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男女比偏極社会  作者: 綾汰


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平野雫 第6話 「飛翔」

家に帰ると、部屋の静けさがやけに心に染みた。


公園で感じたあの軽さが、まだ胸の奥に残っている。仕事のことを考えれば、いつもならすぐに胸が苦しくなるはずなのに、今日は少しだけ違った。


「……少しだけ、変わりたいな」


自分の声が、思ったより弱くて驚いた。でも、その弱さを否定する気にはならなかった。


今までの私は、弱音を吐くことさえ許していなかったのだから。


私はスマートフォンを手に取り、転職サイトのアイコンを押した。


求人情報がずらりと並ぶ。条件、給与、勤務地、経験、資格……文字の多さに圧倒されて、息が浅くなる。


「私なんかが……通用するのかな」


スクロールする手が止まった。


胸の奥がきゅっと縮まり、やっぱり無理なのかもしれないという気持ちが湧いてくる。


そのまま画面を閉じようとしたとき、昨日の春樹さんの言葉が頭の中によみがえった。


『会社は代わりを見つけられます。でも、平野さんの人生は、平野さんしか生きられません』


私はスマートフォンを見つめたまま、しばらく動けなかった。


今まで私は、会社を辞めることばかり考えていた。その先に何があるのかなんて、一度も考えたことがなかった。


「……もう少しだけ、見てみよう」


そう呟いて、求人情報を一つ開いた。


仕事内容を読む。


自分にできるかどうかは分からない。条件が自分に合っているのかも、まだよく分からない。


それでも、今度は画面を閉じなかった。


その日は、いくつかの求人を眺めてから眠った。


まだ転職すると決めたわけではない。


それでも、昨日までとは少しだけ違う一日だった。


翌日。


仕事帰りの廊下で、私は春樹さんを見つけた。


声をかけようとして、何度もためらう。


けれど、昨日よりほんの少しだけ勇気があった。


「霧崎くん……」


「はい?」


振り返った春樹さんに、私は小さく息を吸ってから口を開いた。


「転職のこと、少しだけ考えてみました」


春樹さんは驚いたように目を見開き、それから柔らかく笑った。


「そうですか」


「まだ、本当に転職するって決めたわけじゃないんです。ただ……求人を見てみました」


「それで十分だと思います」


「……え?」


「昨日まで考えたこともなかったことを、今日考えてみたんですから」


その言葉が、胸にじんわりと染みた。


「私……できるでしょうか」


「できますよ」


迷いのない返事だった。


けれど、春樹さんはすぐに続けた。


「ただ、決めるのは雫さんです。私が代わりに決めることはできませんから」


その言葉が、妙に心に残った。


今まで私は、自分のことを誰かに決めてもらうことさえできなかった。


でも、これからは自分で決めなければならない。


怖い。


それでも、少しだけやってみたいと思った。


その日の夜、私はもう一度転職サイトを開いた。


そして、気になった求人をいくつか保存した。


それだけのことなのに、眠る前の胸は少しだけ軽かった。


数日後。


私は履歴書と職務経歴書を開いていた。


最初は、何を書けばいいのか分からなかった。


これまで私は、ただ毎日言われたことをやってきただけだと思っていた。特別な資格があるわけでもない。誰かに誇れるような仕事をしてきたとも思っていなかった。


けれど、実際に書き始めてみると、意外にも手が止まらなかった。


担当していた仕事。


任されていた業務。


後輩に教えていたこと。


トラブルが起きたときに対応したこと。


一つずつ思い出しながら書いていく。


そして、画面に並んだ文字を見つめた。


「私……こんなにやってきたんだ」


胸の奥が、ほんの少しだけ誇らしくなった。


今まで、自分が何をしてきたのかなんて考えたこともなかった。ただ必死に毎日を過ごしていただけだと思っていた。


でも、何もしてこなかったわけではない。


私はちゃんと働いてきた。


そう思えたのは、初めてだった。


数日後。


私は春樹さんと会社近くのカフェで面接練習をしていた。


「じゃあ、志望動機からいきましょうか」


春樹さんは真剣な表情で、それでもどこか優しい声で言った。


「えっと……その……」


私は履歴書を見ながら言葉を探す。


「自分らしく……働きたいと思って……」


そこで言葉が詰まった。


「……すみません」


「大丈夫です。ゆっくりで」


春樹さんは急かさなかった。


私は一度深呼吸して、もう一度話し始める。


「人のために頑張ることが好きです。でも……これからは、自分のためにも頑張りたいと思っています」


言い終えた瞬間、自分でも少し驚いた。


それは、今まで一度も口にしたことのない言葉だった。


春樹さんは少しだけ目を細めて、頷いた。


「いいと思います」


「……本当に?」


「はい。今の言葉は、雫さん自身の言葉でしょう?」


私は小さく頷いた。


「だったら、それで十分です」


それから何度も練習した。


言葉に詰まることもあったし、質問にうまく答えられないこともあった。それでも、そのたびに春樹さんが急かさず待ってくれた。


「失敗してもいいんです。練習なんですから」


「……うん」


その言葉を聞くたびに、少しずつ肩の力が抜けていった。


そして、本番の日。


私は春樹さんの会社の面接室にいた。


男性が極端に少ない会社らしく、女性ばかりの受付に案内されると、少しだけ緊張が増した。


待合室で、自分の手を見つめる。


少し震えている。


逃げ出したいという気持ちもあった。


それでも、ここまで来た。


私は深呼吸をして、顔を上げた。


「平野雫さん。どうぞ」


「はい」


扉を開ける。


面接官が資料に目を落としながら口を開いた。


「霧崎さんの紹介で来られたんですね」


「はい。お世話になっています」


声は少し震えていた。


それでも、逃げずに面接官の目を見る。


「では、志望動機をお願いします」


私は一度だけ深呼吸をした。


「もっと……自分らしく働きたいと思いました」


最初の言葉が出た。


「私はこれまで、人のために頑張ることばかり考えてきました。でも、これからは自分のことも大切にして、自分のためにも頑張りたいと思っています」


言葉を口にするたびに、不思議と胸の奥が軽くなっていった。


それは面接のために作った言葉ではなかった。


今の私が、本当に思っていることだった。


面接官は静かに頷いてくれた。


その後もいくつか質問をされた。


うまく答えられなかったものもあった。それでも、最後まで自分の言葉で話した。


面接室を出ると、私は大きく息を吐いた。


「……終わった」


結果がどうなるかは分からない。


それでも、不思議と後悔はなかった。


数日後。


スマートフォンに届いたメールを見た瞬間、私は画面を何度も見返した。


そこに書かれていた文字が、なかなか頭に入ってこない。


「……受かった……?」


声に出してから、ようやく実感が湧いてきた。


「……受かった……」


視界が滲み、涙がぽろぽろとこぼれた。


私はすぐに春樹さんのもとへ向かった。


「霧崎くん……!」


「雫さん?」


「受かりました」


声が震える。


「本当に……受かりました」


春樹さんは一瞬驚いた顔をして、それから穏やかに笑った。


「おめでとうございます」


「……ありがとう」


「私じゃありませんよ」


「え?」


「頑張ったのは雫さんです」


その言葉が、胸の奥に静かに落ちていく。


今まで私は、自分が頑張ってきたことを認められなかった。


でも、今なら少しだけ分かる。


私は何もしてこなかったわけじゃない。


ずっと頑張ってきた。


ただ、自分のために頑張ることを知らなかっただけだ。


私は深く息を吸った。


「……私、前に進みます」


そう言った自分の声は、昨日までの私よりずっと強かった。


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