〈 に 〉
骸井自身、他人の心配をしている余裕なんてなかった。
目の前の幽霊(?)女は歪みが消失したのを確認すると、真顔でこっちを見つめてきた。
「おい、女」
「女って……私だってちゃんと〝白井有栖〟って名前があるんだけど、この際だから覚えてもらってもいいかしら?」
意思疎通を図ってみたら、案外普通の会話が返ってきた。
「お前の目的は何なんだ?」
「私の目的……」
骸井は白井有栖の目の届かない位置で、小さく【 透 】と書きパチンっと一拍打った。
すると、嵯峨野の身体が見る見るうちに透けてゆき、やがて完全に見えなくなった。
しばらくした後、唐突に扉が〝ガラッ!〟と開いた。
そこには誰の姿も無かった。
これでひとまず嵯峨野を神下の救出に向かわせることができた。
その間、白井有栖は一連の流れに対して、特段、意に介す訳でもなく続けた。
「〝私のもう半分がここにいるから取り返しに来た〟、が目的かしら」
「……その目的はもう達成されたんじゃないのか? 何故すぐに出ていかない」
「骸井九……いや、九ちゃん?」
「……?」
「私は一回も〝目的が一つ〟とか、〝目的が達成した〟なんて言ってないわよ?」
白井有栖は糸に引っかかった獲物を選ぶ蜘蛛のような、愉悦に満ちた表情を浮かべてそう言った。
という事は、まだ取り込んでいない? つまり、あの時脳内に聞こえてきた白井有栖の声はブラフだったという事になり、本当にそうなのだとしたら……。
この状況はかなりまずいという事である、というのを今更ながらに痛感する骸井。
骸井の中にある選択肢は二つ。
一つは早急に白井有栖を倒しすぐに嵯峨野の下へ向かうこと。
もう一つは、今目の前にいる白井有栖を無視して嵯峨野の下へと直行すること。
いや、そもそも白井有栖が言っていることの全てが嘘で、こっちが隙を見せるのを狙ってのブラフという可能性もある。
が、しかし、透明化した嵯峨野に全く意を介さなかった理由が、単に「もう一人の自分なら簡単に殺せるだろうと考えたから」に当てはまる可能性が高すぎるのだ。
「それと……」と小さく言ってわざとらしく間を開けた後、白井有栖はきめ細やかで真っ白な腕をすらりと伸ばして、手のひらを上にし、人差し指を骸井の眉間へと向ける。
「私は……貴方が欲しい」
その瞳に敵意は感じなかった。
ただ純粋な羨望と少し湿った哀愁があった。
「……」
骸井はしばらくの間沈黙を貫いていた。
というのも、返す言葉が見つからなかったのだ。
嫌悪も殺意も湧かなかった。ただただ、自分がどう思っているのか、考えているのか、一体どうするのが正解なのかが、何もわからなかった。
「その為に私は何でもするわ。貴方の傍にいるためならなんだって……」
まるで、懇願するように、縋るような声と表情で、自身の指を噛む。
一滴の血液が床に落ちる。
「たとえ貴方に嫌われたとしても、もう貴方が返事をしなくなったとしても、私だけはずーっと一緒に居るわ……!」
沈黙――それは今、骸井の「答え」に変わった。
それでも。
骸井の心にザラザラとした罪悪感が凪いだ。
覚悟を決めて。
骸井は頭の中で【 消失 】と思い浮かべた。
すると、骸井の頭の上からスッと【 消失 】の文字が降りてきた。
「来世で会えるといいな」
一思いに。
骸井は手のひらを合わせて。
一拍――打った。
「嫌! まっ――――――――――
パチン。
この結界に風は吹かない。
弩級の危険因子として存在した女に愛を告げられた後、自分の手でそいつを殺したという事への葛藤。
初対面の女になびく心など僕にはない――と何となく思っていた骸井を揺るがすこの出来事は果たして何だったのか。
自分自身の感情や心の中を「ぐちゃぐちゃ」と音を立ててかき混ぜるだけ混ぜて、結局、抵抗もせずに消えていった女。
これで良かったのか、何が正解だったのか、この痛みの名前は何なのか。
現実とは裏腹に、骸井の心の中は雨風あられで吹き荒れている。
それでも今は足を止めてはいけない。
重くなった足を無理やり動かして、嵯峨野の後を追う。
そして骸井は、誰もいなくなった天井の無い家庭科室を後にするのだった。
―――………
嵯峨野花は走った。
後ろを確認することなく、ただひたすらにまっすぐ走った。
そして、長い廊下を一望した先に倒れている人影を発見し、その影に向かって駆け寄る。
「神下先生! 大丈夫ですか!」
嵯峨野花が近くに寄ると、神下はゆっくり目を開けた。
「おい、小僧……ちょっと手伝ってくれないか」
その声を聴いた途端、嵯峨野は一瞬で動きを止めて、即座に後ろへ後ずさった。
「〝お前〟、まだ生きて……」
「……もうほとんど死んでいるのと変わらないがな。俺はこいつの体を借りてはいるが、さっき、ほぼ全ての力を白井有栖というもう片方の〝自分自身〟に喰われた後だ。要はただの抜け殻で、もう何も出来ない。つまり、そういうことだから、故にほぼ死んでいると言って良いわけだ」
「じゃあ、早く死んでくれ。そして、神下に身体を返せ」
「……? 何を言っている?」
「何って……」
嵯峨野花は気が付いていないわけではなかった。
もしかしたらその可能性があるのではないか、という考えはとうの前から考え付いていた。
ただ、そう考えることが良くないことだから、忘れるように、考えないように、前向きでいなければと、半ば洗脳のように自分自身を納得させていた。
だけど、目の前のそいつは言った。
「こいつはもう死んでいる。霊に殺された人間は魂を抜かれるから、目立った外傷が無くわかりづらい。故に気付かれにくい」
嵯峨野花は鋭い目つきで目の前にいる神下の皮を被った男を睨んだ。
「……存分に怒ればいい、我に人の情など分からぬからな」
そう言われて、嵯峨野は酷く、惨めな思いになった。
今目の前にいるのは、神下をこの世から葬った男であり、同時に、その力すらぽっと出のよく知らない半分の自分に奪われた男である。
「……悔しいとかないの?」
「悔しい? はっはっは! 生まれた時からこの暗闇に居るからその感情は分からんな! むしろ、何故殺してくれなかったのだとあいつに問いたいぐらいだ」
「死にたいの?」
「……なぁ小僧、生きるってなんだ?」
嵯峨野はひゅっ――と、空気とともに唾を飲み込んだ。
根底から違うものを模ったその確かな言葉は、嵯峨野を規定する凝り固まった固定概念を大きく揺さぶった。
「……」
「そんな顔をさせたい訳ではない。別に我もその意味など知らないし、もしかしたら意味など無いとすら思って居る。ただ、こいつは我が目の前に現れた時、抵抗をしなかった。ただ、二言三言交わしたのちに自らその命を差し出したんだ。それが不思議でなぁ……それでおぬしならその理由を知っているかと思ったんだが」
「……いや、知らない」
「そうか」
そしてしばらくの間。
静寂の時間が流れた。
「おい小僧、後ろのアレは何だ」
そう言われて後ろを振り向くと、黒くうず巻く何かが空間を歪めながらこっちに向かって来ていた。
嵯峨野はそれが、神下の能力で生成した【 重 】の残骸であるとすぐ判ったのだが、そもそも残骸がここにあること自体がおかしい、という事にすぐに気付いた。
一抹の不安がよぎり、嫌な予感がした。
「あら、また会ったわね」
声が聞こえたと思ったら、その黒い渦は段々と小さくなってゆき、そして、そこには一つの小さな白い丸だけが残った。
その白い丸の表面には、少しくすんだ白い文字で【 想 】と書いてある。
想いの重さが重なって【 重 】に乗り、やがて【 想 】が残った。
馬鹿げている、と嵯峨野花は辛苦の表情を浮かべた。
「さっきぶりだな」
「あら、貴方まだいたのね」
元々一つだったとは思えない二人。
「ちょうど良かったわ!」
白井有栖である白い塊は形を変え、何となく人型の形をしたマネキンのような何かに変化した。
その形がやけにセクシーなのは、彼女自身の魂の形がそうだからなのかは定かではない。
白井有栖はカツカツと、ヒールを鳴らしながら神下の身体に近付き、いきなり心臓の辺りに手を突っ込んだ。
「……ふふ、体が無くて困ってたのよ。じゃあ、借りるわね」
体に突き刺した腕から神下の体へと這入り込む白井有栖。
「小僧」
その時、元々神下に入っていた男が嵯峨野を呼んだ。
「なに?」
「我はお前の探していた物〝そのもの〟になった。こやつの命を代償にしてな」
「――えっ」
「後は託した……そう伝言を頼まれている。――伝えたからな」
そう言うと、神下の体から弾けるように飛び出した何かが――嵯峨野の目の前まで向かってきて――。
嵯峨野はそれを優しく受け止めた。
それは、とても小さくて、軽くて、温かかった。
嵯峨野はそれを確認すると、絶対に無くさないように、大切に大切に制服の胸ポケットへと仕舞った。
途端、嵯峨野の中にあった不安やストレス、緊張が溶けるように落ちてゆき、それらがつま先から地面へと流れて消えていった。
白井有栖が神下冬太郎の体を乗っ取ってからも、すぐに大量の幽霊に囲まれたとしても、首先にナイフを当てられたとしても。
嵯峨野の胸ポケットに〝それ〟がある限り大丈夫だと。
後は目的を果たすために覚悟を決めなければならないと自分を奮い立てて。
彼女は目の前に現れた骸井九を見据えた。
今までに見たことのないような満面の笑顔を湛えながら。




