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第16話

「指揮を執るはずの安倍様は……すでに都の外へ向けて逃亡したとの情報が!」


「……あの野郎」


俺は思わず低い声で毒づいた。


エリートたちの不手際と、トップの逃亡。その結果として引き起こされたのは、都全土を巻き込む超大型クレーム案件だ。


「現在、都の各所で発生している怪異の数は、すでに千を超えています。本局の機能が停止した今、すべての苦情対応が我々の部署に回ってきています!」


頼道の言葉に、俺の胃の奥が鉛のように重くなった。


確定したサービス残業。それも、いつ終わるか見当もつかない絶望的な業務量だ。


だが、ここで投げ出せば都は滅び、俺の平穏な生活も永遠に失われる。


「頼道。被害状況の集計は後回しだ。まずはこれ以上の損壊を防ぐための実務に移行する」


俺は分厚い板を握り直し、瘴気が最も濃く渦巻く方角を睨みつけた。


泰長がすべてを投げ出して逃げ出すほどの未曾有の危機が、都を覆い尽くそうとしている。


これだけの規模の百鬼夜行を発生させている源は、一体どこにあるのか。


「特別残業代は、きっちり弾んでもらうからな」


俺は誰にともなく呟き、果てのない激務の渦中へと足を踏み入れた。


右京に位置する広大な貴族邸。その豪奢な屋根の上で、巨大な鬼が瓦を次々と剥がしては中庭へと投げ落としていた。


屋敷の主たちが悲鳴を上げて逃げ惑う中、俺は表情を変えずに屋根へとよじ登る。


「深夜の騒音および器物損壊。直ちに退去しなければ、強制執行に移る」


俺が事務的に告げると、鬼は血走った目を剥いて咆哮を上げた。鋭い爪を振り上げ、俺の頭上へと襲いかかってくる。


俺は手にした分厚い木製の板——役所支給の特注の笏を、迷いなくフルスイングした。


鈍い破砕音と共に、鬼の巨体が宙を舞い、隣の空き地へと墜落して動かなくなる。


「一件完了。事後処理の書類にサインを」


俺は屋根から飛び降り、震え上がっている貴族に木簡と筆を突きつけた。


休む間もなく、次は左京の蔵へ向かう。


分厚い土壁をぶち破り、中に入り込んだ妖獣が、保管されていた金銀財宝をバリバリと咀嚼していた。


「窃盗および害獣駆除の対象だ」


妖獣がこちらに気づき、口から灼熱の炎を吐き出してくる。俺は笏を盾にして炎を切り裂き、そのまま踏み込んで妖獣の顎を下からカチ上げた。


「二件目完了」


続いて向かったのは、中御門大路の交差点。そこでは、巨大な車輪に顔が張り付いたあやかしが、猛スピードで暴走しながら周囲の屋台を次々と撥ね飛ばしていた。


「道路交通法違反、および危険運転致傷」


俺は道の真ん中に立ち塞がり、突進してくる車輪に向けて笏を真っ直ぐに突き出した。


激しい衝突音と共に、車輪のあやかしは粉々に砕け散り、木片となって周囲に降り注ぐ。


「三件目完了。清掃局への手配を忘れずにな」


呆然と立ち尽くす検非違使の胸に事後処理の木簡を押し付け、俺は四件目の通報先である暗い路地裏へと駆け出した。


一筋縄ではいかないあやかし達を、俺はあくまで書類仕事の延長として次々と無双処理していく。


だが、倒しても倒しても、怪異の発生報告は鳴り止まない。上層部の術者たちの不手際により引き起こされた「百鬼夜行の暴走」という超大型クレーム案件は、都の機能を完全に麻痺させていた。


次の現場へ向かうため、暗い路地裏を駆け抜けていた時のことだ。


前方の物陰で、巨大な影が蠢いた。警戒して笏を構え直すが、影の主は敵意を見せることなく、スッと道を空けた。


「役人の旦那。西の大路は完全に塞がってまさぁ。抜けるなら北の路地から行きなせえ」


一つ目のあやかしが、頭を下げながら情報を伝えてくる。


俺の規格外の働きぶりは、次第に都の裏社会を束ねる大妖たちの耳にも届いていたらしい。


「助かる。この件が片付いたら、お前たちの不法占拠の件は書類上見逃してやる」


俺は短く返し、北の路地へと進路を変えた。


「小野殿! こちらの路地は我が家の私兵が確保しております! どうぞお通りを!」


今度は、屋敷の塀の上から物好きな変わり者貴族が声をかけてきた。手には松明を持ち、私兵たちに指示を出して避難誘導を行っている。


不本意ながらも築かれてしまった独自のコネクションが、この異常事態において俺の移動を最短距離で導いていた。


本局の地下、所属部署の部屋へ一時帰還する。


室内は、各所から送られてくる被害報告の木簡で足の踏み場もないほど埋め尽くされていた。


頼道が顔面を蒼白にしながら、猛烈な勢いで筆を走らせている。


「ひぃぃっ! また右大臣家から催促の使者が! 左大臣家からも苦情の木簡が山のように! 先輩、これ全部今日中に処理するんですか!?」


「後回しだ。今は元凶を叩くのが最優先事項だ」


俺が告げると、頼道は弾かれたように顔を上げ、広げた都の地図を指し示した。


「先輩! 被害状況の集計と、瘴気の流れの解析が終わりました。この百鬼夜行を呼び起こしている儀式の発生源が特定できました!」


地図には、赤い墨で無数の印が付けられている。その中心点を見て、俺は眉をひそめた。


「ここは……」


「はい。以前、先輩が処理した小さな怪異事件の現場です。安倍様から何度も始末書が差し戻され続けていた、あの未処理案件の発生源です」


俺の胃の奥が、別の意味で重くなった。


あの執拗な差し戻しは、単なる嫌がらせではなかったのだ。泰長の異常な索敵能力は、あの場所の「真の危険度」を無意識に察知し、関わることを避けるために書類を突き返していたに違いない。


そして今、その場所で何者かが本格的に百鬼夜行を呼び起こす儀式を開始している。


「……小野」


背後から、堅苦しく融通の利かない声が響いた。


振り返ると、監査官の義清が立っていた。神経質そうな細面の顔には、深い疲労と苦悩の色が浮かんでいる。


「監査官殿。申し訳ありませんが、現在特別残業の真っ最中でして。規定違反の説教なら後にしていただきたい」


俺が淡々と告げると、義清は眉間の皺を深くして首を振った。


「いや……説教をしに来たわけではない」


義清は、山のように積まれた被害報告書と、機能不全に陥った本局の惨状を見渡した。


「私の信じてきた規則や手続きは、この異常事態の前では無力だ。上に立つ者たちが逃げ出し、都が崩壊の危機に瀕している今、正規の順序を踏む猶予はない」


義清は俺を真っ直ぐに見据えた。


「私は、貴様のような野蛮な手法を認めたわけではない。だが……都の民を見捨てることは、監査官として断じて許されない。事後処理の報告書は、私が責任を持って監査しよう。存分にやれ」


それは、厳格な監査官が俺の強引な手法を黙認し、サポートに回るという宣言だった。


「助かります。監査官殿の承認があれば、心置きなく残業できますからね」


俺は短く返し、手元の分厚い木製の板を握り直した。


「先輩」


頼道が、絶望的な量の事務処理の山を前にパニックになりつつも、真剣な眼差しで俺を見た。


「先輩の背中は、私が書類で守ります。どんな被害が出ても、必ず辻褄を合わせてみせますから、どうかご無事で!」


「頼んだぞ。俺は元凶を一括処理してくる」


俺は部屋を後にし、再び夜の都へと踏み出した。


目指すは、始末書の発生源となった廃屋敷。


未曾有の危機を前にしても、俺の足取りは変わらない。これはあくまで「面倒な特別残業」だ。


業務外の無給労働は絶対に引き受けない。だが、都が滅べば定時退庁も平穏な生活も消え失せる。


「特別残業代と危険手当、それに深夜割増料金……きっちり請求してやる」


◆ーーーー◆


都の北外れ。瘴気が渦巻く廃屋敷の奥深く。


妖艶な美女の姿をしたあやかし、葛葉が豪奢な扇子で口元を隠しながら、空を覆う黒い雲を見上げていた。


「さあ、皆様。都を覆い尽くす宴の始まりですわ」


彼女の足元には、複雑な呪文が刻まれた陣が光を放ち、次々と異形のあやかし達が這い出してきている。


人間社会の法律やルールを逆手にとり、合法的に嫌がらせをしてきた彼女が、ついに直接的な実力行使に出たのだ。


「あの忌々しい下級役人も、この数の前ではどうすることもできないでしょう。私の完璧な計略を物理で粉砕してきた報い、たっぷりと受けていただきますわ」


葛葉が扇子を振り下ろすと、這い出したあやかし達が一斉に都の中心へと駆け出していった。


その頃、俺は廃屋敷へと続く大路を、ただ黙々と歩いていた。


視線の先には、空を焦がすほどの濃密な瘴気。


俺は役所支給の分厚い板を肩に担ぎ、深く息を吐いた。


さあ、果てのない激務の、本当の延長戦の始まりだ。


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