第21話
崩れ落ちた瓦礫を靴底で踏み砕きながら、俺は広場へと足を踏み入れた。
空が濁っている。夜の闇を塗りつぶすように、濃密な紫黒色の靄が天を覆い尽くしていた。冷気が肌を刺し、息を吐くたびに白く凍りついて消える。大気が小刻みに震え、耳の奥で無数の虫が蠢くような不快な羽音が響き渡っていた。
広場の中央には、かつて俺が提出して何度も突き返された始末書の現場――祭壇の跡地が口を開けていた。その中心に、豪奢な着物を揺らした狐のあやかし、葛葉が佇んでいる。
彼女は優雅に扇子を広げ、口元を隠しながら細い目を三日月のように歪めた。
「おやおや、無骨な役人様がようやくご到着ですか。ずいぶんと派手に暴れてくださったようですが……残念でしたね。すべては手遅れです」
葛葉が扇子を空へ掲げると、紫黒の靄が一気に膨張した。裂け目から噴き出すのは、これまで相手にしてきたどの怪異とも比較にならない、純然たる悪意の塊だった。
「ご覧なさい。長きにわたり都の隅に追いやられ、貴族どもに虐げられてきた者たちの怨嗟を。これぞ我が悲願、完全なる百鬼夜行の顕現です。もはや陰陽寮の結界など紙屑も同然。今宵、この都は異形の楽土へと生まれ変わるのですよ」
葛葉の宣言とともに、空間そのものが軋むような音が轟いた。無数の影が裂け目から這い出してくる。宙を泳ぐ巨大な魚の骨、炎を噴き出す車輪、数十の腕を生やした巨鬼、啼き声を上げる無頭の鳥――。
視界を埋め尽くす怪異の群れは、百や二百ではきかない。千、あるいは万に達する異形が、地平の果てまで波打つようにひしめき合っていた。地面が重みに耐えかねてひび割れ、周囲の廃屋が次々と圧壊していく。
平安京が積み重ねてきた数百年分の闇が、今まさに一箇所へ凝縮されていた。
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「どけ! そこをどかんか、下賤の者どもめ!」
都の西門へと続く大路を、安倍泰長は無我夢中で駆けていた。最高級の絹で仕立てられた狩衣は泥に汚れ、整えられていた烏帽子は無様に傾いている。普段の傲慢な態度は見る影もなく、その顔は恐怖で青白く引きつっていた。
彼の手足は、先ほどから激しい痙攣を繰り返している。
泰長には生まれつき、他者を隔絶する異常な能力があった。怪異の規模、呪力の深度、そしてそれがもたらす破滅の絶対量を、肌で、骨で、魂で正確に感知してしまうのだ。エリートとしての雅な呪術など、この圧倒的な暴力の前には何の役にも立たないことを、彼の鋭敏すぎる感覚は誰よりも早く理解していた。
「狂っている……! あんなものは人の手で祓える道理がない! 百鬼夜行だと? ふざけるな、あれはただの大災害だ!」
背後の空から放たれる呪力の圧迫感に、泰長は嘔吐感を覚えながら足を速めた。門を守る衛士たちを押しのけ、都の外へと逃げ出そうとする。
誰が残ろうと知ったことではない。陰陽頭だろうが右大臣だろうが、あの場に残る者は全員等しく肉片に変わる。逃げることこそが唯一の正解であり、己の類まれなる知覚が下した絶対の防衛本能だった。
「死にたくない……! 私は名門安倍の血を引く選ばれた人間なのだ! あんな掃き溜めのような場所で、下級役人どもと一緒に野垂れ死んでたまるものか!」
泰長は後ろを一度も振り返ることなく、闇夜の街道へと転がり込むように逃げ去っていった。
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「ひ、ひぃっ……! な、なんですかあれは……!?」
背後で、頼道が情けない声を上げて膝をついた。分厚い規定集を取り落とし、散らばった木簡を拾う手すら激しく震えている。
「あれだけの数……規定集のどこを探しても前例がありません! 陰陽寮本局の術者部隊でも防ぎきれない規模です! 報告書を作成するにも、被害想定の項目が桁落ちして計算できませんよ……! 完全に管轄外です、撤退すべきです!」
頼道の悲鳴じみた訴えは、事務官としては極めて正しい。これだけの規模の災害が起きれば、下級役人の一部署が対応できる限界を完全に超えている。本来なら朝廷が軍を動かし、国を挙げて対処すべき国家危機だ。
だが、俺は手元の木簡に視線を落とした。
そこに記されているのは、今夜中に処理しなければならない案件の山。そして、現場責任者として割り振られた俺の署名だった。
「管轄外で済むなら、とっくに帰って寝ている」
俺は息を深く吐き出し、乱れた襟元を無造作に正した。
「しかし先輩! あの数ですよ!? あんな大群を前にして、我々二人に何ができるというのですか!」
「何ができるかじゃない。片付けなきゃ、明日の朝になっても帰れないんだよ」
俺は右手に持った、役所支給の分厚い木製の笏を軽く振った。ずしりと手首に伝わる馴染み深い重み。角が少し欠け、使い込まれた黒光りする木肌は、これまで数え切れないほどの厄介な案件を力ずくで処理してきた相棒だ。
「定時を過ぎてからの突発案件、道路の不法占拠、深夜帯における大規模騒音、無許可集会による都市機能の麻痺……」
指を折りながら違反項目を数え上げていく。数えれば数えるほど、腹の底から冷え切った怒りが湧き上がってきた。
「これだけの条例違反をまとめて放置してみろ。明日提出する始末書が何百枚になると思っている。誰がその書類を作る? 俺たちだ」
「せ、先輩……?」
頼道が呆然とした顔で俺を見上げている。
「こんな超大型クレーム案件、誰かが一括で処理しなきゃ終わらない。上層部が逃げ散らかした以上、現場に残された実務担当者がやるしかないんだ」
俺は葛葉を見据えた。彼女は優越感に浸った笑みを浮かべたまま、こちらを哀れむように見下ろしている。
「葛葉」
淡々と声をかけると、狐の妖が片眉を上げた。
「何かしら、諦めの遺言でも述べる気?」
「いや。特別残業代は弾んでもらいますよ、という確認だ」
「……は?」
葛葉が眉をひそめた。理解できない言語を聞かされたかのように、その美しい顔に困惑が走る。
俺は構わずに歩みを進めた。一歩ごとに、足元から伝わる怪異の振動が強くなっていく。だが、恐れなど微塵もない。あるのは、終わりの見えない残業に対する純粋な苛立ちと、これを迅速に終わらせて布団に潜り込みたいという強い労働意欲だけだ。
「頼道」
「は、はいっ!」
「追加の木簡を用意しろ。特別危険手当の申請書と、夜間緊急代執行の承認票だ。事後承諾になるが、右大臣の屋敷に叩き込んで決済印をむしり取る」
「わ、わかりました! すぐに帳簿を整えます!」
頼道は慌てて震える手で筆を握り直した。パニックになりながらも、指示を出されれば即座に事務作業を開始する。マニュアル人間なりに、この男も鍛えられてきたらしい。
「さて」
俺は笏の両端を両手でしっかりと握り、肩の力を抜いた。
雅な祝詞も、複雑な九字の印も必要ない。ただ現場に現れ、規律を乱す異物に真っ向から実務を叩き込む。それが苦情処理係の仕事だ。
ゴオオオオッ!
天を衝くような咆哮が響き渡った。百鬼夜行の先頭集団――巨大な鬼や車輪の怪異たちが、都の中心部へ向けて一斉に進軍を開始する。地鳴りが起き、大路の敷石が次々と跳ね上がった。
破滅の津波が、平安の都を呑み込もうと迫り来る。
俺は大きく息を吸い込み、目の前に広がる絶望的な怪異の奔流へ向かって、静かに足を踏み出した。




