平野雫 第1話 「日常」
「ああ、うるさ」
昏睡状態にある人でも起きそうなけたたましい音を立てている目覚まし時計を止めた。
過去の自分が自分のために設定したのに、妙にむかつく。
(今日も仕事か……)
毎日が同じように過ぎるので本当につまらない。
しかも今勤めている会社は、人を人として見ていないように思える。
それくらい忙しい。
今日もへとへとに疲れてベッドに倒れるんだろうなと思うと、ため息が出る。
支度を終えて会社に行く。
世界はいつから灰色になったのだろう。
過去に戻りたいと思うが、五年前も過去に戻りたいと言っていた気がする。
何か大きなきっかけがあるといいのにと思うが、
どれがあったとしても行動するような気力はなさそうに思えた。
「ねえー!」
「あはは!」
「きゃはは!」
歩道で集団で歩いている子供の声が聞こえてくる。
女の子ばかりの集団。
この世界では男の子はほとんど見かけない。
そんな子供たちの笑い声は、幸せというものを私に思い出させてくれた。
(いいなあ……)
私があの頃に戻ったら何をするんだろう。
恋かな。
いや、そもそも男子がいない。
勉強かな。
そこまで努力するだろうか。
過去に戻りたいと思っても無駄だということは分かっている。
たとえ過去に戻ったとしても、私は私のままだ。
何かが変わるということはない気がしてくる。
そんなことを思いながら通勤時間が過ぎていく。
あまりにも忙しい毎日に泣きそうになった時もあったが、
今はもう涙が枯れたみたいだった。
駅のホームは人で埋まり、
誰もが疲れた顔をしていた。
満員電車に揺られながら、スマホが震えた。
上司からのメッセージだ。
『昨日の資料、午前中までに修正しておいて』
『あとこれも今日中に。急ぎじゃないけど』
(急ぎじゃないなら今日中って言わないでほしい)
ため息が漏れる。
まだ会社にも着いていないのに、もう疲れてしまった。
ちゃんとした休みを取ったのがいつだったのか、もう忘れてしまった。
もはや何のために仕事をしているのかわからなくなってきた。
最初は自分の将来のためだった気がするが、
今は仕事のために仕事をしている気がする。
つまり仕事の奴隷となってしまった。
過去の自分が今の自分を想像することはできないだろう。
それほどひどい状況にいるのに、
足は仕事に向かっている。
つらいのに、それを無視するかのように働いてしまっている。
このままじゃまずい。
「おはようございます」
「……」
会社について上司に挨拶するが返してくれない。
初めのころは無視されて傷ついたが、
今は何とも思わなくなっている。
これが当たり前になるなんて、いままで考えたことはなかった。
何かが変わることを望んでいるが、
同時に私の人生はそんなドラマチックな出来事は起きないと諦めてもいる。
私のように疲れている社員は、見渡せばすぐに見つかる。
各自、自分に与えられたタスクを黙々と消化している。
そんなこんなで今日も仕事を終えて帰宅した。
へとへとに疲れて眠ってしまいそうになり、
帰りの電車では降りるところを間違えそうになった。
つらくて前も向けないまま帰路に就いた。
アパートの階段を上って、自分の部屋の前に向かうと、
男性が大きな袋を持っている姿が見えた。
男性を間近で見るのは久しぶりで、胸がざわついた。
「私は今ごみを片付けています」
「はい……」
よくわからなかったが、
目の前の出来事がすべて信じられなくて、
頭がふわふわしたまま自分の部屋に入って、すぐに寝た。
起きてシャワーを浴びて着替えた。
朝の支度を済ませて部屋を出た。
「あれ……?」
部屋の前の通路に男性が立っていた。
かろうじて頭の中に残っていた昨日の男性と、
目の前にいる男性が一致した。
この時ちょうど、目の前にいる彼が現実であることをはっきりと自覚した。
「え……!」
心臓が一度だけ強く跳ねた。
何も変わらないと諦めていた私の人生が、
変わる予感がしたのはこの時だった。
ずっと灰色だった世界に、
ほんの少しだけ色が差した気がした。




