第4話
終わらない残業の予感に、俺は胃の奥が鉛のように重くなるのを感じた。
翌日の深夜。陰陽寮の地下深くにある、湿気とカビの匂いが染み付いた薄暗い部屋。
「特務記録係」——通称、あやかし苦情処理係の執務室で、俺は油灯の頼りない明かりを頼りに、黙々と筆を走らせていた。
目の前の机には、昨夜右大臣家で処理した特級怨霊に関する始末書が、天井に届きそうなほど積み上げられている。筆の擦れる音だけが、静まり返った地下室に響いていた。
「……また差し戻しですか。これで三度目ですよ」
向かいの席で分厚い規定集をめくっていた新人の橘頼道が、俺の手元を見て顔をしかめた。身なりをきっちりと整えた細身の青年は、理不尽な業務の連続にすっかり疲弊した顔をしている。
俺が書き上げた報告書には、赤い墨で書かれた付箋が何枚も貼り付けられていた。
『呪術的見地からの考察が皆無である』
『処理手順が陰陽寮の規定に著しく反している』
『再提出を命ず。なお、明日朝までに提出なき場合は減給処分とする』
筆跡は、エリート陰陽師である安倍泰長のものだ。
昨夜、特級怨霊の放つ異常な瘴気を前にして、誰よりも早く現場から逃亡した男である。彼は自身の無能と失態を隠蔽するため、こうして安全な場所から書類上で難癖をつけてきているのだ。
「現場のことも知らないくせに、よく言う。呪術的見地も何も、物理で粉砕したのだから書きようがないだろう」
俺は無表情のまま淡々と答え、付箋を剥がして新しい木簡を用意した。
俺の「怪異を物理で殴れる」という力は、陰陽師らしからぬ野蛮なものだ。エリート陰陽師のような雅な呪術が使えないことを少し気にしている部分はあるが、実務をこなす上では何の問題もない。
泰長が怪異から逃げ出すのは、単なる臆病風に吹かれたからではない。彼の異常な索敵能力が、怪異の「真の危険度」を正確に察知してしまうからだ。だが、だからといって俺のサービス残業を増やしていい理由にはならない。業務外の無給労働は絶対に引き受けないのが俺の信条だ。
「先輩、右大臣家の庭園備品の損壊については、私が辻褄を合わせておきました」
頼道が、きっちりと整えられた書類の束を差し出してきた。
昨夜、俺が怪異を処理する際に巻き添えで破壊してしまった石灯籠や庭石の補償に関する報告書だ。
「『特級怨霊の発生に伴う局地的な突風による自然倒壊』として処理しました。これなら、泰長殿も文句は言えないはずです。規定集第四章第七条の『不可抗力による損壊免責』を適用していますので、賠償責任は役所には発生しません」
「助かる。お前、随分とこの部署のやり方に慣れてきたな」
「マニュアル通りに処理できない事象が多すぎるだけです。ですが、書類の不備を残すわけにはいきませんから。それにしても、先輩のあの物理的な破壊力……書類上で自然災害に偽装する私の身にもなってください」
頼道は深くため息をついた。真面目で融通が利かない新人だと思っていたが、適応能力は異常に高い。無茶苦茶な実務に呆れつつも、確実に書類の辻褄を合わせる彼の手腕は、素直に評価できるものだった。
俺たちが黙々と事務作業に戻ろうとした、その時だった。
◆ーーーー◆
「ごきげんよう。夜遅くまでご苦労様ね」
カビ臭い地下室には似つかわしくない、華やかで上品な声が響いた。
入り口に立っていたのは、豪奢な十二単を身に纏った少女だった。ただし、動きやすいように裾を少し短く着付けているなど、実用性を重視した着こなしをしている。
右大臣家の令嬢、藤原彰子だ。
「……彰子様。ここは関係者以外立ち入り禁止の窓際部署です。姫君が夜歩きして良い場所ではありません」
俺は筆を止めず、視線だけを向けて事務的に告げた。
業務の邪魔になる面倒な見学者は、適当にあしらって帰ってもらうに限る。
「冷たいのね。退屈しのぎに、あなたたちに面白い話を持ってきてあげたというのに」
彰子は物怖じする様子もなく、ずかずかと執務室に入ってきた。目を輝かせ、俺の机の上に積まれた書類の山を興味深そうに覗き込む。
「面白い話、ですか」
頼道が怪訝そうな顔で尋ねる。
「ええ。実は今夜、右大臣家の別邸から緊急の呼び出しがあったの。『池の女が毎晩名を呼ぶ』という怪異が出たそうよ」
彰子の言葉に、俺はピタリと筆を止めた。
「別邸で、ですか」
「そうなの。それで、泰長殿たちエリート陰陽師が意気揚々と向かったのだけれど……現場に着くや否や、恐れをなして逃げ帰ってしまったらしいわ。顔を真っ青にしてね」
彰子は可笑しそうにくすくすと笑った。
泰長がまた逃げ出した。あの男の索敵能力が、再び「致命的な危険」を察知したということだ。
「それで、お父様がひどくお怒りでね。すぐに『あやかし苦情処理係』を呼べと仰っているの。私はその使いというわけ」
「……使いなら、使の者に任せればいいでしょうに」
俺は深いため息をつき、内心で激しく舌打ちをした。
右大臣家からの正式なクレームとなれば、無視するわけにはいかない。書類の不備や手続きの省略は許さないが、正規の業務命令であればこなすしかないのだ。
「自分の目で見て確かめるまでは納得しない性分なの。あなたのあの……野蛮だけれど確実な『実務』を、もう一度見たくてね」
彰子は悪びれる様子もなく微笑んだ。貴族の姫君という肩書きに縛られず、自分の目で真実を見ようとする彼女の行動力は厄介極まりない。
「先輩、どうしますか。別邸の案件は、我々の管轄外では……」
頼道が規定集を抱え直しながら不安げに言う。
「右大臣家からの直接の苦情だ。放置すれば、後でどんな面倒な書類が回ってくるか分かったものじゃない。それに、泰長が逃げ出した案件を処理すれば、あの差し戻しの付箋も黙らせることができる」
俺は机の引き出しを開け、役所支給の分厚い「笏」を取り出した。書類を揃えたりメモを挟むためのただの実務用品——というのは建前で、怪異を粉砕するための特注の鈍器だ。
「……不法侵入と騒音被害ですね。実務として処理します」
俺は立ち上がり、無表情のまま宣言した。
厄介な怪異との戦いが、再びただの「実務」として幕を開ける。
「ふふっ、頼もしいわね。それでこそ、私がわざわざ足を運んだ甲斐があるというものよ」
彰子が満足げに頷く。だが、彼女の続く言葉に、俺の足は止まった。
「ただの騒音被害ならいいのだけれど。逃げ帰ってきた泰長殿が、うわ言のように繰り返していたのよ。『黒い泥が、底なしの泥が湧き出している』って」
黒い泥。
その単語を聞いた瞬間、俺は懐に忍ばせていた小さな欠片の存在を思い出した。
昨夜、特級怨霊が消滅した池のほとりで拾った、微かな瘴気を放つ黒い泥の欠片。
俺は無言のまま、地下室の冷たい床を見つめた。
以前何度も差し戻された「朱雀大路の発光事案」。昨夜の特級怨霊。そして今夜の、別邸の池の女。
一見無関係に思える単発の事件たちが、見えない糸で繋がり、一つの巨大な輪郭を形成し始めている。
泰長が逃げ出したのは、単なる怪異の恐ろしさからではない。
その背後に潜む、都全体を飲み込むような底知れぬ悪意の気配を感じ取ったからだ。
「……行きましょうか。書類の準備を頼む、頼道」
「はい、先輩」
俺は笏を握り直し、薄暗い地下室を後にした。
彰子が持ち込んだこの新たな怪異の相談は、決してただの騒音被害では終わらないだろう。
都の結界の底で、何かが静かに、だが確実に決壊しようとしている。
冷たい夜風が、これから始まる未知の厄災を告げるように、俺の頬を撫でていった。




