第2話
夜の平安京。大路は静まり返り、貴族たちの屋敷が立ち並ぶ区画は、普段なら雅な香が漂っているはずだ。
しかし今夜は違った。右大臣家へ近づくにつれ、空気が重く、湿り気を帯びていく。
「右大臣家の池の女、ですか。規定集の第二章、水場における怪異発生事案に該当する可能性があります」
頼道が歩きながら、手元の木簡に何かを書き込んでいる。
「ただの不法投棄の可能性もある。池に粗大ゴミが捨てられて、それに霊障が宿っただけかもしれない」
俺は淡々と返した。
「しかし、泰長殿が逃げ出すほどとなると……」
「あの男は現場の泥仕事が嫌いなだけだ。高級な狩衣が汚れるのを恐れたんだろう」
俺はそう吐き捨て、歩調を速めた。
泰長は実戦経験こそ乏しいが、怪異の気配を察知する能力だけは異常に高い。その彼が、あれほど取り乱して逃げ出す。
嫌な予感が、胃の奥で冷たく渦を巻いた。
右大臣家の豪奢な門が見えてきた。
その時、門の内側から転がるように飛び出してきた人影があった。
「ど、どけ! 私の道を塞ぐな、下級役人ども!」
最高級の絹で仕立てられた狩衣。扇子で顔を隠すようにしているが、その声には聞き覚えがあった。
陰陽寮のエリート、安倍泰長だ。
彼は俺たちを一瞥すらしなかった。ただ、その目は血走り、顔面は蒼白だった。普段の傲慢で権威主義的な態度は見る影もない。
「泰長殿……? なぜあのような慌てぶりを」
頼道が不思議そうに首を傾げる。
「見なかったことにしろ。俺たちの業務に支障が出る」
俺は短く返し、門をくぐった。
屋敷の中は、外よりもさらに空気が冷たかった。
広大な敷地。しかし、庭木は枯れかかり、池の方から冷気が漂ってくる。
渡殿の隅で震えている男がいた。派手な柄の狩衣を着ているが、目の下には深い隈ができている。右大臣、源雅信だ。
「おお、やっと来たか! 遅い、遅すぎるぞ!」
雅信は俺たちの地味な装束を見るなり、苛立ちを露わにした。
「申し訳ありません。あやかし苦情処理係、小野景継です。こちらは新人の橘頼道」
俺は事務的に頭を下げた。
「ええい、挨拶などどうでもいい! さっきの陰陽師はどうした! あの口だけの男め、池を見るなり『私には手に負えん』などと喚き散らして逃げ出しおって!」
雅信の怒声が夜の屋敷に響く。
「泰長殿は、急な体調不良で早退されたものと思われます」
「ふざけるな! あのような名門の恥晒し、二度と敷居を跨がせん!」
雅信は扇子を床に叩きつけた。尊大に振る舞ってはいるが、その肩は小刻みに震えている。
「それで、状況は」
俺は懐から木簡と筆を取り出し、淡々と尋ねた。
「池の女だ! 毎晩、私の名を呼ぶのだ。最初は風流なものだと思っていたが、今夜は様子がおかしい。池の水が黒く濁り、屋敷中が氷室のように冷え切っておる!」
雅信は怯えた目で庭の方を指差した。
確かに、屋敷全体を覆う空気が異常だった。吐く息が白くなるほど冷たく、肌を刺すような瘴気が漂っている。
頼道が分厚い規定集を素早くめくった。
「先輩。規定集第四章第七条によれば、陰陽寮本局の正規陰陽師が処理を放棄した案件は、特務記録係の管轄外となります。直ちに本局への再申請を推奨すべきかと」
真面目な顔で、マニュアル通りの主張をする。
「な、何を言っておる! 本局の連中など呼んでいる暇はない! 今すぐあの化け物をどうにかしろ!」
雅信がパニックに陥り、頼道の肩を揺さぶる。
「しかし、規定では……」
「頼道」
俺は新人の言葉を遮った。
「管轄外の案件を処理する場合、特別手当の他に、事後処理の簡略化が認められている。そうだな?」
「……はい。特例措置として、報告書の書式が一部免除されます」
「なら、やる価値はある」
俺は雅信に向き直った。
「雅信様。本件、当部署にて引き受けます。つきましては、こちらの特別手当申請書と、事後処理に関する念書にサインをお願いします」
「ね、念書だと?」
「はい。処理の過程で庭園の一部が損壊する可能性がありますが、当方では一切の責任を負いかねるという同意書です。書類の不備や手続きの省略は許されませんので」
「ええい、庭などどうでもいい! 早くサインさせろ!」
雅信は震える手で筆をひったくり、木簡に乱暴に署名した。
「確認しました。これより業務を開始します」
俺は木簡を懐にしまい、庭園へと歩き出した。
◆ーーーー◆
広大な庭園は、異様な静寂に包まれていた。
虫の音一つ聞こえない。ただ、池の方から「ピチャ……ピチャ……」と、水面を叩くような不気味な音が響いてくる。
池に近づくにつれ、瘴気の濃度が跳ね上がった。
「せ、先輩……これ、本当にただの騒音トラブルですか?」
後ろをついてくる頼道の声が震えている。
「夜間に奇声を発して住民の睡眠を妨害している。立派な条例違反だ」
俺は無表情のまま答えた。
池の畔に立つ。
かつては美しい錦鯉が泳いでいたであろう池の水は、墨汁のように黒く濁り、ブクブクと不気味な泡を立てていた。
『……まさのぶ……まさのぶぅ……』
水底から、女の怨嗟の声が響く。
だが、それは一人の声ではなかった。何十、何百という声が重なり合い、一つの巨大な呪詛となって耳をつんざく。
ボコォッ!
水面が大きく盛り上がり、黒い泥の塊のようなものが姿を現した。
それは、人間の形をしていなかった。無数の腕や顔が泥の中に浮かび上がり、蠢いている。全長は優に一丈を超えているだろう。
『マサノブゥゥゥゥッ!』
怪異が咆哮を上げた。
凄まじい瘴気の突風が吹き荒れ、庭の木々がへし折れる。
「ひっ……!」
頼道が腰を抜かし、規定集を抱きしめたまま地面にへたり込んだ。
「せ、先輩! 規定集の想定を完全に超えています! これは、特級の怨霊の集合体……!」
エリート陰陽師である泰長が、顔色を変えて逃げ出すわけだ。
こんなものをまともに相手にすれば、並の陰陽師なら一瞬で呪い殺されるだろう。
俺は深いため息をついた。
「夜間の騒音防止条例違反、並びに他人の敷地への不法占拠。悪質極まりない」
俺は懐から、役所支給の分厚い木製の「笏」を取り出した。
書類を揃えたり、メモを挟んだりするための、ただの実務用品。
だが、俺にとっては、終わらない残業を終わらせるための唯一の道具だ。
「これより、強制執行に移る」
俺は笏を右手に握り直し、巨大な泥の化け物を見据えた。
怪異の無数の腕が、俺を引き裂こうと一斉に伸びてくる。
圧倒的な瘴気が、俺たちを完全に呑み込もうとしていた。




