第24話
朱雀大路を埋め尽くす異形の群れは、まるで夜の闇そのものが濁流となって押し寄せてきたかのようだった。
牛頭馬面の巨躯、空を覆う無数の烏天狗、路地から這い出る無数の餓鬼。百鬼夜行の暴走――エリート陰陽師が腰を抜かして都の外へ逃げ出すのも無理はない、絵巻物に描かれる地獄絵図そのものの光景だ。
「小野先輩、北西区画からの妖気流入、依然として止まりません! 被害算定の木簡、追いつきそうにありません!」
後方から頼道の悲鳴混じりの声が飛んでくる。彼は汗まみれになりながら、猛烈な速さで筆を走らせていた。その隣では伴義清が厳しい表情で印を結び、後背を守る結界を張り続けている。
「頼道、書式に不備を出すなよ。一枚でも日付が抜けていたら、翌朝の経理で突き返される」
「この状況で経理の心配ですか!? も、もちろん完璧に仕上げてみせますけど!」
俺は息を整えながら、手にした役所支給の笏を持ち直した。
黒塗りの木材は、ただの事務用品にしては異様な重量感がある。書類を挟んだり机の埃を払ったりするのにも便利だが、その本質は怪異の霊的構造を物理的な衝撃で強引に叩き割るための質量兵器だ。
「……まったく。こんな規模の案件、通常の勤務時間内に収まるはずがないだろう」
額の汗を袖で拭い、俺は低く呟いた。
「特別残業代は弾んでもらいますよ、監査官殿」
「承知している。貴殿がこの事態を収拾するならば、陰陽頭の首を絞めてでも満額支給させよう」
義清の力強い保証が背中に届く。ならば、これ以上の問答は不要だ。無給の労働は断固として拒否するが、正当な対価が支払われる公務であるならば、規定に則って粛々と執行するのみ。
俺は敷石を蹴り、怪異の奔流の真っ只中へと踏み込んだ。
◆ーーーー◆
先陣を切って突進してきたのは、身の丈二丈はある巨大な一本足の鬼だった。丸太のような腕を振り下ろし、路面の石畳ごと俺を叩き潰そうと迫る。
俺は半歩だけ横へ滑り、その打撃を紙一重でかわした。粉砕された石片が頬をかすめるが、視線は標的の急所から逸らさない。
「道路交通法第十八条、および深夜の通行妨害条例違反」
淡々と告げながら、踏み込みの勢いをそのまま右腕に乗せる。手にした笏の平たい面を、鬼の膝関節の内側へ正確に叩き込んだ。
鈍い破壊音が響き、鬼の巨躯が傾く。体勢を崩した眉間へ、下からの振り上げで笏の角を突き刺すように撃ち抜いた。
「――即時強制執行」
大気が震えるほどの轟音とともに、鬼の頭部から全身へと亀裂が走った。呪術的な祓いではない。圧倒的な質量と運動エネルギーによる、純粋な物理的破壊だ。鬼は断末魔を上げる暇もなく、黒い煤となって夜風に四散した。
だが、一体を片付けたところで全体の数から見れば塵に等しい。左右から無数の野衾や鎌鼬が刃となって殺到してくる。
「邪魔だ。まとめて処理する」
俺は笏を両手で構え、腰を深く落とした。下半身のバネを解放し、独楽のように全身を旋回させる。
横薙ぎの一撃。特注の木製鈍器が空気を圧縮し、鋭利な衝撃波を生み出す。殺到していた数十体の小妖が、その一閃に触れた瞬間、まとめて弾き飛ばされて漆喰の土塀へと激突した。衝撃で壁がひび割れ、怪異たちは形を保てずに霧散していく。
その時、頭上の屋根瓦から数体の烏天狗が急降下してきた。爪を研ぎ澄まし、死角から頸動脈を狙ってくる。
「おっと、そっちは通さないぜ、小野の旦那!」
聞き覚えのあるしわがれ声とともに、屋根の上から巨大な網が投げ落とされた。路地裏に住み着いていた一つ目の古狸や鼬のあやかし達が、総出で烏天狗たちを取り押さえている。
「お前たち……」
「旦那に倒されちゃあ寝覚めが悪いが、都が消し飛んだら俺たちの住処も無くなっちまうからな! ここは俺たちに任せて、大元の元凶を叩き潰しな!」
「助かる。後日、清掃協力の感謝状と神酒を支給する」
「へへっ、そいつはありがてえ!」
普段から苦情処理の現場で顔を合わせ、事務的に指導や指導票の交付を行ってきたあやかし達だ。彼らにとって俺は恐ろしい天敵であると同時に、理不尽に祓い殺さず筋を通す唯一の役人だった。その積み重ねが、この土壇場で確かな道を開いていく。
「橘、伴! 中央突破を図る。後方の記録と結界維持を頼む!」
「了解です! 申請書類の束、まだまだあります!」
「前進せよ、小野殿! 背後は私が死守する!」
仲間の声を受け、俺は笏を構え直して一直線に疾走した。立ち塞がる百鬼夜行の怪異を、右へ薙ぎ、左へ叩き折り、足払いで崩しては踏み砕く。一歩進むごとに数体の妖が消滅し、朱雀大路の中央にぽっかりと一本の空白地帯が切り拓かれていった。
◆ーーーー◆
大路の最奥、平安京を覆う結界の結節点である楼門の上から、その光景を見下ろす影があった。
豪奢な十二単を身に纏い、手にした扇子で口元を隠した絶世の美女――葛葉だ。
彼女の狐火のような瞳が、信じられないものを見るように見開かれていた。優雅に揺れていた扇子が、細かく震えている。
「な……何なのですか、あれは……?」
葛葉の声には、隠しきれない動揺と焦燥が滲んでいた。
彼女が綿密に練り上げた計略。陰陽寮の腐敗した上層部を誘導し、結界の要を密かに破壊させ、都全土の怨念と妖気を集結させて解き放った未曾有の大災害、百鬼夜行。
当代最強と呼ばれる陰陽師たちが恐慌を来して逃げ出し、都の機能は完全に麻痺した。はずだった。
都が恐怖と混沌に沈み、自身の支配が完成する――その完璧な絵図が、たった一人の下級役人によって無残に踏み躙られていた。
「馬鹿な……呪術的な儀式も、雅な式神の召喚も一切行わず……ただの木の板を振り回しているだけではありませんか!? なぜ我が精鋭たちが、あのような無作法な暴力一つで消滅していくのです!」
葛葉の張り巡らせた高度な呪術結界も、複雑怪奇な怪異の配置も、景継の圧倒的な物理攻撃の前には何の障害にもなっていなかった。法規違反を淡々と宣告され、鈍器で頭部を粉砕される。それだけの作業の繰り返しによって、百鬼夜行の前衛は瞬く間に壊滅状態に追い込まれていた。
「ええい、不甲斐ない木端どもめ! 全軍突撃しなさい! あの役人を押し潰すのです!」
葛葉が扇を振り上げ、狂乱じみた命令を下す。楼門の周囲を取り巻いていた巨大な怨霊の群れが、黒い暴風となって一斉に地上へと雪崩れ込んだ。
しかし、突撃した怪異の波は、景継の眼前で爆発するように弾け飛んだ。
「――業務妨害、公務執行妨害、および違法集会罪」
血と妖気の霧を突き破り、地味な下級役人の装束を纏った男が姿を現す。
目の下に深い隈を刻み、疲弊しきった表情。だがその瞳には、終わらない残業に対する底知れない怒りと、実務を完遂せんとする冷徹な意志が宿っていた。
「貴様が……小野景継……!」
葛葉は思わず一歩後退した。千年の時を生きてきた大妖の直感が、目の前の男から発せられる異質な脅威を告げていた。
呪術が効かない。策謀が通じない。ただひたすらに、己の仕事を終わらせるためだけに暴力を振るってくる、理解不能の存在。
「葛葉だな」
景継は階段を一歩ずつ踏みしめ、楼門の上へと上がってきた。手にした分厚い笏の先端から、黒い煤がパラパラと零れ落ちる。
「お前の引き起こしたこの騒動のせいで、今夜予定されていた書類整理が全て明日に持ち越しになった。超過勤務の申請書を書くだけでも小一時間はかかる」
「な、何をくだらないことを……! 私は都を統べる者、古の理を取り戻す者ですよ!」
「知ったことか。俺にとっては、ただの悪質な迷惑案件だ」
景継は淡々と言い放ち、笏を構えた。
夜風が吹き抜け、楼門の上に緊迫した沈黙が降りる。都の存亡を賭けた戦いなどという大層なものではない。終わらない夜勤を終わらせるための、最後の実務執行。
景継の鋭い視線が葛葉を射抜き、特注の木製鈍器が高く振り上げられた。




