第8話
「さあ、一括で処理してやる。特別残業代は弾んでもらうぞ」
怒号と破壊音が交錯する中、俺はただの実務として、圧倒的な力による強制執行を開始した。
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吹き飛んだ蔀戸から冷たい夜風が吹き込み、散乱した木簡を巻き上げる。
役所を包囲する無数の怪異。その背後で糸を引く底知れぬ悪意。
この理不尽な襲撃を実務として完遂した時、果たしてこの堅苦しい監査官は、俺たちの泥臭い業務の必要性を認めるのだろうか。
終わらない夜勤の最中、俺は迫り来る巨大な影に向かって、分厚い笏を高く振り上げた。
振り下ろした笏が、猿の顔をした異形の頭部を正確に捉える。
鈍い破砕音と共に、怪異の体が黒い霧となって霧散した。だが、一体倒したところで次から次へと窓枠を乗り越えて新たな個体が侵入してくる。毛むくじゃらの腕が俺の首を狙って伸びてきたが、半歩退いてかわし、その関節を笏の角で容赦なく砕いた。
「緊急避難措置です。備品破損の始末書は後で提出します」
俺は顔色一つ変えず、背後に迫っていた鳥の異形を裏拳で殴り飛ばす。
「貴様、陰陽師の分際で呪術も使わず、そのような野蛮な真似を……! 規則違反だ!」
部屋の隅で腰を抜かしている監査官の伴義清が、震える指で俺を指差した。神経質そうな細面が、恐怖と怒りで引きつっている。彼は陰陽寮の伝統を重んじる男だ。俺のような下級役人が、雅な呪文の一つも唱えずに物理で怪異を殴り殺す光景は、彼の理解を超えているのだろう。
「監査官殿。現在、当部署は不法侵入者による物理的な妨害を受けています。呪術の詠唱などしている暇はありません」
俺は事務的に返し、次々と湧き出してくる怪異の群れに笏を叩き込む。
陰陽寮の地下深くにあるこの窓際部署での夜勤は、本来なら退屈かつ面倒な書類整理で終わるはずだった。それがどうして、役所内で大立ち回りを演じる羽目になっているのか。
「仕事はただの実務としてこなす。それが俺のやり方です」
「屁理屈を抜かすな! そのような暴力が認められるはずが……」
「義清殿! ご安心ください!」
机の下から、新人の橘頼道が声を張り上げた。彼は頭上に飛び交う怪異の爪を避けながら、猛スピードで木簡に筆を走らせている。普段はきっちりと整えられている彼の装束も、今は埃まみれだ。
「『監査官殿の直接の指揮のもと、特例措置として物理的制圧を実行』……これで義清殿の責任も問われません! むしろ、監査官殿の迅速な判断による手柄となります!」
「私を巻き込むな! 誰が指揮などした!」
義清が顔を真っ赤にして怒鳴るが、頼道は聞く耳を持たない。マニュアル至上主義の彼だが、書類の辻褄合わせに関しては異常な適応能力を発揮し始めていた。
「先輩、事後処理の書式は整いました! あとは対象を排除するだけです!」
「助かる。これで心置きなく残業を終わらせられる」
俺は短く答え、分厚い木製の笏を構え直した。
その時だった。
「景継! 大変よ!」
吹き飛んだ蔀戸の向こうから、場違いなほど明るい声が響いた。
豪奢な十二単の裾を短くからげた美少女が、護衛もつけずに役所へ駆け込んでくる。右大臣家の姫君、藤原彰子だ。彼女は怪異が蠢く室内を見ても怯えるどころか、目を輝かせて興味津々に観察している。
「……姫君。見ての通り、現在こちらは業務の真っ最中です。見学なら日を改めていただきたい」
俺は鳥の異形を蹴り飛ばしながら、ため息交じりに応じた。
「見学じゃないわ! 右大臣家から緊急の呼び出しよ!」
彰子は周囲で暴れ回る怪異の群れを指差し、声を弾ませた。
「さっき伝令を出した、うちの池に出た泥まみれの怪異の件よ! エリート陰陽師の安倍泰長が偉そうに対処に向かったんだけど、あの泥の化け物を見るなり恐れをなして逃げ帰ってしまったの!」
「あの男、また逃げたのか」
俺は舌打ちをした。泰長の異常な索敵能力は、怪異の危険度を誰よりも早く察知する。彼が逃げ出したということは、それなりに厄介な案件だということだ。だが、俺にとっては厄介な怪異も、面倒なクレーマーも、等しく処理すべき業務対象でしかない。
「右大臣家だと!?」
義清が顔面を蒼白にして叫んだ。
「しかし、今は役所が襲撃を受けているのだぞ! このような状況で出動など……」
「だから、私が右大臣家からの特命として事後承認するわ!」
彰子は胸を張り、堂々と言い放った。
「この役所の騒ぎを鎮圧し、直ちに右大臣家へ向かうこと。これは特命よ。監査官殿も、右大臣家の要請を無下にはしないわよね?」
「ぐっ……それは……」
権力を盾に取られ、義清は言葉に詰まる。
「頼道。今の姫君の発言、記録しておけ」
「はい! 『右大臣家からの特命により、本件の物理処理を正式な業務として認定』……完璧です!」
頼道が力強く頷く。
俺は首の骨を鳴らし、周囲を取り囲む怪異の群れをねめつけた。
「……役所への不法侵入に加えて、右大臣家での深夜の騒音規制違反ですか。まったく、次から次へと」
終わりの見えないサービス残業。理不尽な業務命令。
だが、書類上の手続きが整った以上、あとは実務を遂行するだけだ。
「これより強制執行に移る」
俺は踏み込み、手にした特注の鈍器を横薙ぎに一閃した。
空気を裂く轟音と共に、前方に群がっていた猿の異形たちがまとめて吹き飛ぶ。壁に激突し、黒い霧となって消滅していく。
「なっ……」
義清が唖然として息を呑む。
俺は歩みを止めない。迫り来る鳥の異形の嘴を紙一重でかわし、その胴体に笏を叩き込む。羽毛が舞い散り、不快な鳴き声が途切れる。
「深夜の騒音規制違反。および、公務執行妨害」
事務的に違反事項を告げながら、俺は淡々と怪異を粉砕していく。
雅な呪術など必要ない。必要なのは、対象を迅速かつ確実に処理する物理的な力だ。俺はこの規格外の力が公になり、特務機関などに引き抜かれて二十四時間三百六十五日最前線に立たされることを何よりも恐れている。だからこそ、あくまで下級役人の事務処理という体裁を保たなければならない。
「すごいわ、景継! その調子で全部やっつけちゃって!」
彰子が手を叩いて歓声を上げる。
「姫君、危ないですから下がっていてください。血や泥が跳ねます」
俺は注意を促しながら、最後の一体——ひときわ巨大な猿の異形へと向き直った。
奴は太い腕を振り上げ、俺の頭を砕こうと襲いかかってくる。
「書類に不備はありません。やってください、先輩!」
頼道の声に背中を押され、俺は笏を両手で握りしめた。
「これで、本日の業務は終了だ」
振り下ろされた巨腕を笏で受け流し、そのままの勢いで相手の懐に潜り込む。
そして、渾身の力を込めて笏を突き上げた。
鈍い衝撃音が地下室に響き渡る。
巨大な異形は断末魔の叫びを上げる間もなく、全身に亀裂を走らせ、粉々に砕け散った。
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静寂が戻った役所内には、破壊された備品の残骸と、怪異が消滅した後に残る微かなオゾンのような匂いだけが漂っていた。
「……信じられん。呪術を一切使わず、これほどの数の怪異を……」
義清は床にへたり込んだまま、呆然と呟いている。
「義清殿。先ほどの特例書類、後で署名をお願いしますね」
頼道がすかさず木簡を差し出す。義清は力なく頷くしかなかった。
「さて、次は右大臣家の案件か」
俺はため息をつきながら、笏についた汚れを布で拭き取る。
その時、足元に転がっている黒い塊に目が留まった。
先ほど粉砕した巨大な猿の異形が残した残骸の一部だ。
俺はしゃがみ込み、その塊を拾い上げた。
「景継、どうしたの?」
彰子が不思議そうに覗き込んでくる。
「……いえ。少し気になっただけです」
俺は表情を崩さずに答えたが、内心では冷や汗をかいていた。
黒い泥のような、粘り気のある欠片。
これは、以前に俺が処理し、なぜか何度も差し戻され続けている始末書の案件——朱雀大路の発光事案などで見られた痕跡と、完全に一致している。
単なるクレームの寄せ集めだと思っていた。
だが、この役所を襲撃した怪異と、あの始末書の案件が繋がっているとすれば。
裏で糸を引いている何者かは、明確な意図を持ってこの窓際部署を狙っていることになる。
「……面倒なことになりそうだ」
俺は黒い欠片を懐にしまい込み、重い足取りで役所の出口へと向かった。
証拠が示す真の脅威。それが何であれ、俺にできるのは目の前の実務を淡々とこなすことだけだ。
まずは、右大臣家の池の女を処理しなければならない。
終わらない夜勤は、まだ続く。




