27話 はじまり
平野さんが、私の会社に転職してきた。
その実感が湧いてきて、胸の奥が少しだけ熱くなった。嬉しいという気持ちと、どこか落ち着かない気持ちが同時に湧いてきて、自分でも整理がつかなかった。
朝のオフィスは、いつもより少し騒がしかった。
「今日、新しい人が来るらしいよ」
「しかも女性らしい」
「男性の霧崎さんと同じ部署に入るって噂……」
そんな声が耳に入ってくる。
私は席に座り、パソコンを立ち上げながら小さく息を吐いた。
(……平野さん、どんな顔して来るんだろう)
転職活動を支えた数週間が、頭の中に浮かんだ。
面接練習で震えていた彼女の手。何度も言葉に詰まりながら、それでも自分の言葉で話そうとしていた姿。そして、「自分のためにも頑張りたい」と言った、あの声。
全部が昨日のことのように思い出せる。
そのとき、部署の入り口が静かになった。
顔を上げると、美夏課長が誰かを連れて歩いてくる。
「こちらが今日から入社する、平野雫さんです」
紹介された女性が、一歩前に出た。
平野さんは少し緊張した顔で立っていた。
けれど、以前とはどこか違っていた。表情が明るい。以前のような怯えた様子もなく、しっかりと前を向いている。
そして、私と目が合った。
彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから小さく息を吸って微笑んだ。
「霧崎さん……今日からよろしくお願いします」
その声は、面接のときよりずっと強かった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
そう答えながら、胸の奥がじんわりと温かくなる。
本当に、ここまで来たんだ。
あれだけ転職することを怖がっていた彼女が、今は自分の足でこの場所に立っている。
「それじゃあ、平野さん。席を案内するわね」
美夏課長に連れられて、平野さんがこちらへ歩いてくる。
そして案内された席を見て、私は少し驚いた。
平野さんの席は、私の斜め前だった。
周囲の女性社員たちも気づいたらしく、さっそく小さな声が飛び交う。
「え……霧崎さんの近く?」
「いいなぁ……」
「平野さん、すご……」
平野さんは少し戸惑ったように周囲を見回したものの、丁寧に頭を下げてから席に座った。
その姿を見て、私は思わず小さく笑った。
(……よく頑張ったな)
そんなことを考えながら、自分の仕事に戻った。
午前中の仕事が始まってしばらくすると、資料をまとめていた私のところに、斜め前から小さな声が聞こえてきた。
「霧崎さん……これ、少しだけ教えてもらってもいいですか?」
顔を上げると、平野さんが資料を持って立っていた。
「もちろんです」
私は席を立ち、平野さんの隣の椅子に腰を下ろした。
その瞬間、周囲からまた小さなざわめきが聞こえてくる。
「距離近くない……?」
「平野さん、勇気ある……」
「霧崎さん、優しい……」
どうやら周りには聞こえているらしい。
けれど、平野さんは気づいていないのか、真剣な表情で資料を見つめていた。
「ここは、こうすると早いですよ」
「なるほど……」
平野さんは私の説明を聞きながら、丁寧にメモを取っていく。
「……ありがとうございます。すごいです」
そう言って顔を上げた彼女の声は、少しだけ震えていた。
緊張しているのだろう。でも、その中には以前にはなかった期待や嬉しさも混ざっているように感じた。
「分からないことがあったら、いつでも聞いてください」
「はい」
平野さんは嬉しそうに頷いた。
その表情を見ていると、胸の奥がまた温かくなった。
昼休みになり、私は平野さんと一緒に食堂へ向かった。
食堂に向かうと、橋本さんがこちらを見ていた。
「……あれ?」
その視線が平野さんに向けられていることに気づく。
「どうしたんですか?」
私が尋ねると、橋本さんは少し戸惑ったように平野さんを見つめた。
「いや……どこかで見たことがあるような気がして」
「そうですか?」
平野さんは首を傾げる。
「たぶん気のせいだと思います」
「今日からお世話になります」
平野さんが丁寧に頭を下げる。
「あ、うん。こちらこそ……よろしく」
橋本さんも少し慌てたように頭を下げた。
どうやら二人は以前からの知り合いというわけではないらしい。
ただ、橋本さんは何か気になることでもあるのか、平野さんをちらちらと見ている。
そこへ美夏課長も近づいてきた。
「霧崎くん、今日は賑やかね」
「そうですね……」
課長は平野さんを見て、どこか興味深そうに目を細めた。
私はその表情を見て、何となく嫌な予感がした。
(……また、複雑なことになりそうだな)
そんな考えが頭をよぎる。
午後の仕事が始まると、平野さんは思っていた以上に仕事を覚えるのが早かった。
説明したことをすぐに理解し、分からないところは自分から質問する。教えたことは丁寧にメモを取り、同じことを何度も聞くこともなかった。
その姿を見ていると、面接練習で震えていた彼女が嘘のように思えてくる。
(……本当に強くなったな)
そう思った瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
私が何かをしてあげたからではない。
平野さん自身が、怖くても一歩を踏み出した。
その結果が、今ここにある。
そう考えると、嬉しかった。
仕事を終え、帰り支度をしていると、平野さんがこちらへやってきた。
「霧崎さん、今日はありがとうございました」
そう言って、彼女は深く頭を下げる。
「いえ、お疲れ様です」
顔を上げた平野さんは、柔らかく笑っていた。
その笑顔は、転職活動をしていた頃よりずっと自然だった。
「明日からも、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
平野さんは小さく頭を下げると、先に帰っていった。
私はその背中をしばらく見送っていた。
彼女が前に進んでいることが、素直に嬉しい。
(……俺は、どうしたいんだろう)
自分でも、その答えは分からない。
平野さんが同じ会社に来たことで、今まで気づかないふりをしていた何かが、少しずつ動き始めている。
そのことに気づいたのは、彼女の姿が廊下の向こうへ消えた後だった。




