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熱に蝕まれていく夜


ユウは警戒を解かないまま廃村の中を歩き続ける。


崩れた家々、放置された畑、風に揺れる草木――どこを見ても人の気配はなく、静寂だけが不気味なほど村全体を支配していた。


「……なんか、嫌な静けさだな」

(静かすぎる。人がいないってだけじゃ、ここまでになるか……?)


しばらく村の中を歩き回った末に、ユウは村外れに建つ一軒の家の前で足を止めた。


他の家は崩れ、朽ち、放置されたまま時間に押し潰されている。だが、この家だけは違っていた。

壁は保たれ、屋根も崩れていない。窓も割れていない。


そしてもう一つ。

村全体に漂う腐臭が、この家の周囲だけ妙に薄い。


「……見るからに怪しいな」

「こういうのって、やっと一息つけそうだと思った場所ほど、ろくでもないことになってるんだよな……」


そう呟きながらも、足は自然と家へ向かっていた。


もう限界だった。

足の感覚は鈍く、膝は小刻みに震えている。疲労が深すぎて、逆に感覚そのものが薄れているような状態だった。


(……これ以上歩き回ったら、本当にその辺で倒れる)


なら、多少危険でも屋根の下を使うしかない。


ユウは短剣に手を添えたままゆっくりと扉を押す。乾いた軋みが静かな村に響き、一瞬だけ足を止めて《気配察知》に意識を向けるが、中から動く気配はなかった。


(……反応はない)


「……今のところは、か」


ユウは慎重に家の中へ足を踏み入れた。


室内は薄暗く、窓から差し込むわずかな光が床を淡く照らしている。机や椅子は整ったまま残され、壁際には食器棚もそのまま立っていた。


荒らされた形跡も、争った痕跡もない。

ユウは室内を見回し、警戒を解かないまま小さく息を吐く。


「……誰もいないのも、それはそれで気持ち悪いな」


視線を壁や床へ向けながら、ぼそりと続ける。


「死体が転がってるよりマシなんだろうけどさ……何もないと、逆に何があったのか分かんねえな」

(静かすぎる。音も、気配も……生きてる感じがしない)


誰に聞かせるでもない独り言だった。当然、返事はない。


そして、その瞬間だった。

全身からふっと力が抜ける。張り詰めていた糸が切れたように、膝がわずかに揺れた。


「……やば」


言葉になりかけた声は途中で途切れる。

限界だった。緊張で誤魔化していただけで、体の中身はとっくに空になっている。


ユウは扉を閉めると、そのまま壁に背を預けて座り込み、ほとんど崩れるように横になった。


床の硬さが妙に落ち着く。

息を吐いた瞬間、押し込めていた疲労が一気に溢れ、まぶたが自然と落ちていった。


(……食い物も、探さねえと……)

(……いや、待て。この村のもんを適当に口にするのは普通に危ねえか)


死病で滅びた村。原因不明。

そんな場所の食料を口にするのは、自殺と変わらない。


「……腹減って死ぬのと、変なもん食って死ぬの、どっちがマシなんだろうな……」


苦笑にもならない息を漏らしたところで、意識がゆっくり沈んでいく。


夢を見る余裕すらなかった。

深い闇に沈み込むように意識が薄れていき、時間の感覚も曖昧になっていく。


ーーー


――どれほど経ったのかも分からない。


不意に、右足に鋭い痛みが走り、沈みかけていた意識が無理やり現実へ引き戻された。


「――っ、痛っ!?」


跳ね起きるように目を開き、ユウは反射的に短剣へ手を伸ばした。

右足に鋭い痛みが走る。同時に、黒い影が床を滑るように駆け抜け、部屋の隅でぴたりと止まった。


「……ネズミ?」


思わず漏れた声とともに、その姿が視界に入る。


毛はまだらに抜け落ち、黒ずんだ皮膚が露出している。痩せ細った体なのに、濁った目だけが異様な光を宿し、逃げることもなくこちらを見上げていた。


「……なんだよ、それ」


嫌な予感を覚えながら右足へ視線を落とすと、ズボンの裾は裂け、そこから血が滲んでいた。


――噛まれた。


その事実と同時に、フォルナ村の死病という言葉が脳裏をよぎる。


「……最悪だろ、それは」

(今考えることじゃねえ)


感染のことを考えるのは後だ。

まずは、目の前の危険を片付けなければならない。


ユウがゆっくりと短剣を抜くと、ネズミは低く身を沈めたまま、揺れるように距離を測り始める。

呟いた瞬間。


「――キィィッ!!」


甲高い悲鳴とも威嚇ともつかない鳴き声が部屋に響き、黒い影が弾けるように床を駆けた。


床を蹴る音すらほとんど聞こえない速度だったが、ユウは反射的に横へ転がって回避し、壁に肩をぶつけながらも無理やり体勢を立て直す。


「……速いな、おい」


着地したネズミは逃げることなくすぐに向き直り、濁った目でユウを睨みつけながら、再び飛びかかろうと後ろ足へ力を込めた。


「キキッ……ギィ……!」

「っ……同じ手は食らわねえ!」


小さい相手は厄介だった。狙いが低いうえに動きも読みにくく、もし疫病を持っているなら掠っただけでも危険かもしれない。それでも、ここで怯んだ瞬間に終わる。


(だからって、引く選択肢はねえ)


ユウは荒れた呼吸をゆっくり整え、視線を目の前の黒い影だけに絞った。

わずかに後ろ足を沈み込ませた次の瞬間、地面を蹴って飛び出す。


「――そこか!」

「ギャッ――!?」


短剣が横に走り、鈍い手応えとともに黒い影は床へ叩きつけられた。

小さな体は数度痙攣したあと、ぴくりとも動かなくなる。


静寂が戻った。

さっきまでの攻防が嘘のように、部屋の中にはユウの荒い呼吸だけが残っている。


それでもユウはすぐには近づかず、短剣を構えたまま周囲へ視線を巡らせた。


「……今ので終わりか?」


返事などあるはずもない。


そこでようやく右足へ目を落とす。

傷自体は深くない。だが問題はそこではなかった。


裂けたズボンの隙間から滲む血を見つめながら、ユウは苦い顔で小さく息を吐く。


「問題は傷の深さじゃねえ……あのネズミが何を持ってたかだ」

(普通じゃなかった。あれは……)


嫌な想像はいくらでも浮かんだ。

熱が出るかもしれない。動けなくなるかもしれない。


最悪、この村で誰にも知られないまま死ぬことになるかもしれない。

だが、考えたところで答えは出ない。


ユウは荷物の中から布を取り出すと、傷口へ巻きつけて強く縛った。薬も知識もない以上、今の自分にできることなどたかが知れている。


「……ったく、最悪だな」


小さく毒づきながらも、手だけは止めない。

布を結び終えると、ユウは短く息を吐いた。


「まあ、今さら考えたって仕方ねえか」

「熱が出るなら出る。倒れるなら倒れる。その時はその時だ」


自分に言い聞かせるように呟きながら、ユウは短剣を握り直してゆっくり立ち上がる。

体は重い。それでも眠気は消え失せ、代わりに残っているのは、生き延びるためだけの張り詰めた緊張だった。


「……こんなところで終わってたまるかよ」


誰もいない部屋に落ちたその声は、返事をする者もなく静寂の中へ消えていった。


そのあとも、ユウはしばらく眠ることができなかった。


傷の痛みと疲労で意識は何度も沈みかける。それでも浅い眠りを繰り返すだけで、まともに休めることはなかった。


ーーー


――そして数時間後。


異変は、ゆっくりと、しかし確実にユウの体を蝕み始めていた。


熱かった。

そんな一言では到底足りない。


まるで全身の内側へ火を流し込まれたかのような熱が血管を巡り、じわじわと体そのものを焼いていく。


「……はぁ……はぁ……」


呼吸をするたび喉が焼けるように痛み、肺の奥まで熱が流れ込んでくる。その熱は血液に乗って全身を巡り、少しずつ身体の自由を奪っていった。


「……っ、くそ……」


視界は揺れ、焦点も合わない。


ユウは壁にもたれ、辛うじて立っていた。右足の傷は脈打つたびに全身へ熱を広げ、頭も背中も腕も痛み、息をするだけで胸の奥が軋む。


(……やっぱり、感染してたか)


そう理解したところで、どうすることもできなかった。


視界は霞み、崩れた天井も壁も、水の中から見上げているように歪んでいく。世界そのものがゆっくり遠ざかり、自分だけが暗い底へ沈んでいくようだった。


「……はぁ……っ、はぁ……」


息をするだけで苦しく、全身を走る痛みと積み重なった疲労に、意識までゆっくりと削られていく。


もう、限界だった。


(……もういいか)

(……ここまでだろ)


「……もう十分だろ……」


掠れた声が静かな部屋に落ちる。


その瞬間、張り詰めていた糸が切れたように全身から力が抜け、ユウは壁からずるりと崩れ落ち、そのまま冷たい床へ倒れ込んだ。


「……くそ……」


呟きも最後まで続かない。


頬へ冷たい床の感触が伝わる。それでも身体の内側を焼くような熱だけは消えず、頭の奥では誰かに掻き回されているような激しい痛みが脈打ち、意識そのものが少しずつ削られていく。


「俺が……何したってんだよ……」


掠れた声は、自分でも驚くほど弱かった。


「なんで……転生してまで、こんな目に遭わなきゃならねぇんだよ……」


喉の奥から漏れた言葉には怒りも恨みもなく、ただ擦り切れた疲労だけが滲んでいた。


前の世界では死んだ。

気づけば知らない世界に放り込まれた。


魔物に襲われ、人を殺し、毎日生きるだけで必死だった。


神様に選ばれたわけでもない。

英雄になりたいと思ったこともない。


それなのに――


「こんなの……ただの地獄じゃねぇか……」


笑おうとしたが、喉の奥でかすれた音になって消えた。


助けてほしいのか、楽にしてほしいのか、それとも殺してほしいのか。もう自分でも分からない。ただ、この苦しみさえ終わるなら、それでよかった。


もう起きていたくない。


息をするだけで苦しい。


もう歩きたくない。


もう戦いたくない。


「疲れたんだよ……」


ぽつりと漏れる。


「もう十分だろ……」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


運命か。 神か。 この世界そのものか。


「俺、頑張っただろ……」


声が震える。


「怖くても戦ったし……逃げたくても逃げなかった……」


誰も答えない。

静まり返った廃屋の中で、自分の荒い呼吸だけが響いている。


「だから……もういいだろ……」


帰りたい。


ルク。ガルド。エナ。


みんな――


「……ごめん」


涙なのか汗なのかも分からないものが頬を伝い、冷たい床へ静かに落ちた。


「もう……無理だ……」

「こんなの……もう嫌だ……」

「頼む……もう終わりにしてくれ……」


本気だった。


その願いに嘘はない。それでも身体は壊れていく一方なのに、意識だけは皮肉なほど途切れてくれなかった。


頭の中が熱に浮かされるように霞み、考えようとするたび思考がまとまらない。


(俺は……)


その続きを思い浮かべようとした瞬間、意識がぐらりと揺れた。


「――ぁっ……」


視界が滲む。


名前が出てこない。どこから来たのか。何を目指していたのか。

誰と出会い、何を守ろうとしていたのか。


思い出そうとするたび、浮かびかけた記憶は砂のように崩れ、指の隙間から零れ落ちていく。


「やめろ……」


思わず漏れた声に応える者はいない。


「消えるな……頼む……」


ルクの笑顔。ガルドの背中。エナの泣き顔。


大切だったはずの光景が、一枚ずつ燃え尽きる写真のように色を失い、水へ溶ける絵の具のように輪郭をなくしていく。


「忘れたく……ない……」


必死に手を伸ばす。


届かない。


あと少しで思い出せそうなのに、名前は闇へ沈んだ。


記憶は誰かに剥ぎ取られるように一つ、また一つと失われ、最後には「大切だった」という感覚だけを残して消えていく。


「なんでだよ……」


掠れた笑いが漏れる。


「ようやく……守りたいものができたのに……」

「こんな終わり方かよ……」


熱に浮かされた思考は少しずつ形を失い、家族の顔も、自分のことも曖昧になっていく。


ユウという名前も。転生者だったことも。戦い続けてきた理由も。守りたいと思った相手も。

そのすべてが霧の向こうへ薄れていく。


「……俺は……」


その続きを思い出すことはできなかった。


視界がゆっくりと暗く染まり、最後に残っていた意識も静かに沈んでいく。


そしてユウは、深い闇の中へ意識を手放した。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



■番外編:取り残された家


ユウが連れて行かれた日の夜、家の中には重い静けさだけが残っていた。


エナは台所の前で立ち尽くし、ガルドも椅子に座ったまま動かない。

そんな中、幼い弟だけが不思議そうに首を傾げる。


「……お兄ちゃん、どこにいったの?」


ルクは玄関の近くに立ったまま、不安そうに辺りを見回している。状況はまだ理解できていない。ただ、いつもと何かが違うことだけは感じ取っている顔だった。


ガルドは答えようとしても喉の奥が詰まり、声が出なかった。


エナも一瞬だけ視線を伏せる。


「……ルク、ユウは……ちょっと遠くに行っただけよ」


ルクは不思議そうに首をかしげる。


「……お兄ちゃん、いつ帰ってくるの?」


ガルドは視線を落とす。


(……遠く、か)


そんな生易しい話ではない。


徴兵、連行、戦場。

現実の言葉はいくつも浮かぶのに、それを口にした瞬間、本当にそうなってしまう気がして、喉の奥で止まったまま動かなかった。


それでも、誰もその言葉を口にできない。

エナは小さく息を吸い、震える声で答える。


「……きっと、帰ってくるわ。だから……もう少しだけ待ってあげましょう?」


その声は、ルクに向けたものというより、自分自身に言い聞かせる祈りのようだった。


ルクはじっとエナを見上げている。その目には疑いなどなく、当然のように兄が帰ってくると信じている色だけがあった。


その視線に耐えきれず、エナはかすかに笑みを浮かべる。


「ほら、ユウが帰ってきた時、ルクが元気にしてないと心配しちゃうものね」


根拠なんてない。

ただ、そうであってほしいという願いを形にしただけだった。


ルクは安心したように小さく頷き、何事もなかったように椅子へ座り直す。


「うん。じゃあ、ぼく待ってる」


その無邪気な返事に、エナは一瞬だけ目を細めた。


「ええ。一緒に待ちましょう」


そう答える声は穏やかだったが、膝の上で重ねた指先は、気づかれないように小さく震えていた。


ガルドは俯いたまま拳を握りしめる。

待つ――その言葉は今の彼にはひどく重かった。


ユウが本当に生きているのか、帰ってこられるのか、それすら分からない。それでも、信じることをやめてしまえば、本当に全てが終わってしまう気がした。


「……あいつは簡単に死ぬような奴じゃねぇ」


その言葉は誰かに向けたものではなく、そう信じていなければ今にも心が折れてしまいそうな自分を支えるためのものだった。


静まり返った家の中では、ルクだけが何も知らない顔で椅子に座り、兄が帰ってくるものだと疑うことなく待っている。


そして、その夜。

家族が帰りを信じて待ち続ける一方で、誰も知らなかった。


待たれているはずのユウが、遠く離れた廃村の片隅で高熱にうなされながら、たった一人で死の淵をさまよっていることを。


今回のユウは、とにかく生き残ることに必死な一日でした。

戦場(ズタボロにされた)から盗賊との遭遇、そしてフォルナ村での感染まで、休む間もなく流れていく形になっています。(とてつもなく濃い一日)


小さな出来事も積み重なって、かなり消耗していく回になりました。

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