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男女比偏極社会  作者: 綾汰


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平野雫 第3話 「静かな救い」

「立てますか?」


そうだけ言って、私の体を引き寄せる。


力は強くない。必要なだけの力。無駄がない。


私は春樹さんの腕に寄りかかる。


体重を預けると、少しだけ安心した。


廊下の蛍光灯が滲んで見える。


頭がぐらついて、世界が薄くなる。


「病院、行きますか?」


春樹さんは言った。


短い。決めるような言い方ではなく、確認でもなく、ただ事実を並べるように。


「うん」


声が出たかどうか分からない。


首を小さく振ったつもりで、春樹さんは私を支えて立たせた。


歩くたびに視界が揺れて、階段の一段一段が遠く感じられる。


廊下を出て階段を下りる間、私は何も考えられなかった。


考える余裕がないというより、考えたくなかった。


春樹さんの腕に触れているだけで、体の奥の緊張が少しだけ緩む。


タクシーを呼ぶと決めたのは春樹さんだった。


私が何か言う前に、彼はスマートフォンを取り出して番号を押している。


手際がいい。


「動けないなら、動かなくていいですよ」


そう言われて、私は少しだけ泣きそうになった。


誰かに「動かなくていい」と言われることが、こんなに救いになるとは思わなかった。


病院の待合室は冷たくて、椅子の硬さが骨に伝わる。


春樹さんは黙って私の隣に座り、時々私の肩を軽く押して位置を調整するだけだった。


言葉は少ない。


行動が先にある人だと、改めて思う。


診察室で医者に言われたのは「過労とストレス」だった。


言葉は平易で、重みだけが残る。


「しばらく休まないと危ないですよ」


医者の声は普通だった。


普通の声で普通のことを言われると、逆に現実味が増す。


春樹さんが先に答えた。


「休ませます」


短い。


断定の響きがあった。


私の代わりに決めてくれる人がいることに、少し戸惑った。


処方箋を受け取り、外に出ると夜風が冷たかった。


春樹さんはタクシーの列に並びながら、私の肩に軽く触れて位置を確かめる。


触れ方はいつも通り淡々としている。


けれど、その手つきが私には優しく感じられた。


「今日、うちで休みますか?」


春樹さんは言った。


短い命令のようで、押しつけではない。


選択肢を与えられた気がした。


「迷惑かける」


と私は言った。


口癖のように謝る。


会社で何度も謝ってきたから、まず謝ってしまう。


「迷惑じゃないですよ」


春樹さんはすぐに否定した。


言葉は短いが、揺るぎがない。


私が倒れていることが、彼にとって迷惑ではないという事実が、胸に落ちた。


タクシーの中で、私は春樹さんの肩に頭を預けた。


眠気と疲労が一緒になって、まぶたが重くなる。


春樹さんは運転手に住所を告げ、私の体を支えたまま外の景色を見ている。


言葉は、必要なかった。


◆


朝、目が覚めると春樹さんの部屋の天井が見えた。


知らない天井だと思ってから、隣の部屋の人の家だと気づくまでに一瞬かかった。


体は重いが、昨日のような刺すような痛みは薄れている。


春樹さんはキッチンでコーヒーを淹れていた。


音だけで誰か分かる。


隣に住んでいるから、生活の音が耳に馴染んでいる。


「起きましたか」


短く聞かれて、私は小さく頷いた。


言葉を探す気力はない。


けれど、聞かれたことに答えるのはできる。


「気分は?」


春樹さんはカップを差し出しながら言った。


言葉は短い。


余計な説明はない。


「少し、楽」


それだけ言うと、春樹さんは黙って頷いた。


表情は変わらない。


けれど、目の端に少しだけ柔らかさがあるのを私は見逃さない。


私は昨日のことを思い返す。


廊下で倒れたこと。


病院の白い光。


春樹さんがタクシーを呼んだこと。


全部が現実で、全部が私の身体に刻まれている。


「会社、辞めたい」


言葉が出たのは自然だった。


胸の中でずっと渦巻いていたものを、やっと外に出した感じがした。


春樹さんは黙って私を見て、短く言った。


「辞めた方がいいと思います」


その一言は、思ったよりも重かった。


簡潔で、余計な慰めがない。


けれど、私にはそれで十分だった。


辞めることを許可してくれる人がいるわけではない。


けれど、誰かが「辞めればいい」と言ってくれると、決断が少しだけ現実味を帯びる。


「でも、次が」


と私は言いかけた。


辞めた後の不安がすぐに顔を出す。


「探す。手伝います」


春樹さんは短く答えた。


言葉は少ないが、行動の約束が含まれている。


私の履歴書の書き方を直すとか、面接の練習をするとか、具体的なことはまだ言わない。


言わなくても、やるだろうと私は思った。


しばらく黙って、私は春樹さんの横顔を見た。


隣の部屋の人が、こんなに近くにいてくれることが、少し不思議だった。


倒れた廊下の冷たさと、今ここで感じる温度が、同じ時間の中にあることが信じられない。


「春樹さん、ありがとう」


小さく言うと、春樹さんは肩をすくめるようにして、短く「いいですよ」とだけ言った。


余計な言葉はない。


けれど、その「いい」が私には救いだった。


外の空は薄く明るくなっている。


私の中の何かが、少しだけ動き出した気がした。


ゆっくりでいい。


まずは休むこと。


次に、少しずつ動くこと。


春樹さんが隣にいるなら、できるかもしれないと思った。


毛布を握りしめて、私は目を閉じた。


静かな部屋の中で、呼吸が少しだけ整う。


春樹さんの動く気配が、いつもより近く感じられた。

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