平野雫 第2話 「崩れる自分」
最近、朝起きると胸の奥が重い。
眠ったはずなのに、体が休んだ感じがしない。
目を閉じていた時間が、そのまま仕事の続きみたいに思える。
会社に入った頃は、多少の残業なんて当たり前だと思っていた。
「若いうちは頑張るもんだよ」
上司が笑いながら言うその言葉を、私は疑いもせず受け入れていた。
でも、気づけば終電帰りが日常になっていた。
休日出勤も増え、昼休みはメールの返信で終わる。
上司は「これ今日中ね」と当然のように言い、私が疲れた顔をすると「若いんだからさ」と軽く笑った。
私は笑い返した。
その笑顔が自分のものじゃないことに気づく余裕は、もうなかった。
そんな日々の中で、春樹さんと話すようになった。
隣の部屋に住んでいるから、帰りが同じ時間になると、廊下で会うことが多かった。
最初は挨拶だけだった。
でも、ある日、仕事帰りにふらついた私を春樹さんが支えた。
「立てますか?」
それだけ言って、私の腕を軽く引いた。
必要なことだけを言う人なんだと思った。
それから、時々話すようになった。
春樹さんは私の仕事の話を聞くたびに、少しだけ眉を寄せた。
「普通じゃないですよ」
「やめたほうがいいと思います」
短い言葉なのに、妙に胸に残った。
私は笑ってごまかした。
「大丈夫だよ。慣れてるから」
慣れてなんかいなかった。
ただ、逃げ方が分からなかっただけだ。
夕方、アパートの掲示板の前で管理人さんに呼び止められた。
「これ、隣の方が落としたみたいで……平野さん、帰りに渡してあげてくれる?」
手渡されたのは、見覚えのない黒いファイル。
春樹さんの名前が書いてあった。
職場も違うし、普段は挨拶する程度の関係だ。
わざわざ話すような仲でもないから、渡しに行くのが少しだけ気まずかった。
エレベーターを降りて、廊下を歩く。
隣の部屋だから、ほんの数十歩。
それなのに、途中で急に視界が揺れた。
「……あれ」
心臓が早くなる。
呼吸が浅い。
壁に手をついても、力が入らない。
私はゆっくりと春樹さんの部屋の前まで歩いた。
ノックしようと手を伸ばした瞬間、膝が笑った。
「……やば」
視界が白く滲む。
体が前に倒れそうになる。
そのとき、隣の部屋――私の部屋のほうから、鍵の開く音がした。
ドアの向こうから春樹さんの足音が近づく。
いつもと同じ、無駄のない歩き方だと分かる。
隣だから、廊下の音でだいたい分かる。
「雫さん?」
短い声。
呼び方に感情はあまり混ざっていない。
けれど、私にはそれで十分だった。
返事をしようとしたけれど、喉が詰まる。
息が浅くて、言葉が出ない。
手を伸ばしてノックするつもりが、指先が震えて空を切った。
膝が抜ける感覚があって、体が前に傾いた。
床に落ちる前に、誰かの手が私の腕を掴んだ。
春樹さんだった。




