朝霧美夏・第5話 「消えてなおも輝く」
仲のいい仕事仲間と映画に行く日、私は近くの池で散歩をした。
まだ日が昇ってから時間があまりたっていないので、周りに人は誰もいない。
朝の太陽を待っていた星が消えていく。
外出する前にこんなにも早く起きたことはない。
私は自分が思っているよりも、この日を楽しみにしていたのを理解した。
映画館のロビーに入った瞬間、冷たい空気が肌を撫でた。
春樹くん、橋本さん、野々花さん。
三人の並びを見て、胸の奥がほんの少しだけざわついた。
(完全に恋する乙女の目じゃないか……)
私は彼女たちの顔を見て苦笑いをした。
もちろん、私はただの上司として来ただけ。
そう思うようにしている。
けれど、春樹くんがこちらを見て笑ったとき、
その笑顔が思った以上にまっすぐで、心がわずかに揺れた。
◆
暗くなった劇場。
私はふと霧崎くんのほうを見た。
若い。
まっすぐで、曇りがない。
その横顔は、昔の誰かを思い出させるほど似ているわけじゃない。
でも――
胸の奥が、少しだけ疼いた。
理由はわからない。
ただ、
「この子は、きっと誰かを幸せにする」
そんな確信めいた感情が、ふと湧いた。
そして同時に、
「私は、その誰かにはならない」
そんな静かな諦めが、同じ場所に落ちていった。
スクリーンの光がゆっくりと広がり、物語が動き出す。
禁断の恋。
夏の終わり。
戻れない時間。
若い頃に一度だけ、似たような感情を抱いたことがあった気がする。
誰だったのか、どんな場面だったのか、
思い出そうとすると霧がかかったように曖昧で、
ただ胸の奥が少しだけ疼く。
隣を見ると、春樹くんが真剣な表情でスクリーンを見つめていた。
その横顔が、なぜか目を離せなかった。
◆
主人公たちが水辺で言葉を交わす場面。
風が揺れ、光が揺れ、心も揺れる。
胸の奥がきゅっと締め付けられた。
理由はわからない。
ただ、波の音が昔の記憶のどこかと重なったような気がした。
「今のシーン、すごくよかったな」
そう口にしたのは、
映画の感動だけじゃない。
自分の心が少しだけ揺れた、その余韻が言葉になった。
春樹くんがこちらを見て、
「ですね」と柔らかく笑った。
その笑顔が、また胸に触れた。
映画が進むにつれて、
物語の中の恋人たちは、
触れれば壊れてしまうような関係を必死に守ろうとしていた。
その姿が、
昔の自分と重なる瞬間があった。
誰かを想って、
でもその想いを言葉にできなくて、
ただ時間だけが過ぎていった夏。
あの頃の私は、
今よりずっと不器用で、
今よりずっと臆病だった。
その夏は、
もう戻らない。
戻れないからこそ、
今でも胸の奥で光っている。
◆
物語が終わりに向かう。
戻れない夏。
選べなかった恋。
きっと主人公はヒロインのことを永遠に、恋しく思うのだろう。
それでも美しかった時間。
きっと何もない夏よりも、ずっとずっといいものだと思った。
気づけば涙が頬を伝っていた。
映画が良すぎたのか、
それとも、胸の奥の古い扉が少しだけ軋んだのか。
自分でもわからない。
ただ、
「戻れないからこそ、輝く」
その言葉が、静かに心に落ちていった。
◆
明るくなった劇場で、三人が楽しそうに感想を言い合っている。
私は笑顔で返しながら、
まだ少しだけ胸の奥が温かいような、痛いような、そんな感覚を抱えていた。
春樹くんがふとこちらを見て、
「美夏さん、泣いてましたよね」と照れたように言った。
「映画って、たまにこういうのがあるのよ」
そう返した声が、
ほんの少しだけ震えていたのを自分でも感じた。
◆
夕暮れの光が街を染める。
三人の後ろを歩きながら、
春樹くんの背中を見つめる。
その背中は、
まっすぐで、
未来に向かっていて、
眩しいほどに若い。
私はもう、
あの頃のように誰かの未来に並んで歩くことはできない。
でも――
今日の時間は、
確かに美しかった。
戻れない夏は、
誰にでもある。
私にも、
きっと。
そして今日、
その夏がほんの少しだけ、
胸の奥で軋んだ。
◆
「今日はありがとうございました!」
橋本さんが明るく笑う。
野々花さんも嬉しそうに手を振る。
春樹くんも、いつもの柔らかい笑顔でうなづいた。
私は微笑みながら返した。
その笑顔がほんの少しだけ震えていたのを、
誰も気づかなかったと思う。
(楽しかったな……)
心の奥でそう思った。
本当に楽しかった。
それは嘘じゃない。
でも、
その楽しさの中に、
ほんの少しだけ痛みが混ざっていた。
大人になると、
楽しいだけの時間って、
なかなかない。
◆
部屋に戻ると、静けさが一気に押し寄せた。
靴を脱いで、ソファに座る。
映画の余韻がまだ胸の奥に残っている。
(……泣いちゃったな)
自分でも驚くほど自然に涙が出た。
映画が良すぎたのか、
それとも、胸の奥の古い扉が軋んだのか。
わからない。
わからないままでいい。
ただ――
今日の時間は、確かに美しかった。
戻れない夏は、誰にでもある。
私にも、きっと。
そして今日、
その夏がほんの少しだけ、
胸の奥で輝いた。




