第18話
「特別手当の申請枠を拡大しておけ。それと、労災の書類もな」
俺は分厚い板を構え直し、前を見据えた。
空を覆う黒雲はさらに厚みを増し、都を飲み込もうとしている。
確かな手応えはある。だが、この無数の群れを定時までに突破できるのか。
俺は小さく舌打ちをし、黒い波の中へと足を踏み出した。
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「不法侵入、および夜間騒音防止条例違反。直ちに退去せよ」
事務的な警告を発すると同時、俺は手にした分厚い木製の板を横薙ぎに一閃した。
空気を裂く鈍い音が響き、眼前に迫っていた巨大な鬼の頭部が弾け飛ぶ。
屋根裏に棲みついていたというその鬼は、断末魔を上げる暇もなく黒い霧となって霧散した。
「先輩、今の個体は右京の屋敷から逃亡した事案に該当します。処理完了として記録しておきますね」
背後で木簡に筆を走らせる橘頼道の声に、俺は短く頷いた。
大路を埋め尽くす怪異の群れ。それはもはや、局地的な騒動の域を超えている。
次から次へと湧き出してくる異形どもを、俺は手にした板で次々と叩き潰していく。
先日処理したはずの蔵荒らしの妖獣と同種の個体が再び群れをなして飛びかかってくれば、「同種事案の再発および公務執行妨害」と告げて脳天を叩き割る。
辻に陣取る一つ目の大入道には「不法占拠」を適用し、問答無用で粉砕する。
どれもこれも、本来なら専門の術者が儀式を執り行って祓うべき厄介な案件ばかりだ。
貴族たちから毎夜のように持ち込まれるこれらのクレームは、俺たちのような下級役人が対処できるレベルをとうに超えている。
だが、そんな手間をかけていては夜が明けてしまう。
俺にとってこれらは、山積みにされた未処理の書類と同じだった。一枚ずつ確実に、物理的に片付けていくしかない。
「役人殿、ここは俺たちが引き受ける。先へ行け!」
路地の陰から、野太い声が響いた。
見れば、都の裏社会を束ねる大妖の配下たちが、群がる下級のあやかしを牽制している。
さらに反対側からは、変わり者として知られる貴族の私兵たちが、弓を構えて援護射撃を行っていた。
「民間委託の申請は出していないぞ」
俺はボヤきながらも、彼らが開けた道を駆け抜けた。
連日のように規格外の処理を続けてきたせいで、不本意ながらも一部のあやかしや貴族たちから妙な一目を持たれるようになってしまった。
独自のコネクションなど築きたくはなかったが、今は利用できるものは何でも利用するしかない。
「彼らの協力に対する謝礼は、後日経費で落とせるよう書類を整えておきます」
頼道が走りながら言う。
「頼む。自腹を切る気はないからな」
儀式の中心地が近づくにつれ、周囲の瘴気は息苦しいほどに濃密になっていった。
大路を抜けた先、広場のような空間に出た俺たちは、思わず足を止めた。
「これは……ひどい有様ですね」
頼道が絶句する。
そこには、陰陽寮の主力部隊が構築していたはずの防衛線の残骸があった。
結界を構成していた杭はへし折られ、呪符は燃え尽きている。
雅な装束に身を包んだ上位の術者たちが、為す術もなく逃げ惑い、あるいは腰を抜かして震えていた。
彼らの不手際により、封じ込められていた怪異の群れが一斉に溢れ出している。
都全土を巻き込む「百鬼夜行の暴走」。
これこそが、今夜の超大型クレーム案件の正体だった。
「本局の連中、また現場に丸投げか」
俺は忌々しそうに呟き、分厚い板を握り直した。
エリートたちが崩壊した以上、事態の収拾は必然的にこちらへ回ってくる。
責任の所在を明確にするための報告書をどう書くか、頭の片隅で計算しながら一歩を踏み出そうとした時だった。
「貴様ら! そこで何をしている!」
ヒステリックな怒声が響き、一人の男が瓦礫の陰から姿を現した。
神経質そうな細面の青年。陰陽寮の監査官、伴義清だ。
彼は周囲の惨状に青ざめ、肩で息をしながらも、俺たちを鋭く睨みつけていた。
「規定外のルート変更に、無断での戦闘行為……! 事前申請もなしに勝手な真似をして、寮の秩序を何だと心得ている!」
この期に及んで、まだそんなことを言っているのか。
都が崩壊の危機に瀕しているというのに、彼の中ではお役所のルールを守ることこそが最優先らしい。
頑なな態度を崩さない義清に対し、俺は反論する気すら起きなかった。
「監査官殿。今は緊急事態です。事後報告で処理する規定が……」
頼道がマニュアルを盾に庇おうとした、その瞬間。
義清の背後にある崩れた土塀を突き破り、巨大な影が躍り出た。
複数の獣が融合したような、悍ましい異形。
その赤い眼光が、完全に義清を獲物として捉えていた。
「なっ……!?」
義清は慌てて懐から呪符を取り出そうとした。
だが、実戦経験に乏しい彼の手は激しく震え、呪符を地面に取り落としてしまう。
想定外の事態。迫り来る圧倒的な暴力。
規則に縛られ、机上の空論しか知らない監査官は、恐怖のあまり声すら出せず、為す術もなく立ち往生した。
鋭い爪が、義清の頭上へと振り下ろされる。
彼が死を覚悟して目を閉じた、その刹那。
「緊急避難措置の拡大解釈だ」
俺は義清の横をすり抜け、踏み込みと同時に板を振り抜いた。
渾身の力を込めた一撃が、異形の胴体を真横から捉える。
爆発のような衝撃音と共に、巨大な怪異はくの字に折れ曲がり、そのまま石畳を削りながら吹き飛んでいった。
壁に激突し、黒い瘴気となって完全に消滅する。
静寂が戻った広場で、義清はへたり込んだまま、信じられないものを見るような目で俺を見上げていた。
「監査報告には、現場の安全管理義務違反も付け加えておいてください」
俺はそれだけ告げると、彼に背を向けた。
やるべき実務は、まだ山のように残っている。
夜明けまでにすべてを終わらせるため、俺は再び百鬼夜行の中心へと歩き出した。
背後からは、何の言葉も聞こえてこない。
自身の信じる手続きやルールが、真の危機の前ではいかに無力であるか。
それを痛感した義清の視線だけが、俺の背中に突き刺さっていた。




