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切り捨てられる命


森へ逃げ込んでから十分ほど。


気づけば周囲は完全に木々に覆われ、乾いた風の代わりに湿った土と腐葉土の匂いが肺の奥へ流れ込んでいた。


足元には木の根が蛇のように張り出し、一歩踏み間違えれば簡単に足を取られそうな悪路だった。


それでもユウの足は止まらない。

むしろ、平地を走っていた時より速かった。


どこへ踏み込めば沈まないか、どの木の間を抜ければ枝に引っかからないか、どの斜面を使えば速度を殺さず曲がれるか――そんな判断は考えるより先に終わっていて、気づけば体が勝手に最短を選び続けている。


その後ろで、ロイとジンが半ば転がるように必死についてきていた。


「くそっ、速ぇよ……! 待てとは言わねぇから、もうちょい走りやすいとこ通れ! こっちは足元見るだけで精一杯なんだよ!」


ロイは荒い息を吐きながら走るが、慣れない森に何度も足を取られ、そのたびに体勢を立て直していた。

ジンも呼吸を乱しながら低く吐き捨てる。


「ふざけんな……! こんな暗い中でその速度はなんなんだよ! お前、本当に足元見えてんのか?」


ユウは振り返らなかった。

振り返る必要がないと分かっていたからだ。


後ろの二人と自分では、もう“走り方そのもの”が違う。単純な脚力ではない。この森でどう動けば生き残れるか、その感覚だけが妙に鮮明だった。


ロイが息を荒げながら叫ぶ。


「まずいぞ……! このままじゃ追いつかれる! どっかでやるしかねぇ!」


その声で、状況はよりはっきりする。


――このままでは逃げ切れない。


背後の気配は消えない。むしろ、確実に距離を詰めてきていた。

盗賊たちの足音に焦りはない。枝を踏む音も乱れず、森を知り尽くした者特有の迷いのなさだけがあった。


追いつけると分かっている側の動きだった。

ロイが歯を食いしばりながら叫ぶ。


「くそっ! あいつら全然振り切れてねぇ!」


その瞬間、背後で太い枝がへし折れる乾いた音が響き、距離の近さを嫌でも理解させられる。

直後、暗闇の奥から笑い混じりの声が飛んだ。


「だから言っただろ? 無駄なんだよ。森に逃げりゃどうにかなると思うやつ、毎回いるんだよなぁ」


別の男も続ける。


「最初から大人しく止まっときゃ、もう少し手加減してやったのによ。逃げるから、こっちも追いかける羽目になるんだろ?」


その声には、獲物を追い詰める余裕と、遊び半分の残酷さだけが混じっていた。


その瞬間、ユウの中で何かが静かに固まる。

三人では無理だ。誰かが足を止めれば、それで終わる。


そんな考えが頭をよぎった直後、前を走っていたジンの肩がわずかに揺れた。

ほんの一瞬だけ振り返ったその目には迷いがない。


(……まさか)

「ジン……?」


そう思った瞬間だった。

横から鈍い衝撃が叩き込まれる。


「ぐっ!?」


体ごと押し潰されるような勢いで突き飛ばされ、視界が一気に回転した。木々と空と地面の位置関係がめちゃくちゃに崩れ、何が起きたか理解する前に背中から地面へ叩きつけられる。


「がはっ……!」


肺の中の空気が押し出され、呼吸が止まる。吸おうとしても何も入ってこない。


「悪い、ユウ!」


ジンの叫び声が聞こえた。


「許してくれ!」


そして視界の端で、ロイとジンの背中が止まることなく森の奥へ消えていった。

振り返らない。立ち止まらない。


その姿を見た瞬間、ユウは理解した。


(……そういうことか)

(俺を置いていくのか)


ただ一度だけ、ジンの口元がわずかに動いた。


「……悪ぃな。本当はこんな真似、したくなかった」


その声に後悔はあった。

だが、それ以上に「そうするしかない」と割り切った人間の響きがあった。


ロイも一瞬だけ視線を寄越す。


「……すまねぇ」


それだけ言い残し、二人の姿は枝葉の奥へ消えていった。

ユウは倒れたまま、その背中を見送るしかなかった。


怒りはなかった。


誰か一人を切り捨てれば、残りが生き延びる確率は上がる。

それがこの世界では正しい判断になり得ると分かってしまうからこそ、胸の奥だけが静かに冷えていく。


そんな空白を埋めるように、ゆっくりと影が差した。

泥のついた靴先が視界に入り、その奥で短剣の鈍い光が揺れる。


「へぇ、悪くねぇな。ああいう割り切りができるやつ、俺は嫌いじゃねぇぜ」

「仲良しこよしで全員まとめて死ぬより、よっぽど賢い」


すぐ近くで楽しげな声が落ち、別の男が鼻で笑った。


「ま、置いてかれた側からすりゃたまったもんじゃねぇだろうけどな」

「ついてなかったな、ガキ」


逃げ場はない――そう思考が固まりかけたその時、地面に投げ出されたユウの指先がわずかに動いた。


湿った土を掴んだ感触と冷たさが皮膚を通して意識の奥へ突き刺さり、ぼやけかけていた思考を無理やり現実へ引き戻す。


(……まだだ)

(まだ終わってねぇ)


頭の奥で何かが弾けた。


《スキル:脱出 を取得しました》

《逃走時、障害物・地形・敵配置を無意識に解析し、最も生存率の高い移動経路を直感的に選択する。》


その瞬間、森の見え方が変わった。暗闇の中に抜け道のような線が浮かび、どこを通ればいいかが最初から分かっているように見える。


さらに、反射的に《加速》を発動。


ユウはためらわず地面を蹴り、体を低くひねって転がるように滑り込むと、男の足元に生まれた一瞬の隙間をすり抜けた。


「はぁ!?」


間の抜けた声を置き去りにして、ユウの体が盗賊たちの横を駆け抜ける。


枝を避けるのではなく枝の間へ入り込み、張り出した根を踏み越え、斜面を滑るように抜けていく。その動きはまるで森そのものがユウだけの逃げ道を用意しているかのようだった。


「おい、なんだ今の動き!?」


背後で怒号が爆発する。


「たかがガキ一人だ! さっさと捕まえろ!」

「見失うんじゃねぇ! まだ近くにいるはずだ!」


怒声と足音が重なり、再び森の奥へ追跡が伸びていく。だが、盗賊たちの視界からユウの姿は何度も消え、低い枝の下を滑り抜け、湿った斜面で方向を変えながら、考えるより先に動く体のまま森を駆けていた。


肺は焼けるように熱く、喉には血の味が広がっていたが、止まれば終わるという理解だけが限界を押し流し、やがて背後の足音にも乱れが混じり始める。


「くそっ! どこ行きやがった!?」

「さっきまで見えてたじゃねぇか! なんで消えるんだよ!」

「チッ、面倒なとこばっか抜けやがって……!」


怒声には、さっきまでの余裕はもうなかった。


ユウは振り返らない。距離は感覚で分かっていた。背後の気配は少しずつ遠ざかり、やがて足音も森の中へ消えていく。


それでもユウは止まらない。枝を払い、根を飛び越え、暗くなり始めた森をさらに奥へ進む。

やがて遠くから、悔しげな怒声だけが響いた。


「くそっ! どこに消えやがった!!!!!!」


その怒声も、今では遠く木々の向こうから微かに聞こえるだけだった。

そこでようやく、ユウは足を止める。


次の瞬間、全身から力が抜け、その場に膝をついた。


「……っ、はぁ……は、ぁ……!」


呼吸は乱れ、焼けるような喉の痛みと激しく脈打つ心臓が全身を支配していた。筋肉は細かく痙攣し、視界もまだわずかに揺れている。


それでも、理解はできた。


(……逃げ切った)


そう思った瞬間、張り詰めていたものが一気に緩む。


「……生き、てる……」


森は静かだった。枝葉を揺らす風の音と遠くで鳴く虫の声だけが耳に届き、その静寂が追手の気配が消えたことを嫌でも実感させる。


ユウは荒い呼吸のまま顔を上げたが、暗い森の中に人の気配はなく、ロイの姿もジンの姿も見当たらず、残されていたのは自分一人だけだった。


(……一人か)


木にもたれながら呼吸を整えたユウは、ふと自分の手を見下ろす。

土と血で汚れた指先は小さく震えていた。


一つでも判断を間違えていれば終わっていた。

その実感だけが遅れて胸の奥に重くのしかかってくる。

それでも、生きていた。


「……また、生き残っちまったな」


ユウはゆっくりと息を吐き、閉じかけた目をもう一度開く。


だが、まだ休めない。

ここが安全だという保証はなく、盗賊だけでなく、この森に何が潜んでいるのかも分からない。


(立て……)

(まだ終わってねぇ)


体は悲鳴を上げていた。足は重く、肺は焼けるように痛み、今すぐその場に倒れ込んでしまいたいほどだった。


それでも、ユウは小さく息を吐く。


ようやく追手を振り切っただけだ。

生き延びたわけじゃない。

まだ終わっていない。

まだ、生きるための道の途中なのだから。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



■とある初殺しの記憶


最初は、何も考えていなかった。


考える余裕など最初からなく、怒号と土煙、鉄と血の臭いが渦巻く戦場は訓練とはまるで別物で、前では誰かが倒れ、足元には血と肉が混ざったぬるい地面が広がり、背後からは絶えず怒鳴り声が飛び交っていた。


「止まるな! 前へ進め!」


怒鳴り声と同時に背中を蹴られ、俺はよろめきながら前へ押し出された。

立ち止まることすら許されない。


槍を握る手は汗で滑り、情けないくらい恐怖で震えていた。


(嫌だ……帰りたい……)

(母さん……)


出征の日、母が言った『ちゃんと帰ってくるんだよ』という声だけが、やけに鮮明に頭に残っていた。


槍を握る手は震え、喉の奥は張り付くように乾いていた。


「助けてくれ!」

「下がるな!」

「押し返せ!」

「うわあああっ!」


悲鳴と怒号が入り乱れる中、誰かが倒れる音と金属のぶつかり合う音が絶え間なく響いていた。


そして気づけば、目の前には自分と同じくらいの年頃の敵兵がいた。怯えた顔も、震える槍先も、乱れた呼吸も、自分と何も変わらない。


目が合った瞬間、妙なことを思った。


(……こいつも怖いんだ)

(俺と同じなんだ)


相手にも帰りを待つ誰かがいたのかもしれない。

そんなことを考えてしまった。


だが。

「殺せぇぇぇ!」


後ろからの怒号と同時に背中を押され、転びそうになった反射で槍を突き出していた。


柔らかい感触。

続いて、肉を裂く鈍い抵抗。


「あ……」


気づいた時には、槍は敵兵の腹に深く突き刺さっていた。

近すぎる距離で目が合う。


「うっ……ぐ……」


敵兵は苦痛に顔を歪め、震える唇からかすれた声を漏らす。


「い、痛い……」

「嫌だ……」

「し、死にたく……」


血を吐きながら、必死に何かを伝えようと口を動かす。


「……かあ、さん……」

「え……?」


言葉にならない。

もう一度、必死に口を動かす。


「……帰り、たい……」


反射的に槍を引き抜くと、熱い血が頬に飛び散り、敵兵は地面へ崩れ落ちた。


それでもまだ死んではいない。

喉を鳴らしながら浅く息を吸い、何かを掴もうとするように震える手を伸ばしている。


若い顔だった。


泥と血に汚れていても、自分とそう変わらない年頃だと分かる。


血に濡れた淡いピンク色の髪が額に張り付き、その顔からはまだ少年らしささえ消えていなかった。


やがて胸元から小さな布袋が落ち、中から歪な木彫りの人形が転がった。


震える指が、それへと伸びる。


「……ネ……ル……」


かすれた声。

娘の名前なのか、妹の名前なのか、それとも恋人の名前なのか。


もう確かめることはできない。

その姿を見た瞬間、理解してしまった。


(……家族か)

(待ってる奴がいたのか)

(こいつにも……)


胃の奥がひっくり返る。

吐き気が込み上げ、槍を取り落としそうになる。


「なんで……なんで俺……」


そこまでだった。


「何ぼさっとしてやがる!」

「死にてぇのか!」


誰かに鎧を掴まれ、無理やり立たされる。


「敵はまだいるんだぞ!」

「下を見るな! 前を見ろ!」


怒鳴り声と共に再び前へ押し出され、それでも腹を貫いた感触だけはいつまでも消えなかった。


―――


夜。

焚火の周りでは、生き残った兵士たちが酒を回しながら笑っていた。


「初陣にしちゃ上出来だったな!」

「よくやったじゃねえか!」


誰かが肩を叩く。

だが、うまく笑えなかった。


何度洗っても、手に血が残っている気がする。

目を閉じれば浮かぶのは、あの若い兵士の顔。

最後まで木彫りの人形へ手を伸ばしていた姿と、腹に槍が沈む感触が何度も蘇る。


「……っ」


思わず飛び起きる。だが夢じゃない。


今日、自分は人を殺した。

敵を倒した、なんて立派なものじゃない。

誰かの息を、誰かの帰る場所を、誰かの未来を、この手で奪った。

その事実だけが、やけに静かに胸の奥へ沈んでいく。


(……もう戻れない)


戦う前の自分には。

二度と。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



《設定詳細》


■冒険者


冒険者とは、魔物討伐や探索、素材回収などの依頼を請け負う者たちの総称であり、各地の冒険者協会を拠点として活動する。


依頼内容は魔物討伐や未踏領域の調査、行方不明者の捜索など多岐にわたり、その多くは危険を伴う。


実力差は大きいが、熟練した冒険者は単独で複数の兵士に匹敵する戦闘力を持ち、地形利用や奇襲など個人戦闘に優れる。


また、高い実力を持つ冒険者を雇うには多額の報酬が必要であり、国家や領主からは必要に応じて契約する「外部戦力」として扱われている。



とある○○の記憶のストック足りるかな、、、皆さんこの後半のショートストーリー好きですか???

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