第10話
明日の朝には、また山のような報告書の作成が待っている。俺は重い足取りで、静まり返った別邸を後にした。
陰陽寮の地下深く。湿気とカビの匂いが染み付いた薄暗い部屋。
厄介事の掃き溜めとも呼ばれるこの記録部署に戻ると、俺の机の上には出発前よりも高い木簡の塔が築かれていた。
「……また増えているな」
「申し訳ありません、先輩。右大臣様からのご紹介ということで、他の貴族の方々からも次々と依頼が舞い込んでおりまして」
同僚の頼道が、申し訳なさそうに新しい書類の束を抱えてきた。
雅信が俺の腕を妙に気に入り、あちこちで触れ回ったらしい。そのせいで、本来なら陰陽師が対処すべき厄介な怪異案件まで、すべてこの窓際部署に回されるようになってしまった。
俺は増え続ける業務量と、貴族たちとの不本意な人脈形成に心底うんざりしながらも、筆を手に取った。
「すべて順番に処理する。書式の不備や決裁の飛ばしは許さない。きっちり手続きを踏ませろ」
「はい。しかし、もう一つ問題が……」
頼道が差し出したのは、俺が以前に提出した怪異事件の報告書だった。
「また差し戻しか」
「ええ。泰長殿の印が押されています。『文字の跳ねが規定に満たない』『墨の色が薄い』など、些細な理由ばかりで……」
俺は小さくため息をついた。
エリート陰陽師である泰長は、下級役人に過ぎない俺が貴族たちに重宝されている状況に、激しい嫉妬を抱いているらしい。直接文句を言ってくる度胸はないくせに、己の保身とプライドから、こうして権限を悪用して嫌がらせをしてくる。
ただでさえ無限に続く無給の残業が、さらに圧迫されていく。
◆ーーーー◆
深夜。油灯の明かりの下で黙々と筆を動かしていると、けたたましい足音とともに伝令が飛び込んできた。
「右大臣家より緊急の呼び出しです! 雅信様の縁戚にあたる屋敷にて、池の女が毎晩名を呼ぶ怪異が発生したとのこと!」
俺は筆を置き、眉間を揉んだ。
「……つい先ほど、似たような案件を片付けたばかりだが」
「それが、今回はさらに凶悪な怨霊のようでして。泰長殿が先陣を切って向かわれたのですが、現場の池を見るなり顔面蒼白になって逃げ帰ってしまったのです!」
泰長が逃げ出した。
あの男は実戦経験こそ乏しいが、怪異の真の危険度を誰よりも早く察知する異常な索敵能力を持っている。奴が逃げたということは、それだけヤバい代物だということだ。
「……チッ」
俺は舌打ちをし、立ち上がった。
仕事はただの実務としてこなす。それが俺の流儀だ。
役所支給の分厚い木製の笏を帯に差し込む。書類を揃えるための文房具に見せかけた、怪異を粉砕するための特注の鈍器だ。
「行ってくる。留守の間に、差し戻された始末書の清書をしておいてくれ」
「承知いたしました。ご武運を」
頼道の声に見送られ、俺は夜の都へと足を踏み出した。
◆ーーーー◆
現場となった屋敷の庭は、凍りつくような冷気に包まれていた。
池の中央。濁った水面から上半身を乗り出しているのは、泥にまみれた女の怨霊だった。
『……うらめしや……名を、返せ……』
地の底から響くような声が、周囲の空気を震わせる。庭の隅では、屋敷の主である貴族たちが身を寄せ合い、ガタガタと震えていた。
俺は顔色を変えずに、怨霊の正面へと歩み出る。
「深夜帯の騒音規制違反、および私有地への不法侵入ですね。直ちに退去を命じます」
事務的に告げると同時に、帯から笏を引き抜いた。
『……あぁぁぁっ!』
怨霊が泥の腕を振り上げ、俺に向かって襲いかかってくる。
俺は一歩も引かず、踏み込みと同時に笏を横薙ぎに振り抜いた。
鈍い衝撃音。
問答無用の物理打撃が怨霊の頭部を捉え、その形を無惨に粉砕する。泥の飛沫が宙を舞い、怨霊は断末魔の悲鳴を上げる間もなく霧散した。
「浄化、完了と」
俺は笏についた泥を払い、帯に戻す。
唖然として口を開けている貴族たちに向き直り、懐から木簡を取り出した。
「事後処理の書類です。ここにサインをお願いします。特別残業代の請求も含まれていますので、ご確認を」
震える手で筆を受け取る貴族を横目に、俺は池のほとりに視線を落とした。
怨霊が消え去った跡には、黒い泥の欠片が落ちていた。
先ほどの別邸で見つけたものと、まったく同じ痕跡だ。
「……やはり、偶然じゃないな」
俺は欠片を拾い上げ、懐にしまい込んだ。
◆ーーーー◆
夜が明け、空が白み始めた頃。
ようやく夜勤の業務を終えた俺は、重い足取りで下町にある常連の飯屋へと向かった。
暖簾をくぐると、出汁のいい香りが鼻をくすぐる。
「いらっしゃい。……って、あんた、また一段と顔色が悪いじゃないか」
恰幅の良い女将のお玉が、腕まくりをした姿で呆れたように言った。
「いつもの定食を頼む。……少し、業務が立て込んでいるだけだ」
「ふん。どうせまた、上の連中に無茶を押し付けられてるんだろうさ」
お玉はそれ以上は何も聞かず、無言で山盛りの飯と温かい汁物を出してくれた。小鉢には、いつもより多めに煮物が盛られている。
「恩に着る」
俺は箸を割り、温かい飯をかき込んだ。
疲弊した胃の奥に、出汁の旨味が染み渡っていく。せめてこの店で飯を食っている間だけは、平穏であってほしいと切に願う。
店を出て、人気のない路地裏を歩いていると、ふいに背後から声が掛かった。
「随分とお疲れのようですわね、役人さん」
振り返ると、白装束に身を包んだ女が立っていた。頭には猫の耳、腰からは二股の尾が覗いている。
猫のあやかし、白妙だ。
以前、彼女の苦情を処理してやったことで恩義を感じたらしく、最近は情報屋のような真似事をしてくれている。
「何の用だ。こっちはこれから帰って寝るところなんだが」
「あたくしだって、好きでこんな朝早くから出歩いているわけじゃありませんわ。……重要な情報が入ったのです」
白妙は周囲を警戒するように目を細め、声を潜めた。
「あの泥の主……葛葉の狙いが分かりましたわ」
俺は足を止め、彼女に向き直る。
「奴が意図的に各所で怪異を暴走させているのは、単なる嫌がらせではありません。都の結界の要所を潰すことが目的です」
「結界の要所、だと?」
俺は懐にしまった黒い泥の欠片を思い出した。
役所の地下、左大臣家の別邸、そして先ほどの親戚の屋敷。
一見バラバラに見えた襲撃地点は、すべて都を守る呪術的な防衛線の上に位置していたということか。
事態は、単なる業務妨害の範疇をとうに超えている。もし結界が完全に破壊されれば、都全体が未曾有の怪異に飲み込まれることになる。
「……面倒なことになりそうだ」
俺はため息をつき、白妙を見据えた。
「次に狙われるのは、どこだ?」
俺の問いに、白妙はピンと張った猫耳をわずかに揺らし、都の中心部へと視線を向けた。
その瞳に映る不穏な影が、次なる激務の始まりを告げていた。




