下がらない熱
翌朝。
目を覚ましたとき、最初に感じたのは妙な静けさだった。
外では風が吹いているはずなのに、その音がほとんど家の中に入ってこない。壁の隙間から入り込む冷たい空気だけがじわじわと肌を刺してくる。まるでこの小さな家だけが外の世界から切り離されたような、息の詰まる静寂だった。
――静かすぎる。
その違和感にユウはゆっくりと目を開けた。
「……ルク? 起きてるか……? なんか、やけに静かだけど……」
小さく呼びかける。だが返事はない。
胸の奥に重たいものが沈む。嫌な予感がじわじわと形を持ち始める。
ユウは体を起こし隣へ視線を向けた。
ルクはそこにいた。薄い布の上で横になり、小さな体がかすかに上下している。けれど――その動きが昨日までとは明らかに違っていた。
呼吸が浅い。しかも速い。空気をうまく吸えていないのか、無理やり回数で補っているように胸が小刻みに上下している。そのたびに、ひゅうと細い音が漏れていた。
「ルク……? どうしたんだよ……昨日より、明らかにおかしいぞ……?」
声をかけた瞬間、エナも異変に気づいたらしい。慌てて駆け寄り、震える手で額に触れる。
その瞬間、びくりと肩が揺れた。
「……熱い……こんなの……昨日よりずっとひどいわ……」
押し殺した声だったが、恐怖は隠しきれていない。
ガルドもゆっくりと近づき、険しい顔で問いかける。
「どれくらいだ……? 昨日よりひどいのか……?」
「分からない……でも、顔色が……昨日よりずっと悪いの……このままだと……」
エナの声は震えていた。
ルクの頬は異様に赤く、額にはじっとりと汗が浮かんでいる。それなのに、布から覗く手は青白く、血の気がない。
まるで体の内側だけで熱が暴れ、外側との均衡が崩れているようだった。
「にーちゃん……」
かすれた声が、かろうじて漏れる。
焦点の合わない目が、ユウの方へ向いた。
「……にいちゃん……さむい……でも……あつい……」
(……やばい)
胸の奥で、はっきりとした危機感が膨らむ。
これはもう、ただの空腹や疲れじゃない。
このまま何もしなければ――確実に間に合わない。
「薬草……」
エナが、すがるように呟く。
「村の奥の方に、昔はあったはずなの……熱を下げる薬草が……でも……もうほとんど残ってないって聞いたことがあるわ……」
その声にはわずかな希望と、それ以上の諦めが混じっていた。
ユウはすぐに聞き返す。
「それ、まだある可能性あるのか……? 少しでも残ってるならどこにあるの……?」
だがエナは、ゆっくりと首を横に振る。
「……残ってたとしても、森の奥だけ……人が怖がって入らない場所にしか……もう……」
その瞬間答えは出た。
「……オレが取ってくる」
気づけばそう口にしていた。
立ち上がると床板がぎしりと軋む。その音に反応して、ガルドがすぐに声を上げる。
「待て……お前が行く場所じゃない。あそこは大人でも危険な場所だ……!」
低い声だったが、その奥にははっきりと恐れがあった。
ユウは一歩も引かずに言い返す。
「じゃあどうすんだよ……! このまま何もしなかったらルクほんとに死ぬぞ……!」
声が荒くなる。
「父さんも見てるだろ……? あの呼吸、あの熱……普通じゃないって分かるだろ……!」
ガルドは答えない。ただ苦しそうに眉を寄せる。
ユウはさらに踏み込む。
「オレなら探せる……昨日だってちゃんと見て取ってきたし、適当にやったわけじゃない……!」
一瞬だけ言葉を詰まらせるが、それでも続ける。
「……なんとなくだけど分かるんだよ。どれが食えるかとか使えるかとか……」
完全には説明できない。でも、それは確かな感覚だった。
「それに……今この中で森に入ったことあるのオレだけだろ……?」
静かに、でもはっきり言い切る。
沈黙が落ちる。
やがて――
「……行かせてあげて」
エナが言った。
声は震えている。それでも目は逸らしていなかった。
「怖いけど……でも、このまま何もしないで見てるだけなんて……もっと無理よ……」
「ルクを助けるには……もうそれしかないの……」
母親としての覚悟だった。
ガルドはしばらく動かなかったが、やがて深く息を吐き、低く言う。
「……いいか、絶対に無理はするな。少しでも危ないと思ったら引き返せ」
そして強く続ける。
「何があっても生きて戻ってこい。それだけは絶対だ……約束できるな」
ユウは小さく頷く。
「……うん。絶対戻る。ちゃんと持って帰るから」
家を出る。
朝の空気は冷たく、肌を刺すようだった。
(……急がないと)
自然と足が速くなる。
森に入った瞬間空気が変わった。昨日と同じはずなのにその重さがまるで違う。湿った匂いが濃く吸い込むたびに喉の奥に絡みつく。足元の地面はぬかるみ踏み込むたびにじゅくりと嫌な音を立てる。引き抜くときには余計な力が必要でそれだけで体力が削られていくのが分かった。
(……昨日よりきついな)
それでも足は止めない。視界の端に淡い光が浮かび上がる。
《採取可能》
昨日と同じ表示。だが今は違う。
(……ほしいのはこれじゃない)
欲しいのは食える草じゃない。ルクを助けられるものだ。
(薬草……どこにあるんだ)
さらに奥へ進む。木は太くなり枝が空を覆う。光はどんどん遮られ視界が暗くなっていく。足場も悪くなり、歩くだけで消耗していくのがはっきり分かった。一歩踏み外しバランスを崩す。咄嗟に手をつくと、冷たい泥が指の間に入り込んだ。
「くそっ……」
小さく舌打ちする。
そのときだった。視界の奥に明らかに強い光が見えた。他のものとは違うはっきりとした存在感。
(……あれだ!)
慎重に近づく。低い場所に生えている細い葉の草。見た目はただの雑草と変わらないが――触れた瞬間頭の中に情報が流れ込んできた。
【解熱草】
・薬用可
・効果:解熱(弱)/体力回復(微)
・毒性:なし
「……っ」
思わず息を呑む。
(あった……間違いない……!)
ゆっくりと手を伸ばす。その瞬間――ガサッ、とすぐ近くで何かが動いた音がした。空気が一変する。反射的に動きを止めゆっくりと振り向く。
暗闇の中、低い位置に――光る目が一つ。
じっとこちらを見ている何かがいた。
(……やばい)
全身の毛が逆立つ。本能が警告を鳴らす。あれは昼に見た小動物とは違う。明らかに“狩る側”だ。距離は近い。逃げ切れる保証はない。
それでも――
(……これを持って帰らないと)
ルクの顔が浮かぶ。苦しそうな呼吸。熱に浮かされた顔。
(絶対に持って帰るんだ)
ユウは歯を食いしばる。そして一気に解熱草を引き抜いた。ぶちっ、と根が切れる感触が手に残る。
その瞬間――影が動いた。
「……来るなら来いよ。こっちも、引くわけにはいかないんだよ……!」
震える声で、それでもはっきりと言い放つ。逃げるために体を構えながら。




