第5話
冷たい夜風が、これから始まる未知の厄災を告げるように頬を撫でていく。
俺たちは陰陽寮の薄暗い地下室を出て、右大臣家の別邸へと向かっていた。
「右大臣家の別邸は、ここから歩いてすぐの場所よ。泰長殿が逃げ出したという『池の女』の怪異、一体どんなものか楽しみだわ」
豪奢な十二単の裾を少し短く着こなした藤原彰子が、目を輝かせながら夜の小路を先導する。
俺は無言のまま、役所支給の分厚い笏を懐に収め直し、彼女の背中を追った。
陰陽寮の地下深くにある特務記録係。誰もやりたがらない厄介事を押し付けられる窓際部署。それが俺、小野景継の所属する場所だ。怪異が見える体質のせいで配属されたこの職場は、退屈で面倒な夜勤の連続である。目の前には常に天井に届きそうなほど積み上げられた書類の山があり、終わりの見えない無給労働が俺の胃を削り続けている。
俺のスタンスはただ一つ、仕事はただの実務としてこなすことだ。エリート陰陽師が恐れをなして逃げ出そうが、俺にとっては処理すべき案件が一つ増えたに過ぎない。
「先輩。規定集によれば、貴族の別邸における怪異の発生は、管轄外となる可能性が高いです。特別手当の申請は通るでしょうか」
後ろを歩く橘頼道が、暗がりの中でも器用に木簡へ筆を走らせながら尋ねてくる。身なりをきっちり整えた細身の彼は、常に分厚い規定集を手放さない。
「通すんだよ。規定外の作業を無給でやる義理はない。手続きの省略は許さないからな。きっちり請求書を作れ」
「承知いたしました。事後承諾の形で、右大臣家への特別請求書を作成しておきます」
頼道は真面目な顔で頷いた。融通が利かない新人だと思っていたが、最近はこの理不尽な部署のやり方に適応し、書類の辻褄合わせにおいて頼れる部下になりつつある。
◆ーーーー◆
別邸の敷地に入ると、手入れの行き届いた庭園の奥から、ピリピリとした空気が漂ってきた。
池のほとりに近づくにつれ、ただならぬ気配が濃くなる。
だが、そこで待ち受けていたのは、泰長が恐れた不気味な怨霊ではなかった。
「遅いわよ、役人! 都の管理体制はどうなっているの!」
闇夜に響いたのは、甲高く高飛車な声だった。
白装束に身を包んだ女が、池の前の石灯籠の上に立ってこちらを見下ろしている。頭にはピンと立った猫の耳、背後には二股に分かれた尾が不機嫌そうに揺れていた。
「あたくしの縄張りに勝手に住み着いて、毎晩毎晩うるさいのよ! さっさと追い出しなさい!」
猫のあやかしである白妙が、鋭い爪を立てて怒鳴り散らしている。人間を見下すような態度だが、その声には微かな焦りが混じっていた。
俺はため息をつき、懐からヒアリング用の木簡を取り出した。
「夜分遅くに失礼します。特務記録係の小野です。苦情の申し立て人ですね」
「申し立て人? あたくしは被害者よ! この池はあたくしのお気に入りの水飲み場だったのに、変な泥の化け物が湧き出して、気味が悪くて近づけないじゃない!」
白妙は鼻息を荒くして、池の中央を指差した。
見れば、水面がどす黒く濁り、ブクブクと不気味な泡を立てている。そこから、泥で形作られた女のような姿をした下級の怪異たちが、何体も這い出してこようとしていた。
「……なるほど。あれが泰長殿を逃走させたものの正体というわけね。確かに、ただの怪異ではない不穏な気配を感じるわ」
彰子が興味津々といった様子で身を乗り出す。
「姫君は下がっていてください。業務の邪魔になります」
俺は彰子を適当にあしらい、白妙に向き直った。
「状況は理解しました。縄張りを荒らされたことに対する苦情ですね。行政指導の枠組みで処理します」
「行政指導? 何を悠長なことを言っているの。あんな気味の悪い連中、さっさと祓いなさいよ!」
「手順というものがあります。頼道、現状の被害状況を記録しろ」
「はい。池の水質汚濁、並びに不法占拠による騒音被害として立件します」
頼道がスラスラと木簡に書き留める。
その間にも、池から這い出した泥の女たちが、奇声を上げながらこちらへ向かってきた。
周囲の空気が急激に冷え込み、瘴気が庭園を覆い尽くそうとする。
「ちょっと、来てるわよ! あなたたち、本当に大丈夫なの!?」
白妙が毛を逆立てて威嚇の姿勢をとる。
俺は無表情のまま、分厚い木製の笏を右手で握り直した。
「不法侵入と騒音被害ですね。夜間の騒音防止条例違反として、強制執行に移ります」
言い終わるが早いか、俺は地面を蹴った。
泥の女が鋭い爪を振り下ろしてくる。
俺はそれを最小限の動きで躱し、笏を横薙ぎに一閃した。
鈍い衝撃音とともに、泥の女の頭部が粉砕され、黒い飛沫となって四散する。
「次」
息をつく間もなく、二体目、三体目へと踏み込む。
呪術的な詠唱も、雅な印を結ぶこともない。ただ純粋な物理的打撃によって、怪異の核を的確に破壊していく。エリート陰陽師たちが操るような、美しく雅な呪術への憧れがないわけではない。だが、目の前の業務を迅速に片付けるためには、この野蛮な力の方が圧倒的に効率がいいのだ。
もしこの力が上層部の目に留まれば、昼夜を問わず最前線へ駆り出される羽目になる。平穏な日常を守るためにも、あくまで『事務用品による正当防衛』という建前を崩すわけにはいかない。
「な、なによあれ……」
石灯籠の上で、白妙が目を丸くして呆然と呟いた。
「素晴らしいわ! 景継のあの無駄のない動き、何度見ても飽きないわね」
彰子が手を叩いて喜んでいる。
「先輩、庭石の損壊は最小限にお願いします。後で始末書を書くのは私なのですから」
頼道が冷静に注意を促してくる。
「善処する」
俺は短く返し、最後の一体の胴体を笏で両断した。
池の周囲を覆っていた瘴気が霧散し、静寂が戻る。
残されたのは、地面に散らばる黒い泥の欠片だけだった。
俺は笏についた泥を払い、懐に収めると、再び白妙の元へ歩み寄った。
「処理が完了しました。こちらの完了報告書にサイン、もしくは肉球の判をお願いします」
木簡を差し出すと、白妙はまだ信じられないといった顔で俺と木簡を交互に見比べた。
「あなた……ただの下級役人じゃないわね。陰陽師の呪術も使わずに、あんな力技で……」
「公務を遂行したまでです。サインを」
俺が事務的に促すと、白妙は渋々といった様子で親指に墨をつけ、木簡に押し当てた。論理的な説明と確かな結果を示せば、彼女のようなプライドの高いあやかしでも納得する。
「それにしても、都の役人がこんな夜更けに、しかもあやかしの苦情を聞きに来るなんてね。人間なんて、あたくしたちを一方的に祓うだけの野蛮な生き物だと思っていたけれど」
「我々は特務記録係です。対象が人間であろうとあやかしであろうと、規定に違反すれば取り締まる。それだけのことです」
「ふん、可愛げのない男ね」
白妙は少しバツが悪そうに視線を逸らし、尻尾を揺らした。
「……まあ、助かったわ。恩に着るわよ。あたくし、恩は返す主義なの。一つ、いいことを教えてあげる」
彼女は周囲を警戒するように耳を動かし、声を潜めた。
「最近、都の裏社会で妙な動きがあるの。意図的に怪異を暴走させている者がいるわ」
「意図的に、ですか」
「ええ。あたくしの仲間たちも、黒い泥のようなものを嗅がされて正気を失った奴がいる。誰かが裏で糸を引いて、都中にあの泥をばら撒いているのよ」
黒い泥。
昨夜の現場で拾った欠片と、今夜の池の女たち。
点と点が繋がり、明確な悪意の線となって浮かび上がってくる。
「貴重な情報提供、感謝します。業務の参考にさせていただきます」
俺は表情を変えずに答え、頼道に視線で合図を送った。
「記録しました。一連の事案は、同一犯による計画的な条例違反の可能性がありますね。もしそうであれば、これまでの単発の事案として処理していた報告書を、すべて再提出する必要が出てきます」
頼道が木簡を束ねながら、恐ろしいことを口にした。
「……再提出だと?」
「はい。事案の根本原因が同一である場合、規定集第六章第十二条に基づき、統合報告書を作成しなければなりません」
俺の胃の奥が、急速に冷たくなっていくのを感じた。
「怪異を暴走させている黒幕……。面白くなってきたわね!」
彰子が目を輝かせている。彼女にとって、これは退屈な日常を打ち破る極上の娯楽なのだろう。だが、俺にとってはただの厄介事の増加でしかない。
黒幕の正体を突き止め、根本的な原因を絶たなければ、この終わりの見えない書類仕事から抜け出すことはできない。
「帰りましょう。報告書の作成が待っています」
俺は夜空を見上げ、小さく息を吐いた。
都の闇の奥底で、まだ見ぬ黒幕が静かに蠢いている。その正体を暴くための小さな糸口を、俺たちは確かに掴み取っていた。




