逃亡者の隠れ家①
ユウは森を駆けていた。背後ではオークの足音と咆哮が途切れることなく響き、その巨体が木々をなぎ倒すたびに森全体が揺れている。
(くそっ……いつまで追ってくるんだよ)
距離は詰まっていない。それでも、振り切れる気配もなかった。
《加速》
一瞬、身体が前へ滑るように加速する。ユウは木々の隙間を縫うように駆け抜け、地形を利用しながらさらに距離を稼いでいくが、背後の気配は消えなかった。
(これだけ離せば十分か……いや、まだだ)
村からはもうかなり離れたはずだ。それでも、あのオークが引き返して村へ向かう可能性を考えれば、足を止めるわけにはいかなかった。
(とにかく、あれを村に近づけるわけにはいかない)
その思いだけを胸に、ユウはオークを誘い込むように森のさらに奥へと走り続けた。どれほど走ったのか分からなくなった頃、ふと周囲の空気が変わったことに気づく。
さっきまで聞こえていた鳥の声が消え、風の音さえ聞こえない。
(……なんだ?)
あまりにも不自然な静けさに、ユウが足を緩めた、その直後だった。
ゴゴゴゴゴ……。
地の底から響くような振動が足元を揺らし、木々が一斉にざわめく。背後から聞こえていたオークの足音さえかき消されるほどの揺れに、ユウは思わず周囲を見回した。
(地震か!?)
次の瞬間、足元からミシリ、と嫌な音が響いた。
「――っ!」
足場が一気に抜け、ユウの身体が虚空へ投げ出される。反転する視界の中で、崖の斜面から巨大な岩塊が剥がれ落ち、その真下には追ってきたオークの姿が見えた。
「くそっ……!」
状況を理解するより早く、岩塊と大量の土砂がオークへ降り注ぐ。
「グォオオオオオッ!?」
オークの咆哮が響き渡った直後、凄まじい轟音とともに崩れた斜面がその巨体を飲み込んだ。舞い上がった土煙が森を覆い、視界が一瞬で白く染まる。
だが、落下しているユウには、その結末を確かめる余裕などなかった。
「ぐっ……ぁっ!」
身体が岩肌へ叩きつけられ、続けざまに伸びた木の枝へぶつかる。そのたびに全身を激痛が駆け抜け、息が詰まった。何度も身体を打ちつけながら落下していく中、ユウは必死に手を伸ばしたが、掴めるものは何もない。
「く、そ……!」
それでも落下は止まらず、視界が激しく揺れる。そして次の瞬間、背中にこれまでにないほどの強烈な衝撃が突き抜けた。
肺から空気が一気に押し出され、声を上げることさえできない。
視界が白く弾けたかと思うと、ユウの意識はそのまま深い暗闇へと沈んでいった。
ーーー
どれほど時間が経ったのか分からない。
ドンッ――という鈍い衝撃とともに、ユウの身体が地面へ叩きつけられた。
「……っ、はっ!」
肺の空気が一気に押し出され、ユウは途切れかけた呼吸を必死に整える。全身を焼くような痛みが駆け巡り、腕も脚も思うように動かない。その中でも、右足だけは明らかにおかしかった。
(……折れたか)
それでも意識ははっきりしている。
ユウは痛みに顔を歪めながら、ゆっくりと目を開いた。見上げた先には空が広がり、まだ陽の光も残っている。
(……そんなに時間は経ってないな)
身体を起こそうとすると、全身の骨が軋むような感覚が走った。それでも、動けないほどではない。恐る恐る右足へ体重をかけた瞬間、足先まで鋭い痛みが突き抜けた。
(……やっぱり折れてる)
「……くそ、いてぇな」
吐き捨てるように呟き、ユウは痛みに顔をしかめながら深く息を吸い込んだ。覚悟を決めるように右足を両手で掴み、位置を確かめる。
次の瞬間――。
ゴキッ。
「っ……!」
鈍い音とともに骨を元の位置へ戻すと、激痛が一気に脳天まで突き抜ける。
歯を食いしばったまま《即時回復》を発動すると、熱が骨の奥へ染み込むような感覚とともに、砕けた箇所が少しずつ繋がっていった。
完全に治ったわけではない。それでも、歩く程度なら問題ないところまで回復したことを確かめ、ユウは慎重に右足へ体重を乗せて数歩歩いた。
「……なんとか動けるな」
小さく息を吐いて立ち上がったところで、ようやく周囲へ目を向ける。
「……それにしても、なんだよ。ここ」
そこは自然にできた洞窟ではなかった。岩肌には等間隔にランタンが掛けられ、薄暗い通路をぼんやりと照らしている。壁や床には人の手で削ったような跡が残り、足元も不自然なほど平らに整えられていた。
真っ直ぐ伸びた通路は暗闇の奥へ続いている。少なくとも、誰かがここを使っていることは間違いなかった。
(森の地下に……こんな場所が?)
妙な静けさが辺りを包んでいた。水滴の音すら聞こえず、自分の呼吸だけがやけに大きく響く中、ユウはふと足元へ目を落とした。
床には、赤黒い染みが残っている。
「……血か?」
しゃがみ込んで指先で触れてみると、まだ完全には乾いていなかった。
(新しい……)
誰かがいる。
そう判断したユウは、血痕を追うように通路の奥へ進んだ。しばらく歩くと前方に木製の扉が現れ、隙間から橙色の灯りが漏れている。その向こうからは、鉄臭い血の匂いまで漂ってきた。
(……間違いない。中だ)
ユウは短剣に手を添え、呼吸を殺しながらゆっくりと扉へ手を伸ばした。音を立てないよう押し開けたつもりだったが、古びた蝶番がギィ……と軋み、静まり返った通路に嫌な音が響く。
部屋へ足を踏み入れた瞬間、床一面に広がる血溜まりが目に飛び込んできた。
その奥では、一人の男が壁にもたれかかるように座り込んでいる。三十代ほどに見える男で、緑がかった髪と上質そうな服は血で赤黒く染まり、腹を押さえた手の隙間からも血が絶え間なく流れ落ちていた。
男は荒い呼吸を繰り返しながら扉の音に反応し、ゆっくりと顔を上げた。虚ろだった瞳がユウの姿を捉えると、わずかに揺れる。
「……だ、誰だ……?」
掠れた声が漏れる。男はユウの姿を確認すると、怯えたように身体を壁へ押しつけた。
「……頼む。もう、放っておいてくれ……」
そう呟いた男は、改めてユウの姿を見つめると、微かに眉を寄せた。目の前にいるのが幼い少年だと気づき、困惑したように視線を揺らす。
「……子ども? ここは誰にも見つからないはずなんだが……」
男はユウの姿をしばらく見つめ、それから背後へ視線を向けた。追手の気配がないことを確かめるように目を細め、やがて小さく息を吐く。
「……追手、ではなさそうだな」
ユウは警戒を解かないまま、男の傷へ目を向けた。床に広がった血の量は尋常ではなく、腹部の傷も深い。このまま放っておけば、そう長くはもたないだろう。
「……大丈夫か」
「そう見えるか?」
男は苦笑したが、その直後に顔を歪めて腹を押さえた。
「……まあ、見ての通りだ。手当てをしないと、もう長くはないだろうな」
「なら、手当てする」
「無理だ」
男は静かに首を横に振った。
「自分の身体だ。もう助からないことくらい、分かっている」
ユウはしばらく男を見つめていたが、やがて視線を傷口から外して問いかけた。
「……あんた、何者だ?」
「……鑑定士だ」
「鑑定士?」
「ああ。人の才能や適性を見抜く仕事だ。貴族や騎士団、それに商会なんかが、人を探すときに呼ばれる」
男は一度息を整え、苦しそうに笑った。
「まあ、昔はそれなりに名の通った鑑定士だったよ。一回の鑑定で金貨五枚も取っていた」
「……高いな」
「そうだろう? 平民には、とても払える額じゃない」
男は少し遠くを見るような目をした。
「昔の私は、それが当たり前だと思っていたんだ。金を払える者だけが、自分の才能を知ればいいとな」
「……今は違うのか?」
「違うさ」
男は小さく笑った。
「ある日、ふと思ったんだ。生まれた場所や家が違うだけで、自分に何ができるのかすら知らずに終わるのは、おかしいんじゃないかってな」
その声には、先ほどまでとは違う静かな熱があった。
「それで、鑑定料を取るのをやめた。平民の子どもだろうが何だろうが、頼まれれば無料で鑑定するようになった」
「……問題にならなかったのか?」
「なるに決まっている」
男は苦笑する。
「だが、それ以上に驚かされたよ。才能のある子どもは、思っていたよりずっと多かった。貴族の子どもより優れた才能を持っている者だって、珍しくなかったからな」
「それで、狙われた?」
「……ああ」
男の表情から笑みが消えた。
「面白く思わない連中もいた。貴族もそうだし、鑑定そのものを独占したい連中もいた」
そこで男は激しく咳き込み、口元を押さえた手の隙間から血がこぼれた。床へ落ちた赤い雫を見つめながら、男はしばらく黙り込む。
「……それだけじゃない」
「まだあるのか?」
「ああ。私には、もう一つ厄介なものがあった」
男はゆっくりと顔を上げた。
「《能力継承》という固有能力だ」
「《能力継承》?」
「自分が持つスキルを、他人へ譲ることができる」
ユウはわずかに目を細めた。
「……それを欲しがったのか」
「その通りだ」
男は乾いた笑いを漏らした。
「『その力を渡せ』と言われたよ。もちろん断ったがな」
「それで……」
「次の日には、命を狙われた」
淡々とした言葉だったが、その裏にあるものは重かった。
「王都にはもういられなかった。だから逃げ出して、この隠れ家に身を潜めたんだ」
男はそこで一度息をつき、苦々しく笑った。
「だが、逃げている途中でゴブリンに見つかってな。まさか、最後にこんな目に遭うとは思わなかったよ」
男は自分の血に染まった服へ目を落とし、乾いた笑みを浮かべた。
「……情けない話だろう?」
ユウは答えなかった。
床に広がる血の量を見れば、傷が致命傷なのは明らかだった。それでも、男の胸はかすかに上下している。まだ生きている。それなら、助けられる可能性があるかもしれない。
「……まだ生きてる」
「ああ。まだ、な」
男は自嘲するように笑ったが、その声にはすでに力がなかった。
ユウは一歩、男へ近づく。
「手当てする」
「やめておけ。こんな傷、普通の治療じゃどうにもならん」
「それでもやる」
迷いのない返事に、男はわずかに目を見開いた。
「……お前、本気か?」
「死ぬって決まったわけじゃないだろ」
「だが、治療術師でもなければ――」
「それは、やってみてから考える」
男はしばらくユウを見つめていたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「……変な子どもだな」
「よく言われる」
ユウはそう返すと、再び男の傷へ視線を戻し、治療に使えそうなものがないか部屋の中を見回した。
床には血の付いた書類が散らばり、倒れた棚からは本や薬瓶がいくつも転がっている。壁際には簡素な寝台があり、机の上には開きっぱなしの本や書きかけの紙、何枚もの地図が置かれていた。荒らされた部屋の中にも、ここで誰かが暮らしていたことを感じさせるものは残っている。
(……ここで暮らしてたんだな)
けれど今、その場所にあるのは床へ滴り落ちる血と、男の荒い呼吸だけだった。その静けさが、かえって部屋に残された生活の痕跡を不気味なものに感じさせる。
ユウは再び男へ視線を戻した。
「……死ぬのは、まだ早い」
男は何も答えなかった。ただ、その言葉を聞くと、ほんの少しだけ目を伏せた。
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■とある鑑定士の記憶
鑑定士という仕事は極めて希少だった。人の固有能力や適性を見抜ける者は、この国全体を探しても一人か二人いるかどうかと言われており、そのため私のもとには毎日のように、希望を抱いた人々が訪れていた。
固有能力――それは、一万人に一人が持つとされる、神から与えられた特別な力だ。
戦場の流れを変える英雄も、莫大な富を築く商人も、国に仕える高位の魔法使いも、その多くが固有能力を有している。だからこそ、人は夢を見るのだ。自分にも、自分の子どもにも、その力が眠っているのではないかと。
「どうか……お願いします。この子を、見ていただけますでしょうか」
目の前に座るのは、十歳ほどの貴族の少年とその父親だった。二人とも豪奢な衣服に身を包んでいるが、表情には隠しきれない緊張が浮かんでいる。
「分かりました。では、始めます」
私は少年へ手をかざして鑑定を行った。結果はすぐに出たが、固有能力はなく、特別な適性も見当たらない。鑑定結果だけを見れば、どこにでもいる普通の子どもだった。
「……そう、ですか」
結果を聞いた少年は一瞬だけ視線を落とした。その肩へ父親がそっと手を置き、静かな声で言う。
「気にする必要はない」
「……でも」
「能力があろうとなかろうと、お前は私の息子だ。それだけで十分だろう」
父親は穏やかにそう言って、少年の肩を軽く叩いた。少年はしばらく俯いていたが、やがて小さく頷く。
「……うん」
「では、失礼します」
二人は席を立ち、部屋を出ていった。扉が閉まる直前、少年が一度だけ振り返る。その顔にはまだ落胆が残っていたが、父親に手を引かれると、そのまま廊下の向こうへ消えていった。
私はそんな親子を、これまで何度も見てきた。鑑定料は金貨五枚。貴族にとっては、宴を一度我慢すれば済む程度の額に過ぎない。それでも彼らは、その金貨を惜しむことなく差し出す。子どもの未来を確かめるために。
次の客が来るまで、そう時間はかからなかった。
扉が開き、今度は三人家族の農民が入ってくる。先ほどの親子とはあまりにも対照的だった。何度も繕われた衣服は色褪せ、痩せた身体からは暮らしの厳しさが滲んでいる。
父親は緊張した面持ちで私の前まで歩いてくると、震える手で小さな袋を差し出した。
「……お願いします」
袋を受け取ると、中には金貨が五枚入っていた。
「この子に……何か可能性があるのか。それだけでも、知りたいんです」
父親の声は震えていた。私は黙って一家を見つめながら、受け取った金貨五枚へ目を落とす。
貴族なら何気なく支払える金額だが、この一家にとっては決してそうではない。銀貨や銅貨を少しずつ貯め、何かを諦め、何かを削って、ようやく用意したのだろう。
「分かりました。では、鑑定します」
私は少年へ手をかざした。期待と不安が入り混じった視線がこちらへ注がれているのを感じながら、鑑定結果を確認する。そこに浮かんだ内容を見て、私はわずかに息を吐いた。
今回も、求めていた答えはなかった。
「……申し訳ありません。この子には、固有能力も特別な適性も確認できませんでした」
「……そう、ですか」
父親の喉が小さく動いた。何かを言おうとしたのかもしれないが、しばらく黙ったあと、力なく息を吐く。
「……分かりました。ありがとうございます」
責める声も、怒りもなかった。ただ、目の前に突きつけられた現実を受け入れるしかない――そんな諦めが、その表情には浮かんでいた。
隣では、少年が不安そうに両親を見上げている。
「父さん……?」
「……帰ろう」
父親はそう言って息子の頭をそっと撫でると、母親も黙って少年の手を握った。三人は深く頭を下げ、そのまま静かに部屋を出ていく。
扉が閉まり、部屋に静寂が戻った。
私は机の上に置かれた金貨へ目を落とした。
先ほど貴族が何気なく差し出した金貨五枚と、今しがた農民が家族の生活を削るようにして集めた金貨五枚。金貨そのものの価値は、どちらも同じだ。
それなのに――なぜか、私にはまるで違うものに見えた。
鑑定士になって二十年。私はこれまで、何人もの人間の才能を見てきた。希望を抱いて訪れ、喜びながら帰っていく者もいれば、何も得られないまま、静かに扉を閉めて帰っていく者もいた。
私はそのたびに鑑定結果を告げ、金貨を受け取ってきた。
それが鑑定士という仕事なのだと、ずっと思っていた。
――この日までは。




