第23話
大路を埋め尽くす異形の波は、先兵を排除した程度では微塵も揺るがなかった。
大嶽が去った後も、黒々と渦を巻く瘴気の塊から、次々と奇怪な影が這い出してくる。首のない馬、炎を吹き出す車輪、長大な舌を垂らした百足の化物。際限という概念が欠落しているかのように、禍々しい気配が朱雀大路の敷石を侵食していく。
「……次から次へと、きりがないな」
俺は右手に下げた角材じみた笏を握り直し、小さく舌打ちした。肩口の筋肉が軋みを上げ、手首には鉛のような重みが溜まっている。どれほど頑丈な骨組みであっても、所詮は生身の肉体だ。連続する物理的打撃の反動は、確実にこちらの体力を削り取っていた。
目の前の怪異を一つ叩き潰しても、その背後から二体、三体と湧き出てくる。このままでは定時どころか、夜明けまでに書類の整理すら追いつかない。終わりの見えない無給労働の気配が、湿った夜風に乗って肌を撫でる。
「おい、役人! 貴様の首を寄越せ!」
牛の頭を持つ巨漢のあやかしが、錆びた鉈を振り上げて突進してきた。道路交通の安全を著しく阻害する乱暴な運行だ。
俺は息を吐き出し、半歩横へと体を滑らせた。振り下ろされた鉈が石畳を砕くのと同時に、分厚い笏の腹を相手の頸木めがけて叩き込む。鈍い衝撃音とともに怪異は霧散したが、手応えを味わう暇もなく、今度は背後から無数の黒い触手が伸びてきた。
即座に身を翻して薙ぎ払う。木製の板が風を裂き、肉片のように散る瘴気を吹き飛ばす。だが、足元に踏みとどまるたび、じわじわと疲労が膝にのしかかってきた。
手元の木簡に記録する余裕すらない。通常業務であれば、現場の被害状況、怪異の種別、執行した強制措置の内容を逐一書き留めねばならない規定だ。それを怠れば、後でどれほど膨大な修正報告書を書かされるか分かったものではない。
「先輩! 右側、三条方面からの増援を確認しました!」
不意に、後方から聞き慣れた甲高い声が飛んできた。
振り返ると、装束の裾を乱暴にたくし上げた頼道が、木簡の束と硯箱を抱えて全速力で走ってくるのが見えた。その隣には、普段なら現場に絶対に現れないはずの男——陰陽寮の監査官、伴義清の姿があった。
「頼道、なぜ戻ってきた。避難指示はとっくに出ているはずだ」
「避難などしている場合ではありません! 現場の記録が滞れば、明朝の監査で先輩が過失責任を問われます!」
頼道は息を切らしながらも、素早く筆を走らせていた。視線は前方の怪異群と手元の帳簿を正確に往復している。相変わらず融通の利かない男だが、この状況で帳簿を埋める作業を継続している神経の図太さは、もはや評価に値した。
「小野景継」
義清が一歩前へ進み出た。神経質そうに釣り上がった眉はそのままに、その双眸はまっすぐに俺を見据えている。いつものような減点対象を探す冷たい視線ではなく、切迫した覚悟を湛えた光がそこにはあった。
「監査官自ら現場視察か。あいにく規律正しい呪術の儀礼などは見せられないぞ」
俺が淡々と告げると、義清はわずかに唇を噛みしめ、懐から朱色の印が押された一枚の書状を取り出した。
「陰陽寮令、第七条に基づく非常時特例条項を発動する。これより貴様に、朱雀大路全域における怪異排除の全権限を付与する」
「……全権限?」
「そうだ。貴様の野蛮な手段を、私が今この場で正式な行政代執行として追認した。いかなる越権行為、器物破損、手続きの不備があろうと、すべての事後責任は監査官である私が負う。上層部への言い開きも、始末書の決裁も、すべて私の印をもって通す」
義清は書状を俺の目の前に突きつけた。堅物でルールを何よりも尊ぶ男が、自らの地位と職責を担保にして、規則の壁を自ら打ち破ってみせたのだ。
「お前が規則を曲げるとはな。明日の朝には役職を追われているかもしれないぞ」
「都が滅びてしまえば、守るべき規則も、監査すべき組織も残らん。私は私の責務を果たすだけだ。……だから貴様も、己の職務を全うしろ」
義清の声には一片の迷いもなかった。伝統と格式に縛られていた男が、目の前の現実を直視し、泥をかぶる覚悟を決めている。
その隣で、頼道が誇らしげに胸を張った。
「先輩! 書類の準備は完璧です! 現場損害の概算計上、緊急代執行に伴う免責申請、さらには特別残業手当の事前承認申請書まで、義清殿の署名捺印をいただいて作成済みです! 先輩はただ、目の前の業務を片付けるだけで結構です!」
頼道が掲げた木簡には、几帳面な文字でびっしりと事後処理の手順が記されていた。これだけの辻褄合わせをこの短時間で仕上げるとは、マニュアル至上主義も極まれば恐るべき実務能力になる。
「……なるほど。書類の不備を気にする必要がないわけだ」
俺は思わず口元を緩めそうになり、すぐに無表情へと戻した。
現場で最も忌避すべきは、処理後の書類差し戻しと、それに伴う無駄な修正作業だ。それが完全に免除され、しかも特別手当の申請がすでに通っているのなら、話はまったく違ってくる。
腕の重みが消えたわけではない。肩の軋みもそのまま残っている。だが、後顧の憂いなく暴れられるという条件が揃った以上、これ以上出し惜しみをする理由はどこにもなかった。
「承知した。これより朱雀大路における違法占拠事案の、一括強制排除業務を開始する」
俺は分厚い笏を両手で握り直し、切っ先を前方の闇へと向けた。
百鬼夜行の群れが、威嚇するように咆哮を上げる。無数の赤黒い眼球がこちらを睨みつけ、地響きを立てて突進の構えを取っていた。
「頼道、記録を怠るなよ。一頭につき一行、きっちり帳簿に刻め」
「はい! 一文字も漏らさず記載いたします!」
頼道の元気な返事を背中に受けながら、俺は敷石を強く蹴り出した。
全身の力を下半身から腰、そして腕へと伝える。役所支給の特注品である硬質な木材が、空気を切り裂いて鋭い唸りを上げた。
「——業務執行だ。邪魔をするな」
先頭を走っていた巨大な妖猪の眉間へ、笏の角を真っ向から叩き込む。凄まじい衝撃波が炸裂し、巨躯が骨ごと砕け散って黒い灰へと変わる。
勢いを殺さず、そのまま回転して隣の餓鬼の群れを一薙ぎにした。十数体の影がまとめて宙を舞い、大路の左右へ叩きつけられて消滅していく。
背後では、頼道の筆が猛烈な速度で木簡を擦る音と、義清が呪符を構えて後方の残敵を牽制する指示の声が響いていた。完璧な後方支援がある。俺が足元を気にする必要は、もはや欠片もなかった。
だが、百鬼夜行の中心で渦巻く巨大な妖気の塊は、依然としてその威容を誇示している。先鋒を蹴散らした程度では、この長大な夜勤の終わりは見えてこない。
「まだだ……まだ片付けねばならん案件が山積みだな」
俺は荒い息を整えながら、さらに奥深く、都を呑み込まんとする闇の核心へ向けて、再び確かな一歩を踏み出した。




