第9話
「まずは、右大臣家の池の女を処理しなければならない。終わらない夜勤は、まだ続く。」
役所の出口へ向かおうとした俺の前に、神経質そうな細面の青年が立ち塞がった。
陰陽寮の監査官、伴義清だ。彼は眉間に深い皺を寄せ、俺を親の仇のように睨みつけている。
「待て、小野景継。どこへ行くつもりだ」
「右大臣家からの呼び出しです。先ほど申し上げた通りですが」
俺は足を止め、感情を交えずに答えた。
「ふざけるな。先ほどの暴挙、正規の手続きを一切踏んでいないではないか。貴様のような異端の振る舞いを、この私が認めるわけにはいかない。当部署の業務は即刻停止だ」
義清の言い分は、監査官としては正しいのだろう。だが、現場の事情を一切考慮しないその態度は、ただの実務の妨げでしかない。
「事後承諾の書類なら後で出します。それに、右大臣家からの特命が下りているはずですが」
「特例など認めん! 伝統ある陰陽寮の面汚しめ。貴様のやっていることは呪術でもなんでもない、ただの野蛮な暴力だ!」
義清の怒鳴り声が、薄暗い地下の廊下に響き渡る。
俺は内心で深くため息をついた。怪異よりも、こういう融通の利かない上司や監査官の相手をする方がよほど疲れる。
「小野先輩、義清殿の言う通り、規定集には『物理的打撃による事態の収拾』という項目が存在しません。このままでは監査を通過できない可能性が……」
背後から、新人の橘頼道が分厚い規定集を抱えて口を挟んできた。きっちりと整えられた身なりの彼は、マニュアルから外れた事象には相変わらず敏感だ。
「なら、項目を新設しろ。現場の安全確保を最優先した緊急避難措置だと言っているだろう」
俺がそう言い捨てた時、廊下の奥から慌ただしい足音が近づいてきた。
息を切らした伝令の役人が、俺たちの前に転がり込むようにして立ち止まる。
「お、小野殿! 右大臣・源雅信様より、至急の呼び出しです!」
「……池の女の件なら、これから向かうところだ」
「い、いえ! それとは別件でして……他の貴族の屋敷でも怪異が出たから、そちらもついでに処理してこい、と……!」
伝令の言葉に、俺は思わず眉をひそめた。
◆ーーーー◆
右大臣家の広間。
派手な柄の狩衣を着た源雅信は、目の下に深い隈を作りながらも、どこか尊大な態度で俺を見下ろしていた。
「おお、景継。よく来てくれた。実はな、左大臣家の別邸でも妙なモノが出たらしいのだ。そちの腕を見込んで、私が直々に処理を請け負ってやったぞ」
「……管轄外です。それに、本日の業務時間はすでに終了しております」
俺は事務的な口調で即座に拒絶した。
自分の屋敷の怪異すら他力本願で解決しようとする男が、見栄を張って他人の屋敷のトラブルまで引き受けてくるとは。お役所仕事の理不尽さを煮詰めたような無茶振りだ。
「そう固いことを言うな。陰陽師どもは皆、恐れをなして逃げ出してしまったのだ。特にあの安倍泰長め、一番に尻尾を巻いて逃げおって。頼れるのはお前だけなのだ!」
雅信は尊大な態度から一転、すがりつくような声を出した。実害が出るとすぐに泣きついてくるのは、この男の悪い癖だ。
君しか頼めないんだ、などという言葉は、俺にとって最も忌避すべき呪いの言葉である。それを引き受ければ、果てのない残業の沼に引きずり込まれることになる。
「お言葉ですが、雅信様。他家の敷地内での実力行使は、越権行為にあたります。正規の手続きを踏まない業務は、監査官の義清殿が黙っておりません」
俺は義清の名前を盾にして、なんとかこの理不尽な業務命令を回避しようと試みた。
「ええい、堅苦しいことを! 責任は私が持つ。だから、どうか頼む! このままでは私の顔に泥が塗られてしまうのだ!」
雅信はついに床に手をつきそうな勢いで懇願してきた。
権力者の身勝手な見栄と、それに振り回される下級役人の悲哀。俺は顔の筋肉を動かさず、ただ静かに懐から数枚の木簡を取り出した。
「……特別手当の申請書と、現場での器物損壊に関する免責念書です。ここに署名を」
「おお! やってくれるか!」
雅信は喜色満面で筆を執り、ろくに中身も確認せずに署名を書き殴った。
書類の不備や手続きの省略は許さない。俺は署名された木簡を丁寧に回収し、頼道に手渡した。
「行くぞ、頼道」
「はい、先輩。しかし、左大臣家の別邸となると、事後処理の書類がさらに複雑になりますが……」
「お前の腕の見せ所だ。辻褄は合わせろ」
俺は短く指示を出し、夜の都へと足を踏み出した。
◆ーーーー◆
左大臣家の別邸は、鬱蒼とした木々に囲まれた静かな場所にあった。
だが、今はその静寂が不快な音によって破られている。
広大な庭園の中心にある池。その水面から、青白い光を放つ女の姿をした怪異が半身を乗り出していた。
『……うらめしや……名を……名を返せ……』
怨念のこもった声が、夜気を震わせて響き渡る。
周囲の木々は異常な冷気に当てられ、霜が降りている。エリート陰陽師である泰長が逃げ出したというのも頷ける。奴の異常な索敵能力は、この怪異が持つ真の危険度を正確に察知したのだろう。
だが、俺にとってそれは、ただの「業務対象」でしかない。
「深夜の不法侵入、および規定時間を超えた騒音発生ですね。近隣住民からの苦情が出ております」
俺は池のほとりに立ち、怪異に向かって事務的に告げた。
『……わらわの……恨み……思い知れ……!』
女の怪異は俺の言葉など意に介さず、池の水を巨大な氷の槍に変えて放ってきた。
鋭い氷の刃が、空気を切り裂きながら俺の眉間へと迫る。
俺はため息をつきながら、役所支給の分厚い木製の笏を抜き放った。
書類を揃えたりメモを挟むための実務用品。だが、俺が持つこれは、怪異を粉砕するための特注の鈍器だ。
「行政指導に従わない場合は、強制執行に移ります」
踏み込みと同時に、笏を横薙ぎに振るう。
鈍い衝撃音が響き、迫り来る氷の槍が粉々に砕け散った。
『なっ……!?』
怪異が驚愕に目を見開く。呪術的な防御もなしに、物理的な打撃だけで氷の槍を粉砕されるとは予想していなかったのだろう。
俺はそのまま歩みを止めず、池の水面を蹴って跳躍した。
怪異の頭上を取り、笏を両手で構えて振り下ろす。
「深夜の騒音は、都の安寧を乱す重罪です」
ドゴォォォンッ!
笏が怪異の頭部に直撃し、凄まじい轟音と共に青白い光が弾け飛んだ。
女の姿をしていた怪異は、悲鳴を上げる間もなく無数の光の粒子となって霧散していく。
池の水柱が上がり、やがて静寂が戻った。
「ふぅ……」
俺は笏についた水滴を払い、ゆっくりと岸に着地した。
背後では、頼道が猛スピードで筆を走らせている。
「対象の怪異は……急激な気温変化に伴う氷塊の自然崩壊により消滅、と。周囲の器物損壊は、突風によるものとして処理します。これで書類の辻褄は完璧です」
真面目で融通が利かなかった新人は、今や俺の無茶苦茶な実力行使を「自然現象」として書類に落とし込む達人になりつつあった。
「ご苦労。これで今日の業務は終了だ」
俺は短く労い、帰還の準備を始めようとした。
その時、足元の草むらに落ちている小さな黒い塊に気づいた。
先ほど粉砕した怪異がいた場所のすぐ近くだ。
俺はしゃがみ込み、その塊を拾い上げた。
黒い泥のような、粘り気のある欠片。
役所を襲撃した巨大な猿の異形が残したものと、全く同じ感触だ。
「先輩、どうかしましたか?」
頼道が不思議そうに尋ねてくる。
「……いや。少しゴミが落ちていただけだ」
俺は欠片を懐にしまい込み、立ち上がった。
雅信から押し付けられたこの案件。単なる偶然の産物だと思っていた。
だが、そうはいっても、この怪異からも同じ痕跡が見つかったとなれば、話は変わってくる。
差し戻され続けている始末書の案件。
役所を襲撃したあやかしの群れ。
そして、この池の女。
一見バラバラに見えるこれらの事象は、すべて同じ黒い泥の痕跡を残している。
裏で糸を引いている何者か——葛葉の影が、都のあちこちにちらついている。
奴は一体、何を企んでいるのか。
地下の特務機関の業務をパンクさせることだけが目的なら、わざわざ貴族の屋敷にまで怪異を差し向ける必要はないはずだ。
連続する事件の裏に潜む悪意の輪郭が、少しずつ明確になっていく。
だが、その真の目的は依然として深い闇の中だ。
「……面倒なことになりそうだ」
俺は夜空を見上げ、誰にともなく呟いた。
平穏無事な生活と定時退庁への道のりは、まだまだ遠い。
明日の朝には、また山のような報告書の作成が待っている。俺は重い足取りで、静まり返った別邸を後にした。




