第15話
大嶽が夜の闇へと消えた直後、都の空気が一変した。
破壊された家屋の瓦礫を前に、頼道が震える手で木簡に文字を刻んでいる。その背後から、遠く離れた大路の方向より、悲鳴と建物の倒壊音が風に乗って運ばれてきた。一つや二つではない。東西南北、あらゆる方角から異様な気配が立ち昇っている。
「景継先輩……これ、どうやらここだけの騒ぎじゃないみたいです」
頼道が顔を青ざめさせながら、都の中心部を指差した。暗雲が渦を巻き、不気味な瘴気が街を覆い始めている。
「戻るぞ。窓口がパンクする前に対処しないと、明日の朝までに報告書がまとまらない」
俺は支給品の分厚い木製の板を懐に収め、踵を返した。
役所の地下にある薄暗い部屋へ戻ると、予想通り地獄絵図が広がっていた。普段は誰も寄り付かない窓口に、各屋敷からの使者が長蛇の列を作っている。
「右大臣家より緊急の申し入れだ! 屋根裏に巨大な鬼が棲みつき、天井板を踏み抜こうとしている!」
「大納言家からも急ぎの案件です! 蔵の中に妖獣が入り込み、伝来の財宝を食い荒らしていると!」
使者たちが口々に叫び、頼道が必死に受付票を配って回る。俺は山積みになった苦情申入書を一枚ずつ手に取り、内容を機械的に確認していった。
「屋根裏の鬼は不法占拠および住居侵入。蔵の妖獣は器物損壊だ。どちらも行政代執行の対象になる」
俺は筆を取り、処理予定時刻を書き込んでいく。次から次へと持ち込まれる厄介な案件。本来なら上位の術者が何日もかけて祈祷を行うような怪異ばかりだが、そんな悠長な手続きを踏んでいては夜が明けてしまう。
「頼道、お前はここで書類の不備を弾け。俺は現場を回る」
「一人でですか!? 相手は一筋縄ではいかないあやかしばかりですよ!」
「実務として処理するだけだ。件数が多いから、巻きでいくぞ」
俺は再び分厚い板を手に取り、夜の都へと駆け出した。
最初の現場は右大臣家だった。屋敷に到着すると、雅信様が庭先で腰を抜かしていた。派手な柄の狩衣が泥で汚れ、顔面は蒼白だ。
「おお、よくぞ来てくれた! 早くあの化け物を追い払ってくれ!」
「順番待ちの案件を前倒しにしましたので、深夜の割増料金が適用されます。事後承諾のサインをお願いします」
俺は事務的に告げ、屋根裏へと通じる階段を上った。暗闇の中で、三つの目を持つ巨大な鬼が梁にぶら下がっている。
「退去勧告の期限は過ぎている」
鬼が威嚇の咆哮を上げるより早く、俺は踏み込み、手にした板をフルスイングした。鈍い衝撃音と共に鬼の巨体が吹き飛び、壁を突き破って庭へと落下する。そのまま瘴気となって霧散していくのを確認し、俺は懐から木簡を取り出した。
「処理完了です。こちらに署名を」
唖然とする雅信様に筆を押し付け、すぐさま次の現場へと向かう。
蔵の財宝を食う妖獣も、大路を塞ぐ巨大な百足も、すべては書類仕事の延長戦だ。俺は現場に到着するなり違反事項を告げ、問答無用の物理的打撃で浄化していった。
だが、処理しても処理しても、怪異の発生ペースは落ちない。むしろ加速度的に増え続けている。
「東の結界が完全に破られたわ。あっちから来る妖獣の群れは、私が足止めしておくから、あなたは西を片付けて!」
屋根の上から声が降り注ぐ。変わり者の姫君である彰子だ。彼女は手にした弓を引き絞り、迫り来る異形の群れに矢を放っている。
「西の鬼どもは、うちの若い衆に誘導させます。大路の交差点で一網打尽にしてください」
路地裏からは、裏社会の連絡係である白妙が姿を現し、的確な情報支援を送ってくる。
彼女たちとは不本意ながら関わりを持ってしまったが、この異常事態においては、その独自のコネクションが頼りだった。俺一人で都全域の苦情を捌き切ることは不可能だ。彼女たちの協力で怪異を一箇所に集め、まとめて物理で粉砕する。そうやって効率化を図らなければ、到底定時には終わらない。
「助かる。だが、これだけ広範囲で同時に暴走が起きるのは異常だ。本局の連中は何をしている」
俺がぼやくと、白妙が険しい表情で首を振った。
「それが……防衛の要であるはずの上位陣が、まったく機能していません。指揮系統が完全に崩壊しているようです」
◆ーーーー◆
同じ頃、陰陽寮の本局。
最高級の絹で仕立てられた狩衣を纏う安倍泰長は、自室の床にへたり込んでいた。彼の整った顔立ちは恐怖に歪み、扇子を持つ手は小刻みに震えている。
「ば、馬鹿な……なんだ、このおぞましい気配は……!」
彼の索敵能力は、寮内の誰よりも鋭敏だった。実戦経験が乏しい代わりに、危険を察知する能力だけは異常に発達している。その彼の感覚が、今、都の地下から湧き上がる絶望的な力のうねりを捉えていた。
ただの怪異の暴走ではない。これは都そのものを飲み込み、滅ぼし尽くす規模の大災害。伝説に聞く『百鬼夜行』の完全な顕現だ。
「こんなもの、どうやって防げというのだ! 結界など紙切れ同然ではないか!」
泰長は悲鳴のような声を上げ、手当たり次第に貴重な呪具や金品を袋に詰め込み始めた。
部下たちに指示を出す余裕などない。高官としての体面も、エリートとしてのプライドも、純粋な恐怖の前には無意味だった。
「私には、まだやらねばならぬことがある……! こんな所で犬死にするわけにはいかないのだ!」
彼は誰にも見つからないよう裏口から抜け出すと、かつてない規模と速度で都からの逃亡を開始した。残された部下たちが混乱の中で為す術もなく蹂躙されていくことなど、彼の頭には微塵もなかった。
◆ーーーー◆
「先輩! 大変です!」
交差点で鬼の群れを処理し終えた俺の元へ、頼道が血相を変えて駆け寄ってきた。その手には、本局からの緊急通達を記した木簡が握られている。
「本局の防衛線が完全に突破されました! 指揮を執るはずの安倍様は……すでに都の外へ向けて逃亡したとの情報が!」
「……あの野郎」
俺は思わず低い声で毒づいた。
エリートたちの不手際と、トップの逃亡。その結果として引き起こされたのは、都全土を巻き込む超大型クレーム案件だ。
「現在、都の各所で発生している怪異の数は、すでに千を超えています。本局の機能が停止した今、すべての苦情対応が我々の部署に回ってきています!」
頼道の言葉に、俺の胃の奥が鉛のように重くなった。
確定したサービス残業。それも、いつ終わるか見当もつかない絶望的な業務量だ。
だが、ここで投げ出せば都は滅び、俺の平穏な生活も永遠に失われる。
「頼道。被害状況の集計は後回しだ。まずはこれ以上の損壊を防ぐための実務に移行する」
俺は分厚い板を握り直し、瘴気が最も濃く渦巻く方角を睨みつけた。
泰長がすべてを投げ出して逃げ出すほどの未曾有の危機が、都を覆い尽くそうとしている。
これだけの規模の百鬼夜行を発生させている源は、一体どこにあるのか。
「特別残業代は、きっちり弾んでもらうからな」
俺は誰にともなく呟き、果てのない激務の渦中へと足を踏み入れた。




