ミルハルト村③
翌朝。
まだ日が昇りきる前だというのに、診療小屋の扉が勢いよく叩かれた。
「ユウー! 起きてるかー!」
「ちょっとエリック! 朝から大声出さないでよ!」
「だって起きてるか分かんねぇだろ!」
「だからって叩きながら叫ぶ必要ないでしょ!」
外から聞こえてくる騒がしい声に、ユウはゆっくりと目を開けた。
(……朝か)
戦場にいた頃は、目を覚ました瞬間から周囲の気配を探り、その日の食事や身の安全のことを考えていた。けれど今、扉の向こうから聞こえてくるのは敵意でも緊張でもない。朝っぱらから言い争う、二人の呆れるほど平和な声だった。
「ユウー! まだ寝てるのかー!」
「……起きてる」
扉越しに返事をすると、外から「よし!」という声が聞こえた。
次の瞬間、扉が勢いよく開く。
「起きてるなら、早く行こうぜ!」
「……どこへ?」
「畑! 手伝いに行くんだよ。終わったら遊ぼうぜ!」
「結局、遊びたいだけじゃん」
「ばれたか!」
エリックが悪びれもせず笑うと、メアリーが呆れたように肩をすくめた。
「最初から分かってたよ。ほら、ユウも行こう?」
そう言って、メアリーがユウの手を取る。
「お手伝いが終わったら遊べるんだから」
「……分かった」
こうして半ば引っ張られるようにして、ユウは二人と一緒に診療小屋を出た。
朝露の残る道を歩いていると、村はすでに動き始めていた。畑へ向かう村人や家畜の世話をする人々が行き交い、朝の冷たい空気の中に土や草の匂いが混じっている。
「お、元気になったな坊主! もう体は平気か? 無理すんなよ!」
途中で出会う村人たちも、ユウの姿を見つけるたびに気さくに声をかけてくる。
「……おはようございます。ありがとうございます」
ユウが頭を下げると、村人たちは少し驚いたように顔を見合わせた。
「礼儀正しいな、この子」
「エリックも少しは見習ったらどうだ?」
「なんで俺の話になるんだよ!」
エリックが不満そうに声を上げると、周囲から笑い声が起こった。
午前中は畑の雑草を抜いたり、井戸から水を運んだりと、簡単な手伝いをすることになった。単純な作業のはずなのに、エリックやメアリーとくだらない話をしながら手を動かしていると、不思議なほど時間が早く過ぎていく。
「よし、これで終わり!」
ひと通り作業を終えると、メアリーは腰を伸ばして大きく息を吐き、そのまま草の上へ座り込んだ。
「疲れたー……。もう動けない」
「お前、ほとんど喋ってただけじゃねぇか。水運ぶ途中だって二回も休んでただろ」
「ちゃんと働いたもん! エリックだって一回休んでたじゃん」
「俺は重い水桶を持ってたんだよ。あれをずっと運んでたら休みたくもなるだろ」
「私だってちゃんと持ったよ?」
「ほんのちょっとだろ。ほとんど俺が持ってたじゃねぇか」
「むぅ……。じゃあ、次は私が全部持つ!」
「いや、それは無理だろ」
「やってみなきゃ分かんないじゃん!」
また二人の言い合いが始まり、ユウはそんな様子を眺めながら小さく息を吐いた。昨日までなら騒がしいと思っていたはずなのに、今ではその声さえ不思議と心地よく感じられる。
「……ほんと元気だな、お前ら」
「まあな。メアリーが余計なこと言うから、いつもこうなるんだけど」
「エリックだってすぐ言い返すじゃん」
「だって言われたら言い返すだろ」
「ほら、そういうところ!」
「なんで俺が悪いみたいになるんだよ!」
二人がまた言い合いを始め、ユウは思わず口元を緩めた。
ーーー
昼過ぎになると、三人は村外れの大きな木の下で休んでいた。
メアリーは草の上に寝転び、エリックは幹に背を預けている。心地よい風が吹き抜けるたび、近くの麦畑が波のように揺れ、その向こうでは白い雲がゆっくりと空を流れていた。
「なぁ、何かして遊ぼうぜ」
しばらくして、エリックが退屈そうに口を開いた。
「何して遊ぶの?」
「そうだな……かけっことか?」
「えー、やだ。暑いもん。エリック一人で走ってれば?」
「なんで俺一人なんだよ!」
「だって、遊びたいって言ったのエリックでしょ?」
「いや、そうだけど……お前らも一緒に遊ぶもんだろ!」
エリックが食い下がると、メアリーはくすくすと笑った。
「じゃあ、もっと涼しい遊びにしようよ。何か考えてよ」
「それを今考えてんだよ!」
「じゃあ、もうちょっと頑張って」
「お前、絶対考える気ないだろ!」
二人はそんな調子で言い合いを続けている。
ユウは呆れたように二人を眺めながら、小さく息を吐いた。
(……また始まった)
昨日までは騒がしいと思っていたはずなのに、今ではこのやり取りにもすっかり慣れてしまっている。むしろ、二人の声が聞こえないほうが妙に落ち着かない気さえしていた。
そのとき、村の方から男の怒鳴り声が飛んできた。
「おーい! お前ら! またサボってるのか!」
村の方から飛んできた怒鳴り声に、エリックが慌てて立ち上がった。
「やばっ、見つかった!」
メアリーもすぐに起き上がると、笑いながら駆け出す。
「ほら、早く! 怒られるよ!」
「待ちな! こら!」
背後から男の声が追いかけてくる。
「待ってられるかよ!」
エリックも走り出し、メアリーの後を追う。ユウは一瞬だけその場に取り残されたが、二人が振り返って手を振るのを見て、思わず足を踏み出した。
「ユウも早く!」
「……俺も?」
「置いてくぞ!」
エリックに急かされ、ユウも二人の後を追って走り出す。
「おい! そこの子まで連れていくんじゃない!」
背後から男の呆れた声が飛んできた。
「だって、もう一緒に走ってるし!」
「お前が巻き込んだんだろうが!」
「……まあ、それはそう!」
「開き直るんじゃない!」
メアリーが前を走りながら、楽しそうに笑う。
「もう、そんなこと言ってると追いつかれるよ!」
「それは困る!」
「だから走れって!」
三人は笑いながら、村の道を駆けていった。
ただ走っているだけだった。命懸けで逃げているわけでも、敵から身を隠しているわけでもない。捕まったところで待っているのは、せいぜい大人からの小言くらいだ。
それなのに――。
こんなふうに誰かと並んで走ることが、ユウにはひどく新鮮だった。
気づけば、胸の奥にあった重苦しさもすっかり消えている。
「……ははっ」
喉の奥から、自然と笑いが漏れた。
ーーーー
それから、さらに一日が過ぎた。
傷はほとんど塞がり、包帯も小さく巻き直す程度で済むようになっていた。診療小屋の前で傷口を確認していたマリアは、包帯の端を整えると満足そうに頷いた。
「うん。もう大丈夫そうだねぇ」
「……そうですか」
「まあ、無茶をしなければの話だけどね」
「分かってます」
「本当に分かってるのかねぇ」
マリアは疑うようにユウの顔を覗き込む。そこには呆れたような色が浮かんでいたが、同時に心配していることも伝わってきた。
「昨日だって、あの二人に連れ回されてたじゃないか。治りかけの傷を開いたら、また最初からやり直しだよ」
「……気をつけます」
「その言葉を信じるとしようかねぇ」
マリアは苦笑しながら、改めてユウの傷へ目を向けた。
「それにしても、ここまで早く良くなるとはねぇ」
「そんなにひどかったんですか?」
「ひどかったよ。ここへ運ばれてきた時なんて、血だらけで息も弱かったんだからね」
マリアは当時のことを思い出すように目を細める。
「正直、助からないかもしれないと思ってたんだよ。それが今じゃ、村を走り回る子どもたちについていけるんだからねぇ」
「……あの二人が勝手に走ってるだけです」
「ふふっ。そういうことにしておこうかね」
マリアは小さく笑うと、安心したように頷いた。
「まあ、元気になったのはいいことさ。あとは無茶をしないこと。それだけ覚えておきな」
「……はい」
ユウが素直に頷くと、マリアは満足そうに笑った。
♢
その日の夕方、ユウは丘の上に寝転がりながら村を眺めていた。
煙突からは夕餉の支度を知らせる煙が細く立ち上り、畑では仕事を終えた人々が道具を片付けながら家へ帰る準備をしている。井戸の周りから聞こえてくる賑やかな声には、エリックとメアリーの笑い声も混ざっていた。
それらはすべて、この村では当たり前の光景なのだろう。
(……そろそろだ)
身体はもう完全に戻っている。ここに留まり続ける理由はない。グレイウッド村には帰る場所があり、父も母も、ルクも待っているはずだ。
(帰らないと)
そう思う一方で、この村の景色が妙に離れがたく感じられた。明日も当たり前のように続いていく日常。その中に自分がいることを、誰も不思議には思っていない。
そんな当たり前とは無縁だったユウには、その光景が少しだけ眩しく見えた。夕暮れに染まる村を見つめながら、ユウは腰の短剣と干し豆の入った袋にそっと触れる。
「……あと少し」
誰に向けるでもなく呟き、小さく息を吐く。丘を吹き抜ける風が頬を撫で、村の方から夕餉の匂いを運んできた。
♢
そして翌朝。
「ユウー! 起きろー! 朝だぞー!」
扉を叩く元気な声に、ユウはゆっくりと目を開ける。
(……今日こそ言わないとな)
そう自分に言い聞かせながら、ユウは静かに体を起こした。
朝食を終えると、三人はいつものように畑へ向かう。メアリーは鼻歌を歌いながら先を歩き、エリックは「朝から元気すぎるだろ」と呆れつつも、その隣を当たり前のようについていく。
ユウは少し後ろを歩きながら、そんな二人の背中をぼんやりと眺めていた。
(……言わないと)
昨日から何度もそう思っている。今なら言えるはずだ。そう思っていた。
「そうだユウ! 今日は畑が終わったら川に行こうぜ。魚も捕れるし、涼しくて気持ちいいぞ!」
「……川か」
「うん! 今日は絶対いっぱい捕まえるから!」
何気ない誘いだった。いつもと変わらない他愛のない会話。それなのに、その当たり前の時間はユウが思っていた以上に心地よかった。
結局、その日も言い出すことはできなかった。
そして翌日。朝からメアリーが勢いよく駆け込んできて、小さな木彫りをユウへ差し出す。歪な鳥の形で、表面には不器用に削った跡があちこちに残っていた。
「これ! ユウにあげる!」
ユウは木彫りを受け取り、表と裏を眺める。
「……作ったのか?」
「うん! 鳥……のつもり!」
「つもり?」
「最初は犬を作ろうと思ったんだけど、途中で分かんなくなっちゃった!」
「全然違うじゃねぇか」
エリックが吹き出すと、メアリーはむっと頬を膨らませた。
「うるさい! ちゃんと鳥に見えるもん!」
「で、なんで俺に?」
「うーん……なんとなく! ユウに持っててほしかったから!」
理由になっているようでなっていない答えに、ユウは小さく息を吐く。
「……そうか。ありがとな」
その一言だけで、メアリーの表情はぱっと明るくなり、隣で見ていたエリックも「やっと受け取ったな」と嬉しそうに笑った。
ユウはその様子を見ながら、心の中で(今日も言えなかった)とだけ静かに呟いた。
♢
夕方、三人は丘の上に寝転び、茜色に染まっていく空を眺めていた。
昼間まで聞こえていた村の喧騒も、ここまで来ると遠い。草を揺らす風の音だけが、三人の間をゆっくりと通り抜けていく。
しばらくして、エリックが空を見上げたまま口を開いた。
「なぁ、ユウ。明日、帰るんだろ?」
「……ああ」
「やっぱりか」
エリックはそれ以上何も言わず、再び空へ目を向ける。代わりに、隣で草の上に寝転んでいたメアリーが身体を起こした。
「帰る場所があるんだもんね。家族も待ってるんでしょ?」
「父さんと母さん、それに弟がいる。たぶん、みんな待ってると思う」
「そっか。じゃあ、ちゃんと帰らないとね」
メアリーは笑ってみせたものの、その表情には隠しきれない寂しさが滲んでいた。それに気づいたエリックが、少しだけ気まずそうに口を挟む。
「……なんだよ。寂しいなら、寂しいって言えばいいだろ」
エリックが横から口を挟む。
「ちょっと、エリック!」
「だって、見てれば分かるだろ。さっきからずっとそんな顔してるじゃん」
「そんなこと言ったら、余計に寂しくなるでしょ!」
「じゃあ、我慢しなきゃいいじゃん」
「簡単に言わないでよ!」
メアリーがむっとしてエリックの肩を叩く。
「痛っ! なんで俺が叩かれるんだよ!」
「エリックが余計なこと言うから!」
「俺は本当のことを言っただけだろ!」
「そういうところが余計なの!」
いつものように言い合う二人を見て、ユウは思わず口元を緩めた。
やがて三人の間に笑い声が広がり、それは風に乗って夕暮れの丘へ溶けていく。笑いが収まると、三人は並んだまま、赤く染まった村を静かに見下ろした。
夕日が家々の屋根を照らし、長く伸びた影が少しずつ夜の色へ変わっていく。ユウはその景色を眺めながら、胸の奥に残る温かな感情を静かに噛みしめていた。
(……また来よう。今度は、ちゃんと顔を見せに)
帰る場所はグレイウッド村だ。父も母も、ルクも待っている。明日になれば、そこへ帰る。それだけは変わらない。
それでも、ミルハルト村で過ごした時間まで、ただの寄り道だったとは思えなかった。三人で笑ったことも、畑を手伝ったことも、何気なく過ごした時間も、きっとこの先も覚えているだろう。
ユウはもう一度、夕暮れの村を見渡した。
(……また、ここに来られたらいいな)
そんな願いが自然と浮かんだことに、ユウ自身が少し驚いていた。




