心は落ち着いた。


 ちゃんと生きている。


 それを確かめるように、私は弟の頬へそっと指を触れた。


「……明日は、もう少し売れるかな」


 返事はない。ただ、膝の上から小さな寝息が聞こえてくる。


 私はその寝顔を見つめながら、明日のことを考えた。今日より少しだけ花が売れて、パンをもう少し買えたらいい。そんな些細なことさえ、今の私たちには簡単なことではなかった。


 それでも、この子だけはちゃんと守りたい。

 そう思うと、胸の奥にあった不安が少しだけ薄れた。


「……大丈夫。お姉ちゃんがいるから」


 家なんていらない。贅沢だっていらない。ただ、明日も弟が生きていて、こうして笑っていてくれれば、それでよかった。


 私は眠っている弟の頬をそっと撫で、声にならないほど小さな声で祈った。


「お願い……明日も、この子が笑っていますように」


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