第3話
泥と怨念で構成された巨大な腕が、空気を引き裂きながら迫る。
その一本一本が、成人男性の胴体ほどの太さを持っていた。触れれば骨まで凍りつくような、濃密な死の気配。周囲の庭木は瘴気にあてられ、瞬く間に葉を枯らして黒く変色していく。
「せ、先輩! 逃げてください! 規定集のどこを探しても、下級役人が特級怨霊と交戦していいなんて書いてありません!」
背後で腰を抜かしている頼道が、悲鳴のような声を上げる。彼は分厚い規定集を必死にめくっているが、当然ながらこんな規格外の事態に対するマニュアルなど存在しない。
「書いていないなら、現場の裁量で処理するまでだ」
俺は右手に握った分厚い木製の「笏」を構え、泥の腕の正面へと踏み出した。
書類を揃えたり、メモを挟んだりするための、ただの実務用品。しかし、俺の持つこれは特別製だ。怪異の核を粉砕するために極秘裏に調整された、ずっしりと重い特注の鈍器である。
怪異の腕が、俺の頭上から容赦なく振り下ろされる。
俺は一歩も退かず、迫り来る泥の塊に向けて、笏を真っ直ぐに突き出した。
硬質な衝突音が、夜の庭に響き渡る。
泥の腕が笏に触れた瞬間、爆発したように弾け飛んだ。
『ギィィィィッ!?』
怪異が驚愕の声を上げ、動きを止める。自らの攻撃が、呪術でもないただの木の板に防がれたことが理解できないのだろう。
俺は無表情のまま、降り注ぐ泥の雨を避けることもなく歩み寄った。
「不法侵入と騒音被害ですね。近隣住民からの苦情も出ています。速やかに退去してください」
事務的な警告を発しながら、距離を詰める。
怪異は激怒し、全身の泥を波立たせて咆哮した。
『マサノブゥゥゥゥッ!』
怨嗟の声と共に、無数の泥の弾丸が機関銃のように放たれる。
俺は笏を盾のように構え、飛来する泥弾を次々と弾き落とした。バチバチという音と共に、泥が周囲の庭石を穿っていく。
「人の話を聞かないタイプか。一番厄介なクレーマーだな」
怪異が本体ごと突進してくる。庭の池の水が逆巻き、周囲の気温が一気に下がった。
俺は笏を両手で握り直す。
(早く終わらせないと、明日の始業に響く。これ以上のサービス残業は絶対に御免だ)
怪異の巨大な顎が、俺を丸呑みにしようと大きく開かれた。
その瞬間。
俺は笏を、下から上へと思い切り振り抜いた。
特注の鈍器が、怪異の顎を正確に捉える。
ドゴォォォン、という凄まじい衝撃音が轟いた。
怪異の巨体が、物理的な力によって完全に宙に浮く。
「夜間の騒音防止条例違反。強制執行を完了する」
空中に打ち上げられた巨大な泥の化け物は、断末魔の悲鳴を上げながら四散した。
飛び散った泥の塊は、地面に落ちる前に淡い光の粒子へと変わり、夜風に吹かれて浄化されていく。
あとに残ったのは、静寂と、無残に荒らされた右大臣家の庭だけだった。
俺は笏に付着した僅かな汚れを懐紙で拭き取り、懐にしまった。
「せ、先輩……今のは、一体……?」
頼道が規定集を取り落とし、口をパクパクさせている。
「どのような高度な陰陽術を使ったのですか!? 呪文の詠唱も、印を結ぶ動作もありませんでした!」
「ただの物理打撃だ。この笏は、怪異の核を粉砕するために特別に調整されている」
「物理……? 特級の怨霊を、ただ殴って浄化したと!?」
頼道は信じられないものを見る目で俺を見つめた。マニュアル至上主義の彼にとって、規定外の事象は処理が追いつかないらしい。
雅信は腰を抜かしたまま、震える指で俺を指差した。
「お、お前……化け物か……?」
「失礼な。しがない下級役人です」
俺は懐から書類の束と携帯用の筆を取り出し、雅信の前にしゃがみ込んだ。
「不法侵入と騒音被害の処理、完了しました。こちら、作業完了報告書になります。右大臣様、ここに御署名をお願いします」
「そ、そんな紙切れに何の意味があると言うのだ……! 私の屋敷はめちゃくちゃではないか!」
「意味はあります。私の残業代の根拠になりますので。屋敷の損壊については、先ほど免責念書に同意いただきましたよね。早くしてください。定時をとうに過ぎているんです」
俺が淡々と告げると、雅信はヒッ、と短い悲鳴を上げ、震える手で筆を受け取った。
ミミズが這ったような字でサインが書き込まれるのを確認し、俺は書類を回収した。
これで、今日の業務は終了だ。
◆ーーーー◆
渡殿の暗がり。御簾の奥で、藤原彰子は息を呑んでいた。
右大臣家の姫君として、これまで数々の陰陽師の儀式を見てきた。
彼らは皆、仰々しい呪文を唱え、印を結び、時間をかけて怪異を祓う。それが都の常識であり、雅な解決法だとされていた。
だが、あの役人は違った。
ただの木の板で、特級の怨霊を物理的に殴り飛ばしたのだ。
「なんて……なんて野蛮で、無駄のない仕事ぶりなの」
彰子の瞳が、好奇心にギラギラと輝く。
父親の政略の道具として、顔も知らない年老いた貴族の後妻に嫁がされるかもしれない。そんな籠の鳥として退屈な日々を送っていた彼女にとって、それは未知の世界の扉が開いた瞬間だった。
身分や肩書きに縛られず、ただ己の力だけで理不尽を叩き潰す姿。
「小野景継……あやかし苦情処理係……」
彼女は唇を舐め、その名を舌の上で転がした。
もっと知りたい。彼がどのようにして都の怪異と対峙しているのか、自分の目で見て確かめたい。
彰子の胸の奥で、抑えきれない衝動が熱く燃え上がっていた。
◆ーーーー◆
書類の墨を乾かしながら、ふと強烈な視線を感じた。
渡殿の奥。御簾の隙間から、誰かが見ている。
豪奢な着物の裾が見える。右大臣家の姫君だろうか。
その視線は、怪異に対する怯えではなく、異常なほどの熱を帯びていた。
(面倒なクレーマーの予感がする……)
俺は内心で舌打ちをし、視線を外した。業務外の関わり合いは極力避けたい。
周囲には、特級怨霊が撒き散らした濃密な瘴気の残滓が未だに漂っている。
俺は、怪異が消滅した池のほとりを見つめた。
これほど強力な怨霊が、何の前触れもなく右大臣家に現れるはずがない。
自然発生にしては、瘴気の密度が異常だった。エリート陰陽師の泰長が逃げ出したのも、単なる臆病風に吹かれたからではないだろう。彼の異常な索敵能力が、この怪異の背後にある「真の危険」を察知したからに違いない。
ふと、以前何度も差し戻された「朱雀大路の発光事案」の始末書が頭をよぎる。あの小さな怪異事件と、今回の特級怨霊。一見無関係に思える二つの事象が、見えない糸で繋がっているような気がしてならない。
誰かが意図的に呼び寄せたのか、あるいは、都の結界そのものに綻びが生じているのか。
足元に、黒い泥の欠片が一つだけ残っていた。
それはまるで、これから始まる巨大な厄災のほんの欠片に過ぎないと言わんばかりに、微かな瘴気を放ち続けている。
終わらない残業の予感に、俺は胃の奥が鉛のように重くなるのを感じた。




