朝霧美夏・第1話 「胸のざわめき」
映画館を出たあと、
夕方の風が頬を撫でた。
「霧崎くん、あのシーン……よかったわね」
自分の声が、
どこか上ずっている気がした。
映画の余韻に浸っているだけ――
そう思いたかった。
後ろを歩く橋本の足音が、
少しだけ遅い。
彼女の表情は、
どこか沈んで見えた。
(橋本……あなた、気づいてるの?
私が……こんな気持ちになってることに)
胸の奥が、
またきゅっと痛んだ。
映画のせいじゃない。
これは――もっと別の何か。
霧崎くんが、
私の横で歩いている。
その距離が、
妙に近く感じた。
(……どうしたの、私)
自分の心が、
自分のものじゃないみたいだった。
◆
家に帰ると、
部屋は静かだった。
ソファに座ったまま、
しばらく動けなかった。
(今日……何があったのかしら)
映画館での会話が、
頭の中で反芻される。
「課長、こういうの好きなんですか?」
あのときの霧崎くんの声。
暗闇の中で、
少しだけ私の方を向いた横顔。
(あれは……ただの会話よ。
仕事仲間として当然のやり取り)
そう言い聞かせても、
胸のざわつきは消えなかった。
橋本の表情も思い出す。
あの子は、
霧崎くんを見るとき、
まるで光に照らされたみたいに顔が変わる。
(あの子……気づいてるのよね。
自分の気持ちに)
そして――
私の気持ちにも。
胸の奥が、
また痛んだ。
(……私、どうしたいの?)
答えは出なかった。
◆
霧崎春樹が入社した日のことを思い出す。
初日、
緊張した面持ちで挨拶をしていた。
でも、
声はしっかりしていて、
礼儀正しかった。
(ああ、この子は大丈夫ね)
それが第一印象。
仕事を任せてみると、
驚くほど丁寧で、
誠実で、
報告も連絡も相談もきちんとしていた。
(最近の男性にしては珍しいわね)
そう思った。
霧崎くんと話すとき、
目が合うとドキッとしてしまう。
目を合わせるのは会話の基本なのに、
彼の前だとそんな簡単なことができない。
霧崎くんのせいにしたくない。
きっと私がおかしいんだ。
でもなんでだろう。
いつもと違うのに、
悪くない。
むしろ胸の高まりを感じるような気持ちを抱いている。
(私、どうしたのかしら……)
今日は会社の重役が集まる大切な会議がある。
またとない機会だから、
霧崎くんに出席をしてもらった。
男性が会議に参加するなんて、
この会社では前代未聞のことだけど、
きっと大きな転換が見られるはず。
◆
霧崎くんを会議室に案内して、
彼と一緒に会議室へ入った。
それまでのざわざわとした空気が、
一瞬にして静まった。
会議室内には、
異様な空気が漂っている。
(すごい……
これが男性の影響力なのね……)
ただ彼は会議室に入っただけなのに、
一瞬で場の空気を変えてしまった。
そんな彼は、
たいして表情を変えず堂々としている。
(肝が据わっているわね……)
普通の男性なら、
大勢の偉そうな、
競争意識のあふれた女性たちの目にさらされたら、
すぐに逃げ出してしまってもおかしくない。
けれど彼は逃げ出さず、
むしろ歓迎されているかのように会議室を見渡して、
目で挨拶をしていた。
「今回の会議では男性の研修生が見学に入ります。
緊張感をもって、
会議を建設的に進めましょう」
「席はこちらを」
彼を後ろの席に座らせて、
緊張感が最初からピークを迎えている会議を始めた。
そのあとにあった簡単な重役や担当者の自己紹介は、
完全なる失敗で終わった。
なにせ男性に直接見られているのだから仕方がない。
記憶に残らせたいという思いの前に、
"いやな思いをさせたくない"という気持ちが前面に出ていた。
「では、今期の新規企画案について議論を始めます」
◆
会議は順調に進み、
橋本さんと協力して重役への説得もうまくいった。
霧崎くんの一声で、
重苦しい空気ががらっと変わったように感じた。
改めて、
男性の影響力の強さを感じた。
会議が終わって、
彼が橋本と話している姿を見たとき、
ほんの少し胸がざわついた。
(……何、この感じ)
そのときは気のせいだと思った。
仕事の疲れだと、
自分に言い聞かせた。
でも、
霧崎くんが誰かと笑っていると、
胸の奥がちくりと痛むことが増えていった。
(私……そんなはずないわよね)
大人だから。
上司だから。
恋なんて、
もう遠いものだと思っていた。




