28話 予感
仕事を終えた夕方のオフィスは、昼間まで張り詰めていた空気が少しずつほどけていくように、いつもより柔らかく穏やかな雰囲気に包まれていた。
パソコンをシャットダウンする人や、残った仕事を片付けながら同僚と雑談する人、明日の予定を確認しながら帰り支度をする人など、それぞれが一日の仕事を終えようとしている中で、私もそろそろ帰ろうと自分のデスク周りを整理していた。
新人の雫さんがこの部署に入ってきてから、まだ数日しか経っていない。
それなのに、彼女が加わったことで部署全体の雰囲気がどこか明るくなったように感じるのは、最初こそ緊張していた雫さんが少しずつ周囲との会話に慣れ始め、橋本さんとも自然に話すようになってきたからなのかもしれない。
そんなことを考えながらパソコンの電源を落としたとき、背後から聞き慣れた声がした。
「霧崎さん、少し時間いい?」
振り返ると、そこには美夏課長が立っていた。
いつものようにきちんとした服装をしているものの、仕事中に見せる厳しい表情とは少し違い、今日はどこか楽しそうな雰囲気を漂わせながら私を見ている。
「はい、何でしょうか?」
「週末、近くで夏祭りが二日間あるの」
「夏祭り……ですか?」
思わず聞き返すと、美夏課長は小さく頷きながら腕を組み、これから話すことを楽しみにしているような表情を浮かべた。
「ええ、せっかくだから初日は部署の親睦会を兼ねて、みんなで行こうと思ってるのよ、新人の雫さんも入ってきたばかりだし、仕事以外でも少し話す機会があったほうがいいでしょう?」
「なるほど……親睦会ですか」
「そう、仕事の話ばかりじゃ疲れるでしょう? たまにはこういう場所で、仕事とは関係のない話をしながら気分転換するのも必要よ」
そう言って笑う美夏課長の声はいつもより柔らかく、その言葉の端々から、単なる会社行事というよりも、最近入ってきた雫さんをみんなの輪に馴染ませたいという気遣いが伝わってきた。
「もちろん、霧崎さんも参加してね」
「分かりました。参加します」
私がそう答えた瞬間、少し離れた場所で帰り支度をしていた橋本さんが、まるでその言葉を待っていたかのように勢いよく顔を上げた。
「夏祭り……!」
その目は驚くほど輝いていて、普段の仕事中には見せないほど嬉しそうな表情をしている。
「行きます! 私、絶対行きたいです!」
「橋本さん、そんなに夏祭り好きだったの?」
美夏課長が少し驚いたように尋ねると、橋本さんは当然でしょうと言わんばかりに大きく頷いた。
「だって夏祭りですよ? 屋台とか、かき氷とか、花火とか、そういうの全部あるじゃないですか!」
「まあ、そうね」
「それに会社のみんなで行くなんて絶対楽しいですよ!」
あまりにも嬉しそうに話すものだから、私までつられて笑ってしまう。
「橋本さん、そんなに楽しみにしてるんですね」
「そりゃそうですよ! 最近ずっと仕事ばっかりだったので、こういう予定があるだけで一週間頑張れそうです!」
「それは大げさじゃない?」
「大げさじゃないです!」
そう言って頬を膨らませる橋本さんを見て、美夏課長も楽しそうに笑った。
その隣では、雫さんも会話を聞いていたらしく、少し遠慮がちに口を開いた。
「私も……参加していいでしょうか?」
「もちろんよ」
美夏課長がすぐに答えると、雫さんはほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます。夏祭りなんて、もうずっと行っていなかったので……」
「じゃあ、ちょうどよかったわね」
「はい、楽しみにしています」
雫さんはそう言いながら小さく頷いたが、その表情には隠しきれないほどの期待が浮かんでいて、普段の控えめな雰囲気とは少し違って見えた。
「当日は浴衣でも私服でもいいわよ。堅苦しい親睦会じゃないから、それぞれ好きな格好で来てちょうだい」
美夏課長がそう言った瞬間、橋本さんが何かを思い出したように目を輝かせた。
「浴衣……着ようかな……」
「持ってるの?」
「一応持ってますけど、最後に着たのいつだったかな……」
橋本さんは腕を組みながら真剣に悩み始めたが、その表情を見ていると、もう頭の中では浴衣を着て夏祭りに行っている自分を想像しているのではないかと思ってしまう。
「せっかくだから着てきたら?」
美夏課長がそう言うと、橋本さんは少し恥ずかしそうにしながらも嬉しそうに頷いた。
「じゃあ……着ようかな」
「私も……浴衣、着てみようかな」
雫さんもそう続けると、橋本さんが嬉しそうに雫さんのほうを振り返った。
「雫さんも浴衣? 絶対似合うと思います!」
「そ、そうですか?」
「うん、絶対!」
「じゃあ……頑張ってみます」
二人がそんな話をしているのを見ながら、私は少しだけ想像してしまった。
普段は会社で仕事をしている彼女たちが、夏祭りの日だけは浴衣に身を包み、提灯の明かりが並ぶ夜の街を歩いている姿を想像すると、まだ何も始まっていないというのに、いつもの職場とはまったく違う一日になりそうな気がして、なんとなく胸の奥がくすぐったくなった。
「霧崎さんは浴衣着ないの?」
突然、美夏課長に聞かれて我に返る。
「私ですか?」
「ええ、せっかくのお祭りだもの」
「私は……普通に私服で行こうかなと思います」
「そう、まあ無理に浴衣を着る必要もないわね」
美夏課長はそう言って笑ったが、その視線が一瞬だけ橋本さんや雫さんのほうへ向いたような気がした。
気のせいだろうか。
そう思いながら周囲を見渡していると、橋本さんが突然「あっ」と声を上げた。
「野々花さんはどうします?」
「ああ、野々花さんね」
美夏課長も思い出したように頷いた。
「誘ってみましょうか」
「絶対来てもらいましょう!」
橋本さんは嬉しそうに受付のほうへ向かっていき、私たちもその後ろ姿をなんとなく目で追った。
受付では野々花さんがいつものように仕事をしていたが、橋本さんに声をかけられると、少し驚いたように顔を上げた。
「野々花さん!」
「はい?」
「週末の夏祭り、親睦会するんですって!」
「えっ…夏祭り……?」
野々花さんは一瞬だけ目を瞬かせたものの、すぐにその表情を柔らかくして、少し考えるように視線を落とした。
「行きます。……楽しそうですし」
「やった!」
橋本さんが嬉しそうに笑う。
「絶対楽しいですよ!」
「ふふ、そうですね」
野々花さんも笑った。
その笑顔がいつもより少しだけ嬉しそうに見えたのは、夏祭りという予定そのものが楽しみだからなのか、それとも別の理由があるのか、私には分からなかった。
ただ、そんなみんなの様子を見ていると、最初は単なる会社の親睦会だと思っていた予定が、少しずつ特別なものに変わっていくような気がしてきた。
美夏課長がこちらを見る。
「霧崎さん」
「はい?」
「あなたが来てくれると、みんな嬉しいみたいよ」
「……私が?」
思わず聞き返す。
「ええ」
その答えを聞いて、私はなんとなく周囲を見渡した。何とも言えないが、甘い空気が漂っている気がした。
橋本さんは野々花さんと楽しそうに話している。
雫さんは少し離れたところで帰り支度をしながら、こちらの会話を聞いているようだった。
野々花さんも、私と目が合うと小さく笑って会釈をしてくれた。
それだけのことなのに、なぜか胸の奥が少しだけざわついた。
「……そうですか」
それ以上、何と言えばいいのか分からなかった。
美夏課長はそんな私を見て、何かを知っているような、それでいて何も言わないような微笑みを浮かべている。
「じゃあ、当日を楽しみにしておいてね」
「はい」
そう答えて、私はようやく帰り支度を終えた。
会社を出ると、夕方の街にはまだ夏の暑さが残っていて、昼間より少し低くなった太陽がビルの隙間から差し込む光が、道路を歩く人々の影を長く伸ばしていた。
駅へ向かいながら、私の頭の中にはさっきの会話が何度も浮かんでいた。
夏祭り。
浴衣。
親睦会。
そして、みんなの楽しそうな顔。
ただの会社行事のはずなのに、なぜか胸の奥には小さな期待が生まれていた。
そんなことを考えながら歩いていると、ポケットの中のスマホが震えた。
画面を確認すると、小百合さんからメッセージが届いていた。
『春樹くん、週末って……夏祭り行くの?』
短い文章だった。
それだけなら、ただ予定を確認しているだけなのだろう。
それなのに、なぜかその文章には少しだけ寂しさが滲んでいるように感じられた。
『うん、会社の親睦会で初日に行く予定だよ』
そう入力したところで、送信ボタンを押す指が止まった。
別に隠すことなんて何もない。
親睦会なのだから、そのまま答えればいい。
それなのに、なぜか言葉を選んでしまう。
しばらく画面を見つめたあと、結局そのまま送信した。
すぐには返信が来なかった。
私はスマホをポケットにしまい、再び歩き始める。
夏祭りは二日間ある。
初日は、美夏さん、橋本さん、野々花さん、雫さんたちと親睦会。
そして二日目は――。
もしかすると、小百合さんと二人で行くことになるかもしれない。
まだ何も決まっていないのに、なんだか胸騒ぎがした。
初日と二日目。
同じ夏祭りなのに、なぜかまったく違う一日になりそうな気がする。
私はそんな予感を抱えたまま、夕暮れの街を歩き続けた。




