第20話
重い軋み音を立てて、大門が両開きに開いていく。
蝶番に溜まった錆が削れるような不快な音が、冷え切った夜気に吸い込まれていった。
視界に飛び込んできたのは、広場を完全に封鎖する異様な光景だった。儀式の中心地へと続くはずの空間が、絶望的な質量を持つ「壁」によって塞がれている。
それは石や木で造られたものではない。無数の怪異が蠢き、互いに絡み合い、一つの巨大な障壁として融合していた。
「なんだ、あれは……」
背後で白妙が息を呑む。彰子も無言で弓を強く握りしめた。
壁の表面には、無数の顔や腕が浮かび上がっては沈んでいく。鋭い爪、爛々と輝く眼球、どす黒い体毛。それらが無秩序に混ざり合い、物理的な硬さと高密度の呪いを同時に放っていた。空間そのものが歪むほどの圧迫感が、波のように押し寄せてくる。
背後から、慌ただしい足音が近づいてきた。
「せ、先輩……っ!」
息を乱し、冠を少し傾かせた頼道が駆け込んでくる。彼は分厚い規定集と大量の木簡を抱えたまま、大門の隙間から見える巨大な障壁を前に、膝から崩れ落ちた。
「頼道。後方支援を命じたはずだが」
「ほ、本局からの最終報告をお伝えしなければと……っ。先ほど、安倍泰長殿をはじめとする上位陣は、完全に都から退避しました。陰陽寮の防衛線は崩壊……現在、都全土の呪力がこの広場に集中し、百鬼夜行の暴走状態にあります!」
震える声で告げられた内容は、最悪の業務報告だった。
上層部が我先にと逃げ出したことはすでに知っていたが、彼らが放棄した防衛線の穴から、これほどの規模の呪力が一極集中しているとは。目の前の巨大な障壁は、まさに都全土から寄せられた苦情の集合体と言えた。
「泰長殿の残した引き継ぎ書類は白紙でした。結界の維持手順も、避難誘導の計画も、何もかもが放棄されています。このままでは都が……」
「つまり、この事態の収拾は完全に俺に押し付けられたというわけか」
俺はため息を飲み込み、手元の木板——役所支給の分厚い笏を軽く叩いて、目の前の巨大な障壁を睨み据えた。壁を構成する怪異たちの顔ぶれには、これまで俺が物理的に処理してきたクレーマー怪異たちの残滓が混ざっている。規模が大きくなっただけで、本質は何も変わらない。
エリートたちが為す術なく崩壊していく中、最終的な尻拭いが下級役人に回ってくる。お役所仕事の典型的な悪習だ。
だが、俺の心に焦りはない。ただ、果てしなく続く無給労働に対する静かな怒りがあるだけだ。
この数ヶ月、俺のもとには毎夜のように貴族たちから厄介な怪異案件が持ち込まれていた。
「屋根裏に棲みついた鬼がうるさくて眠れない」と泣きついてきた左大臣家の案件。あれは単なる害獣駆除として、屋根裏ごと物理的に叩き割って解決した。
「蔵の財宝を食う妖獣をどうにかしろ」と喚き散らした大納言家の案件。あれも、財宝の被害目録と照合する手間を省くため、妖獣を原型をとどめないほど粉砕して処理した。
陰陽師が匙を投げるような案件ばかりが、あやかし苦情処理係の机に積み上げられてきた。
俺はそれらを、あくまで書類仕事の延長として次々と処理してきた。怪異の恐ろしさなど関係ない。重要なのは、それが条例違反であり、行政の管轄下にあるという事実だけだ。
目の前にそびえ立つ巨大な障壁も、その延長に過ぎない。
壁を構成している怪異たちの顔ぶれには、どこか見覚えがあった。これまで俺が処理してきたクレーマー怪異たちの残滓、あるいはそれに類する怨念の集合体。
規模が大きくなっただけで、本質は何も変わらない。
「景継様。壁の右下、呪力の結節点がわずかに淀んでいます」
白妙が耳をピンと立て、周囲の呪力の流れを読み取りながら告げた。
「私も援護します。あの壁の動きを少しでも遅らせれば、隙ができるはずです」
彰子が矢を番え、凛とした声で続く。
彼女たちの存在は、俺にとって完全に想定外のものだった。
本来なら行政の枠組みに収まるはずのない大妖と貴族の姫君が、今や俺の指示を待たずとも自発的に業務の補佐へと動いている。これまでの過酷な現場対応を通じて、彼女たちもまた俺の処理速度に完全に適応していた。
最初はただの面倒な部外者だと思っていたが、今では立派な外部リソースとして機能している。
「助かる。民間委託の成果としては十分すぎる働きだ」
俺の言葉に、頼道がハッと顔を上げた。彼は震える手で木簡を広げ、筆を走らせ始める。
「あ、あの壁の構成……複数の怪異が融合していますが、接合部の呪力波長に矛盾が生じています。規定集の『複合怪異における構造的欠陥』に該当する可能性が……!」
マニュアル至上主義の新人役人は、絶望的な状況下でも書類の辻褄合わせを放棄しなかった。
「よく見つけた、頼道。書類の不備は、そこから崩せる」
俺は笏を握り直し、ゆっくりと巨大な障壁に向かって歩みを進めた。
『無駄です。これほどの呪力の壁、いかなる雅な術式でも破ることはできませんよ』
障壁の奥から、葛葉の嘲笑うような声が響いてきた。慇懃無礼な敬語の裏に、確かな殺意と優越感が張り付いている。
彼女は人間社会のルールを逆手に取り、合法的に嫌がらせをしてくる狡猾なあやかしだ。この壁も、物理的な硬さと呪いを併せ持つよう、緻密に計算されて配置されているのだろう。
知略を尽くした完璧な罠。
だが、それはあくまで「呪術的なアプローチ」を前提とした計算だ。
「術式など使わない。ただの行政代執行だ」
俺は冷静に怪異の動きを観察する。
「お前の作ったこの壁は、確かに呪術的には完璧かもしれない。だが、複数の怪異を無理やり統合したせいで、権利関係が複雑に絡み合っている。いわば、違法建築の寄せ集めだ」
無数のクレーマー怪異が合体しているがゆえに、それぞれの主張がぶつかり合っている。屋根裏の鬼の腕が、蔵の妖獣の顎を邪魔している。呪力のベクトルが統一されておらず、内部で反発が起きているのだ。
白妙が指摘した淀み。頼道が計算した矛盾点。
構造上の欠陥は、すでに明白だった。
「先輩、この壁の撤去費用は、後で陰陽寮の上層部に請求できますか?」
頼道が木簡を抱え直しながら尋ねてくる。
「当然だ。特別危険手当も上乗せして請求してやる」
俺は踏み込み、特注の鈍器である笏を、その一点に向けて正確に突き入れた。
「夜間の騒音防止条例、および不法建築物設置の違反。問答無用で撤去する」
雅な呪力など一切込められていない、純粋な物理的打撃。
分厚い木板が、怪異の急所に深々と突き刺さる。
ドゴォォォンッ!
物理的な衝撃が呪力の矛盾を突き、巨大な障壁の内部で連鎖的な崩壊を引き起こした。
亀裂が走り、無数の怪異たちが断末魔の悲鳴を上げる。
次の瞬間、ガラスが砕け散るような甲高い音と共に、絶望的な壁が一撃で粉砕された。
舞い散る瘴気と肉片の向こう側。
ついに、葛葉が儀式を行う中心地への道が開かれた。
そこは、かつて俺が処理し、何度も始末書が差し戻されたあの現場だった。
広場の中心には、これまでとは次元の違う圧倒的な呪力が渦巻いている。
大気が震え、肌を刺すような冷気が漂う中、空間そのものが黒く染まりかけていた。
いよいよ元凶との対峙が迫る。
この奥で、一体何が起きているのか。
俺は笏の汚れを払い落とし、静かに足を踏み入れた。




