第6話
陰陽寮の地下深く。湿気とカビの匂いが染み付いた薄暗い部屋に戻ると、俺はどっと押し寄せる疲労に息を吐いた。
「特務記録係」——通称、あやかし苦情処理係。ここが俺たち下級役人の吹き溜まりだ。机の上には、先ほどまで相手をしていた白妙の事案を含め、処理待ちの木簡が山のように積まれている。同行していた彰子を屋敷へ送り届けたことで、ようやく純粋な事務作業に集中できる環境が整っていた。
「小野先輩。白妙の証言にあった『意図的に怪異を暴走させている者』についてですが、過去の記録と照合してみました」
頼道が目の下に隈を作りながら、数枚の木簡を机に並べた。彼は真面目な性格ゆえに、こういった地道な作業には労を惜しまない。
「何か共通点があったか」
「はい。最近発生している一連の騒動と、発生源の霊的波長が酷似している事案が一つだけあります。これです」
彼が指差したのは、見覚えのある始末書だった。以前、俺が対応した小さな怪異事件の報告書。なぜか上層部から何度も差し戻され続けている、あの忌まわしい書類だ。
「……なるほど。単なる自然発生の怪異として処理していたが、裏で糸を引いている奴が同じなら、辻褄が合う」
俺は木簡を手に取り、文字の羅列を睨みつけた。もしこの推測が正しければ、差し戻され続けている始末書こそが、すべての発端ということになる。
その時、地下室の重い扉が乱暴に開かれた。
「貴様ら、いつまでこんな無意味な書類遊びをしているつもりだ」
最高級の絹で仕立てられた狩衣を身に纏い、扇子で顔を隠すようにして現れたのは、エリート陰陽師の安倍泰長だった。彼は神経質そうな目で室内を一瞥し、鼻で笑う。
「泰長殿。夜分遅くにどのようなご用件でしょうか」
俺は立ち上がり、事務的な口調で応じた。内心では、また面倒な仕事が増える予感に激しく毒づいている。
「お前が提出した報告書だ。書式が全く規定に沿っていない。すべて書き直せ」
泰長はそう吐き捨てると、どさりと大量の木簡を俺の机に投げ出した。頼道が小さな悲鳴を上げる。
「規定集第六章第十二条に基づき、統合報告書として作成したものですが。どの部分に不備があったのでしょうか」
「口答えをするな。貴様らのような下級役人が、陰陽寮の品位を下げるような真似をするのが気に入らないと言っているのだ。さっさとやり直せ」
傲慢な態度で言い放つと、泰長は足早に部屋を出て行った。次々と厄介な案件を物理で解決してしまう俺の存在が、彼のプライドを酷く刺激しているのだろう。
「先輩……これ、今夜中に終わる量じゃありませんよ」
「泣き言を言うな。仕事はただの実務としてこなすだけだ」
俺はため息をつき、投げ出された木簡を整理し始めた。終わりの見えないサービス残業。過労死という言葉が脳裏をよぎる。
そこへ、今度は息を切らした伝令の役人が飛び込んできた。
「特務記録係! 右大臣家から緊急の呼び出しです!」
「右大臣家? 先日の泥の怨霊とは別件か」
「はい! 『池の女が毎晩名を呼ぶ』という怪異が出現し、屋敷中がパニックに陥っているとのことです!」
伝令の言葉に、俺は眉をひそめた。
「エリート陰陽師の方々はどうした。泰長殿が当直のはずだが」
「それが……泰長様は現場の気配を察知するなり、急な祈祷の予定を思い出されたとかで、お戻りになってしまい……」
また逃げたか。泰長が怪異から逃げ出すのは、単に臆病だからではない。怪異の真の危険度を誰よりも早く正確に察知する、異常な索敵能力の裏返しだ。彼が逃げたということは、今回の「池の女」も相当に厄介な案件である証拠だった。
「チッ……」
俺は舌打ちをし、机の横に立てかけてあった役所支給の分厚い「笏」を手に取った。書類を揃えたりメモを挟むための実務用品だが、俺にとっては怪異を粉砕するための特注の鈍器だ。
「行くぞ、頼道。特別残業代の申請書を忘れるな」
「は、はい!」
俺たちは重い足取りで、夜の都へと向かった。
◆ーーーー◆
右大臣家の広大な庭園。その奥にある大きな池のほとりに、異形の影が立っていた。
水に濡れた長い髪を振り乱し、青白い顔をした女の怪異。彼女は虚ろな目で宙を見つめ、不気味な声で誰かの名を呼び続けている。周囲には異常な冷気が漂い、遠巻きに見守る貴族たちは恐怖に震え上がっていた。
「あれが……池の女……」
頼道が規定集を抱きしめながら、後ずさりをする。
俺は無表情のまま、池のほとりへと歩み出た。怪異の放つ瘴気が肌を刺すが、気にするほどのことはない。恐ろしいのは怪異ではなく、明日の朝までに終わらせなければならない書類の山だ。
「そこのあなた。現在時刻は子の刻を回っています。夜間の騒音防止条例違反、ならびに私有地への不法侵入ですね」
俺が事務的に告げると、池の女はゆっくりとこちらに首を向けた。
『……あ……あぁぁぁ……!』
鼓膜を破るような絶叫を上げ、女の怪異が鋭い爪を振りかざして襲いかかってくる。エリート陰陽師なら呪符を展開し、雅な呪術で応戦するところだろう。
だが、俺にそんな真似はできない。
「警告はしましたよ」
俺は踏み込み、分厚い木製の笏を力任せに振り抜いた。
鈍い衝撃音が夜の庭園に響き渡る。笏の一撃を脳天に食らった怪異は、悲鳴を上げる間もなく空中で弾け飛び、光の粒子となって霧散した。
圧倒的な力による、問答無用の物理処理。
周囲を包んでいた冷気が嘘のように晴れ、静寂が戻る。唖然として言葉を失っている貴族たちをよそに、俺は笏を懐に収めた。
「浄化完了です。こちら、完了報告書になりますのでご署名を」
俺は呆然としている右大臣家の家令に歩み寄り、木簡と筆を差し出した。相手が誰であれ、業務として冷徹に接する。それが俺の譲れないやり方だ。
「あ、あぁ……ご苦労だった……」
震える手でサインを受け取ると、俺は短く一礼して現場を後にした。これでまた一つ、厄介な案件を片付けた。だが、根本的な問題は何も解決していない。
あの差し戻され続ける始末書。そして、裏で怪異を暴走させている黒幕の存在。
俺の胃の奥が、再びじわりと重くなった。
◆ーーーー◆
都の暗部。月明かりすら届かない廃屋の奥で、妖艶な美女が豪奢な扇子で口元を隠し、冷たく微笑んでいた。
「またしても、私の可愛い駒が処理されてしまいましたか」
知略派のあやかし、葛葉。彼女は人間社会の法律やルールを逆手にとり、合法的に嫌がらせを仕掛けることを得意としていた。
「あの下級役人……小野景継。なかなか骨のある男ですね。私の完璧な計略を、あのような野蛮な力で粉砕してくるとは」
彼女の周囲には、無数の小さな怪異たちが怯えたように身を寄せ合っている。葛葉はクレーマー怪異たちを裏で操り、特務記録係の業務をパンクさせることで、都の管理体制そのものを崩壊させようと企んでいた。
「陰陽寮のエリートが差し戻しを続けているあの始末書。あれこそが、私が仕掛けた最初の罠だというのに。彼らはまだ、その真実に気づいていないようですね」
葛葉は扇子を閉じ、妖しく目を細めた。
「さて、次なる一手はどうしましょうか。彼の業務を完全に破綻させるための、極上のクレーム案件を用意しなければなりませんね」
闇夜に響く彼女の笑い声は、都に迫るさらなる混乱を予感させていた。差し戻された始末書に隠された真実とは一体何なのか。終わりの見えない実務の先に、底知れぬ悪意が静かに口を開けて待っている。




