朝霧美夏・第3話 「夜に沈む思い」
オフィスを出た瞬間、夜風が頬を撫でた。
昼間のざわつきが嘘のように静かで、
その静けさがかえって胸の奥のざわめきを際立たせた。
(……今日は、いろいろありすぎたわね)
霧崎くんの“あの目”。
橋本さんの真剣な表情。
そして、机の上に置かれていた付箋。
《気にしてくれて嬉しかったです》
あの一文が、ずっと胸の奥で熱を持っていた。
(どうして……あんなことを書くの)
嬉しい。
でも、怖い。
その二つの感情が、
まるで綱引きのように胸の中でせめぎ合っていた。
◆
家に帰り、シャワーを浴び、
髪を乾かしながら鏡を見る。
そこに映るのは、
仕事に疲れた三十路の女。
(……何を期待してるの、私)
霧崎くんは若い。
まだ社会に出たばかりで、
未来がたくさんある。
そんな彼に、
私のような女が何を求めるというのだろう。
(私は……ただの上司よ)
そう言い聞かせても、
胸の奥のざわつきは消えなかった。
◆
リビングのソファに座り、
ぼんやりと天井を見上げる。
静かな部屋。
時計の針の音だけが響く。
(……霧崎くん、最近ちょっと悩んでいたわね)
思い返すと、
彼の変化は少しずつ積み重なっていた。
私の前では笑うのに、ふとした瞬間に影が落ちる。
誰かに遠慮しているような態度。
自分を下げるような言い回し。
そして、橋本さんと話すときの微妙な距離感。
(あの子……気づいてるのよね)
橋本さんは、霧崎くんの変化に敏感だった。
それは、彼を想っているから。
その気持ちは痛いほど伝わってきた。
(……私も、気づいてる)
霧崎くんは、
橋本さんの気持ちに気づいている。
そして――
それを迷惑だと思っているわけではない。
むしろ、
自分が応えられないことを気にしている。
(優しい子……だから)
彼はいつもそうだ。
誰かを傷つけないように、
自分を後回しにしてしまう。
(……私の前でも、そうなのかしら)
胸が痛んだ。
◆
スマホが震えた。
画面を見ると、
橋本さんからのメッセージだった。
《課長、今日お話聞いてくださってありがとうございました。
霧崎君のこと……私、ちゃんと向き合いたいです》
胸が締め付けられた。
(……そうよね。あの子は素直で、まっすぐで……)
橋本さんは若くて、
可愛くて、
明るくて、
霧崎くんと同じ“未来のある側”の人間だ。
私とは違う。
(私は……何をしているのかしら)
自嘲気味に笑った。
◆
ふと、
霧崎くんの視線を思い出す。
今日の昼、
橋本さんが笑った時の彼の表情。
驚いたように、
少しだけ切なそうに、
そして――
どこか遠くを見るような目。
(あれは……どういう意味だったの?)
嫉妬?
諦め?
それとも、
ただの戸惑い?
(……わからない)
でも、
ひとつだけ確かなことがある。
(あの目が……忘れられない)
胸の奥がじんわりと熱くなる。
◆
気づけば、
私は霧崎くんのことばかり考えていた。
彼の笑顔。
彼の声。
彼の不器用な優しさ。
彼の迷い。
彼の影。
そして――
彼が私を見る時の、
あの少しだけ切ない目。
(……どうして、こんなに気になるの)
答えはわかっている。
でも、認めたくなかった。
私は恋愛が怖い。
拒絶されるのが怖い。
過去の傷が、まだ癒えていない。
(私は……誰かを好きになっていい人間なの?)
その問いが、
胸の奥に重く沈んだ。
◆
深夜。
窓の外には街の灯りが揺れている。
私はカーテンを少し開け、
夜空を見上げた。
(……霧崎くん)
名前を呼ぶだけで、
胸が痛くなる。
(あなたは……私にとって何なの?)
上司と部下。
それだけのはずだった。
でも、
彼の存在は、
私の心の奥に静かに入り込んでいた。
(気づきたくない“何か”)
それは、
確かにここにある。
触れたら壊れてしまいそうなほど脆くて、
でも確かに存在している“何か”。
私はそっと目を閉じた。
(……明日、どう接すればいいのかしら)
答えは出ない。
でも、逃げることもできない。
霧崎くんは、
私の心を揺らす。
それはもう、
誤魔化せない事実だった。
◆
ベッドに横になり、
天井を見つめる。
静かな夜。
時計の針の音だけが響く。
(……私は、どうしたいの?)
その問いが、
胸の奥で何度も反響した。
霧崎くんの笑顔が浮かぶ。
橋本さんの涙ぐんだ目が浮かぶ。
自分の震える心が浮かぶ。
(……わからない)
でも、
ひとつだけ確かなことがある。
――私は、霧崎春樹を失いたくない。
その想いが、
静かに胸に沈んでいった。




