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ミルハルト村④

 出発の日は、思っていたよりも静かに訪れた。


 傷はすでに癒え、マリアからも「もう大丈夫だよ」と言われている。朝の村はいつもと変わらず、煙突から白い煙が立ち上り、畑では人々がそれぞれの仕事を始めていた。


 ユウは小さな布袋を背負い、診療小屋の前でマリアに向かって頭を下げた。


「……お世話になりました」


「そんなにかしこまらなくていいよ。あたしは、できることをしただけさ」


「それでも、助けてもらったことには変わりません」


「そうかい」


 マリアは少し照れくさそうに笑うと、ふと思い出したように診療小屋へ戻り、棚から一冊の古びた手帳を取り出した。


「そうだ。これ、持っていきな」


 マリアが差し出したのは、何度も開かれた跡の残る革表紙の手帳だった。薬草の名前や効能がびっしりと書き込まれた、いつもマリアが使っている手帳だ。


「……これを?」


「薬の覚え書きさ。薬草の見分け方とか、効き目とか、煎じ方なんかをまとめてある」


 見慣れた手帳を前に、ユウは戸惑ったようにマリアを見る。


「でも、こんな大事なもの……」


「大事だから渡すんだよ」


 マリアは手帳の表紙を指先で撫でながら、懐かしそうに笑った。


「何十年もかけて書いてきたものだからね。あたしにとっちゃ、財産みたいなもんさ」


「……それを、俺に?」


「薬草を見れば、あんたはもうずいぶん分かるようになってるだろ?」


 マリアが少しだけ目を細める。


「だったら、これから先も覚えておいて損はないよ」


「……でも」


「いいんだよ」


 ユウの言葉を遮るように、マリアが笑った。


「知識なんて、しまい込んでたって仕方ないからね。誰かが使って、誰かの役に立ってこそだろ?」


 ユウはしばらく手帳を見つめていたが、やがて両手で受け取った。


 擦り切れた革の表紙に、丸くなったページの端。何度も開かれ、書き足されてきた跡が、この一冊がマリアとともに過ごしてきた長い年月を物語っている。


「……ありがとうございます」


「大事にしなよ」


「はい」


 マリアは満足そうに頷いた。


「それじゃ、そろそろ行きな。家族も待ってるんだろ?」


「……はい」


「父さんと母さん、それと……弟だったかね?」


 ユウは少し驚いたようにマリアを見る。


「……覚えてたんですか」


「何日も一緒にいたんだ。そりゃ覚えるさ」


 マリアはそう言って笑った。


「ちゃんと顔を見せてきな」


「……はい」


 ユウは静かに頷いた。それから、もう一度マリアへ深く頭を下げる。


「……ありがとうございました、マリアさん」


「ほら、もういいって。早く行かないと日が暮れちまうよ」


 素っ気ない言い方だったが、その声には隠しきれない優しさが滲んでいた。


「ええ。それじゃあ……行ってきます」


 ユウは手帳を大切に布袋へしまうと、最後にもう一度だけ頭を下げ、診療小屋をあとにした。


 村の入口まで歩いていくと、エリックとメアリーが待っていた。


「ユウ、遅い!」


「……悪い」


 エリックは待ちくたびれたように鼻を鳴らし、そっぽを向く。


「別に待ってたわけじゃねぇけどな」


「嘘。さっきから『まだ来ないかな』って何回も言ってたじゃん」


「お、おい! それ言うなって!」


 慌てるエリックを見て、メアリーが楽しそうに笑う。ユウも思わず口元を緩めた。


「……ありがとな」


「だから待ってねぇって!」


 そう言いながらも、エリックの表情はどこか嬉しそうだった。ユウはそんな二人を見つめたあと、布袋から銀貨を数枚取り出して差し出した。


「これ、村で使ってくれ」


「いらねぇよ」


 エリックは銀貨を見るなり、あっさりと首を横に振った。


「でも、世話になったし……」


「どうせ『せめてこれくらいは』とか言うつもりだろ?」


 図星を突かれ、ユウが黙る。


「そんなもん受け取ったら、親父に怒鳴られるって。それに、俺たちは金が欲しくて助けたわけじゃねぇんだよ」


「そうだよ。ユウはこれから帰るんでしょ? 途中でお腹が空いたら困るじゃん」


 メアリーも当然のように言い、エリックが頷く。


「旅なら何があるか分からねぇんだ。自分のために取っとけ」


 エリックの言葉に、ユウは手の中の銀貨へ目を落とした。しばらく黙って考えたあと、やがて小さく息を吐き、銀貨を布袋へ戻す。


「……分かった。そうする」


「それでいいんだよ」


 エリックが満足そうに笑った、そのときだった。


「おーい! もう行くのか!」


 畑で鍬を振るっていた男が手を止め、大きく手を振る。その声につられるように、近くにいた村人たちも次々と顔を上げた。


「気をつけて行けよ!」


「無茶すんなよ! ちゃんと飯も食え!」


「死ぬんじゃねぇぞ、坊主!」


「今度来るときは、倒れたままじゃなくて自分の足で来いよ!」


 あちこちから声が飛び、村の入口が一気に賑やかになる。


「お前ら、最後まで縁起でもねぇこと言うなよ!」


 エリックが呆れたように叫ぶと、村人たちから一斉に笑い声が上がった。


 その笑い声を聞きながら、ユウはゆっくりと村を振り返る。


 過ごしたのは、ほんの数日だった。それでも、マリアに助けてもらったことも、エリックやメアリーと過ごした時間も、畑で汗を流したことも、もうずっと前のことには思えなかった。


 見慣れた村の景色を、ユウは静かに見渡す。

 やがてメアリーが、両手を大きく振った。


「ユウー! 元気でねー! また遊ぼうねー!」


「……ああ。またな」


 ユウが答えると、メアリーは嬉しそうに笑った。

 その隣で、エリックも照れくさそうに手を上げる。


「……ちゃんと家まで帰れよ」


「分かってる」


「それと、今度来るときは土産忘れんなよ」


「……お前なぁ」


 呆れたように返しながらも、ユウの口元には笑みが浮かんでいた。


「じゃあな、エリック。メアリーも」


「うん! またね!」


「おう。またな!」


 ユウは二人に向かって一度だけ頷くと、村を背に歩き出した。


 しばらく歩いたところで、ふと足を止めて振り返る。遠ざかっていく村の入口には、まだエリックとメアリーの姿があり、二人とも最後までこちらへ手を振り続けていた。


 ユウも小さく手を上げ、それから前を向く。


(……いい村だったな)


 ほんの数日しか過ごしていない。それでも、誰もが当たり前のように声をかけ、無事を願って送り出してくれた。その温かさが胸の奥へ静かに染み込み、ユウは小さく息を吐いた。


 村を出たときは一人だった。けれど今は、背中を押してくれる人たちがいる。

 そんなことを考えながら、ユウは村から少し離れた道を歩いていた。


 そのとき、不意に足が止まった。


――《気配察知》。


 森の奥から、何かがこちらへ近づいてくる。


 ユウは反射的に振り返った。まだ村はすぐ後ろにあり、門の前ではエリックやメアリー、それに見送りに来た村人たちが、遠ざかっていくユウへ向かって手を振っている。


 その光景を見つめたまま、ユウの表情がわずかに変わった。


「……どうした?」


 エリックの声が飛んでくるが、ユウは答えなかった。森の奥へ視線を向けたまま、何かを探るようにじっと立ち尽くしている。


 《危険察知》


 鋭い警鐘が全身を駆け抜け、心臓が強く跳ねると同時に、背筋を冷たいものが走った。


(……なんだ、これ)


 戦場でも、盗賊と対峙したときでも感じたことのない圧迫感だった。正体は分からない。それでも、本能だけははっきりと告げている――あれを、村へ近づけてはいけない。


 ユウの表情から、先ほどまでの穏やかさが消えた。


「……ユウ?」


 メアリーが不安そうに声をかけるが、ユウは答えなかった。森の奥を見据えたまま、ゆっくりと腰の短剣へ手を伸ばす。


「……悪い」


「え?」


「二人とも、すぐに村の中へ戻ってくれ」


 低い声だった。その声音にいつもの穏やかさがないことを感じ取り、二人の表情が強張る。


「でも、ユウ……」


「早く」


 有無を言わせない声に、メアリーが言葉を飲み込む。


「お、おい! ユウ!」


「待って!」


 二人の声を背に、ユウは森へ向かって駆け出した。木々の間へ飛び込むにつれて空気が重くなり、やがて足元から低い振動が伝わってくる。


――ドスン。ドスン。


 何かが近づいている。


 ユウは足を止めて短剣を抜き、木々の向こうへ目を凝らした。次の瞬間、枝葉を押しのけるようにして巨大な影が姿を現す。


 三メートル近い巨体に、潰れた豚のような顔、丸太のように太い腕。その手には、人の胴ほどもある巨大な木製の棍棒が握られていた。


「……グゴォ……」


 低い唸り声が森の中へ響き、その声だけで空気まで震えたように感じられ、ユウの喉がわずかに強張る。


(……オーク)


 本来なら、もっと森の深い場所にいるはずの魔物だ。こんな浅い場所まで姿を現すこと自体がおかしいが、今はそんなことを考えている場合ではない。


 オークの背後には村へ続く道があり、その先には、ついさっきまで一緒にいた人たちがいる。


 エリックの不器用な笑い声、メアリーの無邪気な笑顔、マリアのぶっきらぼうな小言。そして、村人たちが最後に掛けてくれた「またな」「元気でやれよ」という言葉が脳裏をよぎる。


(……駄目だ)


 ユウは足元へ視線を落とし、転がっていた小さな石を拾い上げた。手の中で一度だけ握り直し、オークへ視線を戻す。


 迷いはなかった。


「……こっちを見ろ」


 ユウは腕を振り抜いた。乾いた音とともに石がオークの肩へ当たり、弾かれた石が地面へ転がる。


「……グ?」


 オークがゆっくりと振り返り、濁った瞳がユウを捉えた瞬間、その顔が醜く歪んだ。


「グォオオオオオオオオオッ!!」


 凄まじい咆哮が森を揺らし、木々に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立つ。ユウはオークが動き出すより早く踵を返した。


「来い!」


 叫ぶと同時に、ユウは全力で駆け出した。背後からは地面を踏み砕くような足音が迫り、巨体が動くたびに土が大きく震える。


――ドスン。ドスン。


 振り返る必要はない。あれほどの巨体だ。近づいてくれば、嫌でもその気配が伝わってくる。


 ユウは枝を払いながら、わざと大きな音を立てて村とは反対方向へ走った。背後ではオークが木々を次々となぎ倒し、折れた枝や幹が地面へ叩きつけられるたび、森の中に轟音が響き渡る。


「グガアアアアアアッ!!」


 怒り狂った咆哮が背中へ突き刺さる。それでもユウは振り返らず、ただひたすら森の奥へと走り続けた。


(来い……俺だけを追え)


 息が苦しい。胸は激しく上下し、肺が焼けるように熱い。それでも足を止めず、ただ村から離れることだけを考えて走り続ける。


(あの村には行かせない)


 エリックも、メアリーも、マリアも。あの村で出会った人たちを、誰一人として傷つけさせたくない。


(……絶対に)


 恐怖がないわけではなかった。あの巨体とまともに戦えばどうなるか分からない。それでも、足を止める理由にはならなかった。


 数日前までのユウは、ただ生き延びることだけを考えていた。食べるものを探し、眠れる場所を探し、襲ってくるものから逃げる。それだけで精一杯だった。


 けれど、今は違う。


 守りたいと思える場所ができた。守りたいと思える人たちができた。


 だからこそ、ユウは足を止めなかった。背後から響く咆哮を振り切るように、ただひたすら森の奥へと走り続ける。


(……絶対に、あの村には行かせない)


 胸の中でそう言い聞かせながら、ユウは一度も振り返らなかった。

【○○の記憶】は、今後、本編が四千文字に満たない時だけ入れる予定です。

とはいえ、この世界には本編で語れない話もたくさんあるので、書きたいものが増えたら別枠を作って投稿するかもしれません。


今回の話も「もし転生者じゃなかったら」という可能性の一つでした。

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