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第25話

振り下ろした官給品の木笏が夜気を裂き、鋭い風圧で楼門の瓦がビリビリと震えた。


葛葉は咄嗟に身を翻し、手にしていた扇子を広げて宙へ掲げる。紫煙が渦を巻き、幾重もの幾何学模様を描く呪符の壁が展開された。


「無駄な足掻きを! 我が敷き詰めた『百重結界』は、陰陽の理を極めし絶対の盾。野蛮な力任せなど通じません!」


耳障りな甲高い声が夜気に響く。だが、俺は足を止めない。

紫の光膜が何層にも重なり、空間そのものを歪めていた。並の術者なら、この威圧感だけで腰を抜かして逃げ出すところだろう。


俺は右手に握った木製の笏を軽く回転させ、左手で懐の帳面をめくった。


「都市区画内における未許可の防護障壁展開、道路交通法に準ずる道交阻害、ならびに許可申請書における筆頭術者名の偽造——以上三点、形式不備につき却下だ」


「……は? 何を寝言を」


葛葉が眉をひそめた瞬間、俺は踏み込んだ。


結界の継ぎ目、術式が最も密集して歪みが生じている一点。そこに視線を据え、分厚い笏の角を正確に叩き込む。


乾いた衝撃音が響いた。


パキィン、と硬質な音を立てて、一枚目の紫膜に亀裂が走る。エリート連中がありがたがる呪術も、要は構造物だ。基礎工事に手抜きがあれば、角材一本で叩き壊せる。


「なっ……馬鹿な!? 術式を解読もせず、ただの木切れで!?」


「木切れじゃない。官給品の備品だ。破損したら始末書を書かされるんでな、頑丈さだけは保証されている」


息を吸い込み、二撃目、三撃目を機械的なリズムで打ち込む。右から左、斜め上から下へ。無駄のない軌道で笏を振るうたび、強固を誇った結界がガラス細工のように砕け散っていく。


背後から、階段を駆け上がってくる足音が響いた。


「小野先輩! 後方のあやかし残党群、白妙殿の手配した外注部隊が完全に抑え込みました! 書類上の現場責任者サイン、義清殿から受領完了です!」


頼道の張り詰めた声が届く。手にはしっかりと筆と木簡が握られていた。


「よくやった。残業申請の承認印は取ったか」


「はい! 非常時特例条項第三項に基づき、割増手当満額で決済が下りております!」


「上出来だ」


これで心置きなく片付けられる。特別残業代が出るなら、この理不尽な労働にも最低限の価値は生じる。


「まあ、相変わらず無茶苦茶な戦い方をなさいますのね!」


頼道に続いて姿を現したのは、裾を短く括り上げた豪奢な衣装の彰子だった。好奇心に満ちた目を輝かせ、荒れ狂う風の中を用心棒も連れずに立っている。貴族の姫君がこんな危険地帯に突っ込んでくるなど前代未聞だが、注意する時間すら惜しい。


「姫様、危険ですから下がっていてください」


「嫌ですわ。都の歴史が動く瞬間を、この目で見届けると決めましたの。それに、あなたのその事務的なお顔を見ておりますと、恐ろしさなど何処かへ消えてしまいますもの」


彰子は扇で口元を覆い、楽しげに目を細めた。


一方で、結界を次々と粉砕された葛葉の表情は、怒りと焦燥で引き攣っていた。


「小癪な……! 所詮は名もなき下級役人風情が、この私を、大妖たる葛葉をコケにしてくれるとは!」


葛葉が着物の裾を翻し、懐から黒く濁った宝珠を取り出した。禍々しい瘴気が吹き荒れ、楼門の床板がミシミシと悲鳴を上げる。周囲の空気が急速に冷え込み、呼吸するだけで肺が痛むほどの呪毒が満ちていく。


「お前たちの命など、塵芥に等しい! 我が命に従え、闇の淵より出でよ——『黒曜』!」


葛葉が宝珠を掲げて絶叫した。


空間が縦に裂けた。闇の中から、ぬるりと這い出してきたのは、巨大な影の塊だった。無数の赤い眼球が表面に浮かび上がり、輪郭を持たない巨体が楼門全体を覆い尽くしていく。


百鬼夜行の暴走を引き起こした黒幕の正体——超大型の群体怪異だ。


「ひっ……!」


頼道が息を呑み、思わず後退しかける。彰子もその異様な威圧感に、小さく息を止めた。


だが、異変は葛葉の足元から起きた。


「……え?」


葛葉の口から間抜けな声が漏れた。


顕現した黒曜の影が、召喚主であるはずの葛葉の足元に絡みついたのだ。黒い粘液のような触手が彼女の着物を引き裂き、その細い足を締め上げていく。


「な、何を……止めなさい! 私は貴方の主ですよ! 契約に従い、目の前の人間どもを食らいなさい!」


葛葉が狂乱して命じるが、黒曜は意に介さない。無数の赤い眼が一斉に葛葉を見下ろし、裂けた洞穴のような口から耳障りな笑い声が漏れ出た。


力を求めすぎた結果の暴走。制御を失った怪異は、手近な高密度の霊力を持つ葛葉自身を、最初の餌として喰らおうとしていた。


「助け……誰か……!」


かつて都を恐怖に陥れようとした大妖が、無様に床を這い、助けを求めて手を伸ばす。その冷酷な笑みは完全に消え去り、ただの怯えた狐の姿をさらけ出していた。


「先輩……! あれは完全に統率を失っています! 葛葉が取り込まれたら、さらに巨大化して都全土に被害が及びます!」


頼道が叫ぶ。


俺は深く息を吐き出し、手元の笏を軽く握り直した。


「契約主の制御不能による暴走、ならびに周辺への無差別被害拡大の恐れ——」


淡々と告げながら、俺は葛葉と黒曜の間へと歩みを進める。目の下に溜まった寝不足の重みを感じつつ、視線を巨大な影の核へと固定した。


「業務対象の拡大を宣言する。残業時間は、さらに延びそうだな」


振り上げられた黒曜の巨大な影の腕が、葛葉を、そして俺を押し潰さんと頭上から猛然と落ちてきた。

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