初めての収穫
森に入った瞬間、空気が変わった。
それは単に冷たいというよりも、もっと粘りつくような重さを持っていた。胸の奥に湿った布を押し当てられたように息が詰まり、吸い込むたびに土と腐葉土の匂いが鼻にまとわりつく。わずかに甘く、それでいてどこか生臭い――生き物の気配が混ざった匂いだった。
足元の地面も厄介だった。柔らかいというより粘る。踏み込むたびに足が沈み、引き抜くときにじゅくりと嫌な音を立てる。靴代わりの布はすぐに湿り、冷たさがじわじわと染み込んできた。
「……思ってたよりこわいな」
思わず漏れた声はやけに軽く、森の中で浮いて聞こえた。
八歳の体。細い腕に頼りない足。ほんの少し動いただけで息が上がるこの体で、本来なら足を踏み入れていい場所ではない。それでも頭に浮かぶのはルクの顔だった。青白い頬、浅い呼吸、腹を押さえて小さく丸まる姿――あれはもう我慢できるレベルではない。このまま何もしなければ、確実に終わる。
「……やるしかねぇだろ」
喉の奥でそう絞り出し、一歩踏み出した瞬間視界の端に違和感が走った。草の輪郭がわずかに光って見える。
「……採取、か」
小さく呟き近くの草に手を伸ばす。触れた瞬間頭の奥に情報が流れ込んできた。
【痩せ草】
・食用可
・栄養価:極小
・毒性:なし
・効果:なし
「極小ってなんだよ……」
苦笑が漏れるがすぐに現実に引き戻される。草は思ったより固く、根は地面に絡みついていた。
「くそ……抜けろよ」
引き抜こうとするとぶちっと嫌な抵抗が指に伝わり、爪の間に黒い土が入り込む。
「っ……地味に痛いなこれ」
数本抜いただけで指先がじんわり痛んだ。
(……思ってたよりきついぞこれ)
それでも手は止めない。少しでも量を確保するしかない。
さらに奥へ進むと、低い木に赤い実がなっているのが見えた。さっきよりも強く光っている。
「……これは……少し甘い匂いするな」
慎重に近づき手を伸ばす。触れた瞬間再び情報が流れ込んだ。
【赤実果】
・食用可
・糖分:低
・水分含有量:中
・毒性:なし
・効果:軽度の体力回復
「……よし、当たりだろ」
小さく息が漏れたその瞬間。
ガサッ、とすぐ横の茂みが揺れた。
全身が強張る。心臓が一気に跳ね上がり、喉の奥までせり上がってくるような感覚に襲われた。
「……っ、なんだよ今の……」
呼吸を殺しゆっくり視線を向ける。風ではない。明らかに何かがいる。
再び音がした次の瞬間、茶色い影が飛び出した。
「っ……!」
ウサギに似ているが耳が短く目が異様に黒い。地面を蹴る音が速い。気づけばもう距離が開いていた。
「は……!?速すぎだろ……!」
反射的に追いかけるが数歩で限界だった。足が動かない。肺が焼けるように痛み呼吸が乱れる。
「はっ……はっ……!くそっ……待てよ……!」
影はあっという間に消えた。
その場に立ち尽くし、膝に手をついて荒い呼吸を整える。
(……無理だろ、これじゃ追いつけるわけねぇ)
狩りなんてできるわけがない。武器もないし、体力もない。この体で追いつける相手じゃない。現実は想像以上に厳しかった。
(追うだけ無駄か……)
そう思ったとき、視界にさっきの低木が入る。赤い実はまだそこにあった。
「……あ」
追う必要はない。今の自分にできることをやるしかない。
静かに近づき、音を立てないように枝を掴む。ざらりとした感触とともに棘が指に刺さる。
「っ……痛っ……!」
それでも構わず実をもぎ取る。ぽとりと手のひらに落ちたそれは、小さく軽い。それでも確かな“食べ物”の重さだった。
「……これでいい。これで十分だ」
一つ、また一つと集めていく。気づけば服の裾は膨らみ赤い実と野草でいっぱいになっていた。
(ゼロじゃない。これだけでも……全然違う)
帰り道、足は鈍く重かった。何度もつまずきながら、それでも必死に実を抱えて歩く。
「頼むから落ちるなよ……これ落としたら洒落にならない」
家が見えた瞬間、ようやく息が抜けた。
扉を開ける。
「ただいま……」
声に反応してエナが顔を上げ、次の瞬間、その視線がユウの手元で止まった。
「……それって、一体……?」
ユウは何も言わず差し出す。
「森で取ってきた。食えるやつ」
短い一言。部屋の空気が止まる。
「……本当にこれ食べられるの?」
頷くと、エナはすぐには手を伸ばさなかった。不安そうに揺れる視線。
「毒とか……ないよね……?」
ユウは一つ手に取り、そのまま口に入れる。
「……大丈夫だ。少なくとも今は何ともない」
苦味と酸味が広がる。それでも飲み込む。
「ほら、見てろよ」
差し出すと、エナは迷いながらも受け取った。
小さく噛み、そしてかすれた声を漏らす。
「……本当に……食べられる……」
その一言で、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
ルクがふらつきながら手を伸ばす。
「……にいちゃん、それ……俺も……」
「焦るな。ゆっくりでいい。ちゃんと噛め」
小さな口でかじる。
「……おいしい……な、これ……」
ほとんど息のような声。それでも確かにそう言った。
ユウは目を逸らした。胸の奥が、じわりと熱くなる。
その夜、鍋にはほとんど水しか入っていなかった。それでも、その中に野草と小さな果実が浮かんでいる。ただそれだけの違い。それでも昨日とは違った。
火にかけられた鍋が、ぐつぐつと小さく音を立てる。その音を誰もが黙って聞いていた。
やがて器に分けられ、静かに口へ運ばれる。苦味と酸味。それでも手は止まらない。空っぽだった体に、ゆっくりと何かが入っていく。
ルクが小さく息を吐く。
「……あったかい……」
その一言に、エナは顔を伏せた。ガルドは何も言わない。ただ、その手はわずかに強く器を握っていた。
(……これでいい)
満腹には程遠い。それでも今日は繋いだ。
深夜。
天井を見上げながらユウは小さく呟く。
板の隙間から細い星の光が差し込んでいた。
(……なんでこんな世界に転生したんだ)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
飢え。寒さ。死が、すぐ隣にある場所。
前の世界とはあまりにも違いすぎる。
(……いっそ、記憶なんて戻らなければよかったのに)
知らなければ、比べることもなかった。
ただ、この現実を当たり前として受け入れて、生きていけたかもしれない。
それでも今日、森で拾い集めた実と野草の感触がまだ手に残っている。
(……食えるものがあるだけましか?)
それだけで、今日一日が無駄じゃなかったと思える。
そして――
(……スキル「採取」か)
頭の中に浮かぶ、あの文字。
触れただけで分かる情報。
まるでゲームみたいな仕組み。
(…これがなきゃ何も分からなかった)
どれが食えるのかも、どれが危ないのかも。
指先に残る草を引き抜いたときの感触と棘が刺さった小さな痛み。
現実なのにどこか現実じゃない。
土で汚れた指を握りしめる。
「……絶対に生き延びてやる。何があっても」
その声は小さい。それでも確かな意思がそこにあった。
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《世界詳細》
森はこの世界でもっとも身近で、そして最も危険な場所だった。
グレイウッド村のすぐ外に広がるその森は、一見すればただの自然に見える。木々は高く、草は生い茂り、季節ごとに実をつける植物も多い。食料や薬草の元になる恵みも多く、生活だけを見ればむしろ豊かにすら思える場所だった。
だがその裏には、確かな危険が潜んでいる。
森の奥には、時折“異形”が現れる。
ゴブリンと呼ばれる小型の魔物だ。
知能は高くないが集団で動き、人間を見れば襲う。森の浅い場所に出ることは稀だが、だからといって安心できる相手ではない。数匹でも遭遇すれば、武器のない者はまず生きて帰れない。
そのため、森へ入る者は村でも限られていた。
必要に迫られた者だけが、命を削る覚悟で足を踏み入れる領域。それがこの森だった。
ユウが今立っている場所は、まさにその境界の中だった。
《ステータス》
この世界には、もうひとつ“見えない仕組み”が存在している。
それがステータスだ。
人間は例外なく、生まれながらに何らかの「数値」と「適性」を持っている。筋力、耐久、知識、運動能力――その人間の性質を示す情報が、体の内側に刻まれている。
だが通常、それを自分で確認する方法は存在しない。
誰もが持っているにもかかわらず、それを“見る術”はないのだ。
本来であれば、それを読み取れるのはごく限られた存在だけ。
王都や大きな都市に一人いるかどうかと言われる「鑑定士」と呼ばれる職業の者のみが、特殊な手段によってその情報を可視化できる。
村の人間が自分の能力を知る機会など、ほとんど存在しない。
だからこそ、人は自分の限界を“感覚”で測るしかなかった。
《固有能力》
それはおよそ一万人に一人の割合で現れる、個人専用の特殊能力だ。
身体能力の延長ではなく、理屈では説明できない“個人特性の拡張”。戦闘・生産・感知・補助――種類は様々で、発現する内容も完全に個別で異なる。
だが厄介なのは、その多くが「持っていることにすら気づかれない」という点だった。
発動条件が曖昧で、自覚できるタイミングも限られているため、本人すら一生知らずに終わることも珍しくない。
そして、それを正確に判定できるのもまた――鑑定士だけだった。
ごく一部の者しか知ることができない世界の“例外”。
それが、固有能力という存在だった。
ユウはまだ知らない。
自分がその“例外”に片足を踏み入れていることを。




