第17話 思い出に残る一日
今、私はバスの中で橋本さんの隣に座っている。
橋本さんは上機嫌だ。
「橋本さんは見てみたい魚とかあるんですか?」
「そうですね…私はクジラとクラゲですかね…魚ではないんですが!」
「そうなんですね。絶対見ましょうね」
「はい! 今から行く水族館はクジラへの餌やりが見れるらしいですよ!」
「そうなんですね! それは楽しみです」
(クジラを直接見たことがないのに、餌やりまで見れるなんて…すごく楽しみだな…)
そんな会話を続けていると、私たちが乗っているバスが目的地に到着した。
潮風を感じる。
「海の匂いがしますね!」
「そうですね。久しぶりに嗅ぎました」
私は仕事に没頭して趣味や旅行に時間を使うことはほとんどなかったので新鮮に感じた。
今思えば生きる目的がなかったので、ただただ仕事をして現実逃避していただけかもしれない。
おかげで貯金ばかり増えたのだった。
「ではいきましょう!」
「はい」
橋本さんの案内で、水族館の受付を済ませる。
彼女が二枚のチケットを係員に渡していた。
エスカレーターで昇って館内に入った。
カップルは私たち以外にはほとんどいなかった。
女性同士で手を組んでいた二人がいたので、百合カップルかもしれない。
この世界では女性の数が前の世界より何倍も多いので、
男女のカップルよりも女性同士のカップルのほうが多い可能性がある。
前の世界でも同性同士のカップルをテーマとしたフィクション作品は
おつまみ程度にたしなんでいたが、
こんなに近くで、こんなに多くの同性カップルは見たことがなかった。
男女のカップルを見つけたと思ったら男装をしていた女性だった場合も多かった。
「人がいっぱいですね」
「確かにそうですね」
「カ、カップルが多いですね」
「そ、そうですね」
(いま私たちはどのようにみられているのだろうか)
館内を歩いていると、ひときわ暗いところに到着した。
ここがクラゲのいる場所なのだろう。
ライトアップされている水槽に近づくと、クラゲがたくさん漂っているのが見えた。
クラゲはピンクや青などの色で染まっていた。
大きいクラゲがいる水槽や、小さなかわいらしいクラゲのいる水槽もあった。
私たちはそんなクラゲたちを一緒に見つめている。
「かわいいですね」
「そう思います」
私はクラゲに見惚れている彼女に見惚れていた。
視線をクラゲに戻した。
正直、クラゲよりも橋本さんを見ていたいと思った。
会社で橋本さんと一緒に働くにつれて、
彼女のいいところも悪いところも含めて彼女のことを好きになっていった。
でも彼女に伝える勇気が出ないのはなぜなのだろうか。
「クラゲすごくきれいですよね」
そんなことを考えていると橋本さんに話しかけられる。
私はクラゲに目を向けていただけで、ほかのことを考えていた。
「はい…そうですね」
橋本さんのことを考えていたなどとは言えなかった。
クラゲのエリアを抜けると、視界が一気に開けた。
クジラのいる巨大な水槽へと続く通路は、トンネル状の水槽になっていた。
周りを青で囲まれ、いろんな魚を近くで見ることができた。
「わあ…いっぱいいますね!」
橋本さんは多種多様な魚を見て、近づき、はしゃいでいた。
そんな彼女をかわいいと思った。
「あの魚きれいですね!」
彼女の視線の先には黄色の魚がいた。
名前はわからないが、確かにきれいだった。
「そうですねえ」
この水槽にはエイもいて、その裏側を見ることができた。
人間の笑顔のようで面白かった。
橋本さんが真似をしていて、さらに面白かった。
◇
二階に上がると、視界の先に巨大な青い壁が広がっていた。
それはまるで映画館のスクリーンのように横に長く、
水槽全体がゆっくりと揺れる青い光で満たされている。
人の流れは一階に集中していた。
水槽の真正面でクジラを見たい人たちが、
前方の広いスペースにぎゅっと集まっている。
私たちがいる二階は比較的空いていて、
水槽の全体を上から見渡すことができた。
二階の床には、
「→ クジラ水槽前」「→ 深海エリア」
といった矢印が描かれていて、
どの方向に進めばどの展示に行けるのか一目でわかるようになっている。
私たちの立っている場所から、
水槽の近くまで続く横長のスロープが見えた。
ゆるやかに下へと伸びていて、
その先で一階の観覧スペースにつながっているようだ。
ただ、二階からでも水槽は十分に大きく見える。
わざわざ人混みに入らなくても、青い世界の広がりを堪能できた。
「…すごいですね」
思わず息を呑む。
深い海の底に沈んだような静けさと、
巨大な水槽の圧倒的な存在感に心を奪われる。
ふと横を見ると、橋本さんがこちらを見ていた。
目が合う。
どれくらいの間、彼女が私を見ていたのか。
それとも、たまたま目が合っただけなのか。
判断がつかず、胸がざわつく。
(今の顔、見られてた…?)
水槽に圧倒されていた自分を見られたと思うと、
急に恥ずかしくなって目をそらした。
その瞬間、水槽の奥から巨大な影がゆっくりと現れた。
「…クジラだ」
青い世界を悠然と泳ぐその姿は、
まるで海そのものが動いているようだった。
私は慌ててスマホを構え、写真を撮る。
ついでに動画も撮ろうとしたとき、
画面の端に橋本さんが映り込んだ。
その横顔が、水槽の青い光に照らされていて、
思わず心臓が跳ねた。
◇
クジラの水槽に沿って右側のほうに向かうと、
水槽の近くで椅子に座りながら飲み物が飲める場所があった。
そこでおしゃべりしながら、クジラの餌やりの時間を待つ。
橋本さんの話を聞いていると、
彼女は恋愛について悩んでいるようだった。
「実はこの年になるまで恋人がいたことがなくて、
しかも異性と関わりがあまりなくて、
自分に自信が持てないんです…」
彼女の悩みは、男性の少ないこの世界ではよくあることなのだろう。
だからといって、人の悩みの重さは人によって違う。
どう返したらいいのだろうか。
「そうなんですね…それはきっと辛いと思います」
「はい…でも霧崎さんは男性だから…」
私はこの世界での男性として生きたことがないので理解しかねる。
理解してうまい言葉をかけてあげたい。
だが、恋人がいたことのない私には難しい。
たいしたことのできない自分に憤りを感じた。
二人して悩んでいると、どうやらクジラの餌やりが始まったようだ。
彼女が座っている場所からは見えないようだった。
橋本さんを見ると、彼女はうつむいている。
その表情は複雑で、暗かった。
私は勇気を出して彼女の手をそっと引いた。
「橋本さん、こっちです」
クジラが餌を食らうために上を向いている姿を彼女に見せた。
「わあ〜すごいです!!」
彼女はそんな見たこともないような、
どこか神秘的な姿にひどく感動しているようだった。
彼女が喜んでいる姿を見て、
何とも言えない達成感が湧いてきた。
だが、問題は何も解決されていない。
時間が解決してくれるような問題でもない。
「……」
橋本さんは胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、
こちらを向いた。
「橋本さん?」
「あの…今日だけでいいので恋人になってもらえませんか?」
「……いいですよ」
無力な私にはこれで精一杯だった。
◇
クジラの水槽の左側のほうにあるエリアに向かった。
そこにあったのはサメがいる水槽と、チンアナゴが見れる水槽だった。
「わ〜かわいいですね」
彼女はこちらを見て、動いているチンアナゴのとりこになっていた。
「あの橋本さん、恋人なら下の名前で呼んでもいいですか?」
「え? い、いいですよ」
「で、では透香さん」
「…っ!」
「ええと?」
「春樹さん…」
彼女は照れて赤くなった顔を隠すようにうつむいた。
その表情は明るかった。
自分の名前を呼ばれただけなのに、
胸が熱くなるのを感じた。
◇
外につながっている通路があり、
そこから外に出て海を見に行った。
透香さんの匂いと潮風を感じた。
「きれいですね!」
「そうですね!」
海は夕焼けに染まり、私たちはオレンジ色に照らされる。
彼女との時間はゆっくりに感じられた。
波の音だけが、二人の間を満たしていた。
彼女が夕日に照らされて美しい。
語彙は消え、彼女との時間に意識が溶けていく。
二人で写真を撮り、二人の時間を楽しんだあと、
お土産を買いに館内に戻った。
そこにはクジラやクラゲ、エイなどのグッズが売られていた。
「いっぱいありますね」
「そうですね…どれにしましょうか…」
彼女はクジラやエイのぬいぐるみに目を奪われていた。
「かわいい〜」
彼女にクジラのぬいぐるみを買ったら、
彼女はすごく喜んでくれた。
「これにしましょう!」
私たちはカバンにつけられるような、
お揃いのクジラのストラップを買った。
照れながらも二人して喜ぶ。
彼女が愛しい。
◇
私たちは水族館を出て、バス停へと向かった。
「今日は楽しかったですね!」
「そうですね〜とても楽しかったです」
「今日は素敵な思い出になると思いますよ」
「そうですね…きっとそうなります」
バス停に着き、バスを待つ。
「そういえば…今日は昨日よりも楽しかったですか?」
「……」
「無理して言わなくていいんですよ?」
「すいません…」
バスに乗り、彼女と話す。
彼女は窓の外を見て感慨にふけっているようすだ。
今日のことを思い出して、記憶に残そうとしているのかもしれない。
「春樹さん…またいつか一緒に出掛けませんか?」
「はい…もちろんです、透香さん」
バスが目的地に着き、一緒に降りた。
今日、出会った場所に戻る。
「今日は素敵な思い出をありがとうございました!」
「こちらこそありがとうございます」
「ではまた明日!」
「はい!」
彼女と別れて帰路に就く。
今日は思い出に残る一日だった。




