橋本透香・第5話 「思い出」
水族館へは徒歩とバスで移動する。
今私はバスの中で春樹さんの隣にいる。
春樹さんと距離がこんなに近いことはめったにない。
(ドキドキする……)
これからの楽しい水族館でのデートに思いを馳せて、
期待で胸をいっぱいにする。
(楽しみだなあ……)
「橋本さんは見てみたい魚とかあるんですか?」
「そうですね……私はクジラとクラゲですかね……魚ではないんですが!」
「そうなんですね。絶対見ましょうね」
「はい! 今から行く水族館はクジラへの餌やりが見れるらしいですよ!」
「そうなんですね! それは楽しみです」
会話を続けていると、バスが目的地に到着した。
◆
水族館に向かう道。
海風が少し冷たくて、
でも隣を歩く春樹さんの存在が、
それを忘れさせてくれた。
「橋本さん、水族館好きなんですか?」
「はい! クラゲが特に好きで……」
「クラゲ、いいですね。私も楽しみです」
("私も"って……)
その一言だけで、胸がふわっと温かくなる。
◆
「人がいっぱいですね」
「確かにそうですね」
「カ、カップルが多いですね」
「そ、そうですね」
(私たち、カップルみたい)
春樹さんの恋人になった自分の姿を妄想する。
きっと幸せなんだろうな。
水族館に入ると、
薄暗い青い光が私たちを包んだ。
最初の大きな水槽。
群れで泳ぐ魚たちが、光を反射してきらきらしている。
「わぁ……」
思わず声が漏れた。
春樹さんが横で、静かに微笑んでいる。
「綺麗ですね」
「はい……!」
水槽のガラスに映る自分の顔が、
少し赤いのがわかった。
◆
クラゲエリアに入ると、
ふわふわと漂う光の塊が、
まるで夢の中みたいだった。
「かわいいですね」
「そう思います」
「クラゲって……なんか癒されますよね」
「わかります……ずっと見ていられます」
春樹さんが、
クラゲの水槽に顔を近づけて見つめている。
その横顔が、
水槽の青い光に照らされて、
息を飲むほど綺麗だった。
(……好きだな)
胸がぎゅっとなる。
「クラゲすごくきれいですよね」
綺麗な横顔に話しかけた。
目が合うだけで胸が早打つ。
横顔も正面の顔も見ていたい。
「はい……そうですね」
◆
クジラのいる巨大な水槽へと続く通路は、
トンネル状の水槽になっていた。
周りを青で囲まれ、
いろんな魚を近くで見ることができた。
その魚たちの群れがとても美しく、色鮮やかで、
思わずはしゃいでしまう。
魚の群れに隠れてエイが泳いでいた。
そのエイが水槽に近づいてきて、
その裏側を見せてくれた。
まるで笑顔の絵文字のようだった。
(そうだ……)
「これ……エイの真似です」
春樹さんの方を向いて、
エイの裏側みたいな表情を作った。
春樹さんは屈託のない笑顔を見せてくれた。
海を通った光が彼の笑顔を照らし、
普段見たことのないほどの笑顔を、
さらに美しく、幻想的にさせていた。
◆
そして、クジラの大水槽。
大きな影がゆっくりと泳いでいく。
「すごい……」
「迫力ありますね」
二人でしばらく無言で水槽を眺めた。
静かな時間。
でもその沈黙が心地よかった。
(こんな時間がずっと続けばいいのに)
そう思った。
彼の横顔を見つめる。
彼は私のことをどう思っているのだろうか。
女性が極端に多いこの社会で、
私のほかに魅力的な女性は腐るほどいる。
彼は私を選んでくれないのだろうか。
そんなことは奇跡が起きないとありえないだろう。
でもこんなに近くにいるのに、
どうして諦められるのだろうか。
そう思うと胸が苦しくなる。
春樹さんと目が合う。
彼は照れたように顔を水槽に戻した。
「……クジラだ」
彼がそうつぶやいた。
クジラは悠然と水槽を泳いでいた。
あまりにも生物として大きいその姿は、
自然の美しさを私に思い出させてくれた。
春樹さんはその姿をカメラで捉えた。
◆
水槽の近くで飲食ができる場所を見つけて、
春樹さんとおしゃべりをした。
私は恋愛が苦手で、
空っぽの自分に自信が持てないことを、
春樹さんに告白した。
「そうなんですね……それはきっと辛いと思います」
「はい……でも霧崎さんは男性だから……」
春樹さんが男性だからなんだというのだろうか。
"あなたにはわからないでしょ"と、
突き放すような発言をしてしまった。
すぐに後悔して苦しくなった。
私がうつむいていると突然、
彼が私の手をそっと引いた。
「橋本さん、こっちです」
彼はクジラが餌を食らうために、
上を向いている姿をみせてくれた。
「わあ〜すごいです!!」
見たこともないそのクジラの姿に、
心から感動した。
今なら彼に一歩踏み出せるような気がした。
「橋本さん?」
「あの……今日だけでいいので恋人になってもらえませんか?」
「……いいですよ」
彼と恋人になりたかった。
一日でもいいから彼と夢を見てみたかった。
何もなしに彼とのデートを終わらせたくなかった。
そんな思いを行動に変えた。
彼は優しく私の思いを受け止めてくれた。
(好きだ)
彼は私の下の名前を呼んでくれた。
彼は普段、人のことを名字か役職で呼ぶ。
私との距離を彼から縮めてくれたのが、
とてもうれしかった。
◆
水族館を出ると、夕方の風が少し冷たかった。
私たちは水族館のすぐ近くにある海を見に行った。
私たちは同じオレンジ色に染められた。
彼とつながっているような気持ちになった。
彼との時間はとても貴重なものに思えて、
一秒も無駄にしたくなかった。
海辺の砂をそっとすくう。
指の隙間から砂が落ちていく。
さらさらと音を立てて、
すぐに形を失ってしまう。
この儚い時間は一瞬で消えていく。
(……恋もこんな感じなのかな)
私のこの気持ちは永遠のものなのだろうか。
気づかないうちに消えてしまうのかもしれない。
もし永遠だとするのなら、
それを愛と呼ぶのだろう。
◆
二人で写真を撮り、
二人の時間を楽しんだあと、
お土産を買いに館内に戻った。
そこにはクジラやクラゲ、
エイなどのグッズが売られていた。
春樹さんは私にクジラのぬいぐるみをくれた。
私たちの思い出が結晶化したようなものに感じられて、
心が躍った。
また、お揃いのクジラのストラップを買った。
このストラップがいつでもどこでも、
この日を私に思い出させてくれると思った。
たとえ彼がいなくなったとしても、
私はこの日を思い出し続けるのだろう。
◇
私たちは水族館を出て、
バス停へと向かった。
「今日は楽しかったですね!」
「そうですね〜。とても楽しかったです」
「今日は素敵な思い出になると思いますよ」
「そうですね……きっとそうなります」
バス停に着き、
二人でバスを待つ。
「そういえば……今日は昨日よりも楽しかったですか?」
「……」
「無理して言わなくていいんですよ?」
「すいません……」
バスに乗り、
彼と話す。
「春樹さん……またいつか一緒に出掛けませんか?」
「はい……もちろんです、透香さん」
バスが目的地に着き、
一緒に降りた。
今日、出会った場所へ戻る。
「今日は素敵な思い出をありがとうございました!」
「こちらこそありがとうございます」
「ではまた明日!」
「はい!」
私と彼との関係は、
これからどのように変化するのだろうか。
新たな作品として「貞操逆転百合」というのを考えています。この作品が投稿されるのはだいぶ後かもしれません。ハッピーエンドで終わらない可能性が高いですが、気になる方には読んでもらいたいです。




