平野雫 第4話 「相談」
目を覚ました後、春樹さんに礼を言った。
「わざわざ、ありがとうございました」
「いいえ」
「これから、どうしたら……」
「言ったでしょう。私が手伝います」
春樹さんの献身的な態度に、涙が出そうになった。
この人は、どこまで優しい人なんだろう。
「私も仕事でつらい時期がありました。辞める気力さえなくなるほど、追い詰められていたこともあります」
そう話す彼の表情は、遠い過去を思い出しているようだった。
「ですが今は、自分の働きをきちんと評価してくれる職場で働いています。困ったときには、お互いに支え合える人たちもいます」
少し間を置いて、春樹さんは続けた。
「無理をしすぎないでください。今の平野さんは、自分でもどうしたらいいのか分からなくなっているはずです」
「今のままでいていいとは思えません。平野さんは、どう思いますか」
彼は私の答えを急かさず、静かに寄り添ってくれた。
そういえば、誰かに悩みを正直に打ち明けたことはなかったかもしれない。
そのことに、春樹さんと話して初めて気づいた。
「私は……正直、どうしたらいいか分かりません。今まで何も考えず、ただ苦しみに耐えてきました」
「……」
重い沈黙が流れる。
春樹さんは少し考えるように視線を落とし、やがて口を開いた。
「私も完璧な人間ではありません。これからお話しすることが、平野さんにとって一番いい選択なのかは分かりません」
「ですが、私は最大限あなたを支えます」
「それって、どういう……?」
「転職しましょう」
「……転職」
その言葉を口の中で繰り返した。
考えたこともなかった。
辞めたいと思ったことは何度もある。
それでも、「辞める」という選択だけは、頭のどこかで勝手に消していた。
「……できません」
「なぜですか」
「辞めたら、迷惑がかかります」
「平野さん」
春樹さんは静かに首を振った。
「平野さんが倒れたことで、会社は何か変わりましたか」
言葉に詰まる。
「……変わっていません」
「それが答えです」
私は俯いた。
涙が止まらなかった。
「会社は代わりを見つけられます。でも、平野さんの人生は、平野さんしか生きられません」
その言葉は、今まで誰にも言われたことがなかった。
「……でも」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
「私なんかを雇ってくれる会社なんて、あるんでしょうか」
春樹さんは穏やかな表情のまま頷いた。
「あります」
迷いのない返事だった。
「平野さんは、自分を過小評価しすぎています」
「そんなこと……」
「毎日真面目に働いてきたのでしょう?」
私は小さく頷く。
「遅刻や無断欠勤は?」
「一度もありません」
「任された仕事は」
「……全部やってきました」
「それだけでも立派な強みです」
思わず顔を上げた。
今までそんなことを言われたことはなかった。
「ですが、その真面目さを利用する会社もあります」
春樹さんは静かに続ける。
「平野さんは、頑張ることが当たり前になりすぎて、自分が限界だということにも気づけなくなっていました」
図星だった。
何も言い返せない。
「今日はもう、何も考えなくていいです」
「でも……」
「今の平野さんは、考えれば考えるほど自分を追い詰めてしまいます」
その言葉に、張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ気がした。
「まずは休みましょう」
「体も心も、回復してからです」
私はゆっくりと息を吐いた。
こんなにも安心して息をつけたのは、いつぶりだろう。
「……ありがとうございます」
気づけば、また涙があふれていた。
春樹さんは何も言わず、そっとティッシュを差し出してくれた。
私はそれを受け取り、小さく笑う。
泣きながら笑ったのは、きっと初めてだった。




