99「ただいま、」
寒さの峠を越し、サフィアがかぶれている、もとい好きな東方の国ではあと十日もすれば桜の便りが届くという頃、ノイレンはシェヒルへの帰途についた。当初の予定より半月遅れた。
誰も乗っていない馬車を護衛して馬さんを歩ませている。三匹のわんこたちはキニロサ支部で留守番だ。
「御者と馬車は本部へ返さないとならないからその護衛をよろしくね。それと三支部の監査の報告書、これも父さんに渡して頂戴。いい、先に報告書を渡すのよ。私からの手紙は父さんから『サフィアはどうした?』と聞かれてから渡して。お願いね。」
そう言付かってサフィアからの手紙と監査の報告書、それからナディアからも手紙を預かった。それらをたいそうな革のバッグに入れて馬車に積んである。
「それくらいわたしが背負っていくよ」というノイレンの言葉も聞かず、
「だめよ。こうしたほうがなにかと都合がいいの。まったくの空の馬車では父さんは納得しないわ。」
サフィアは革のバッグが自分の身代わりという体を装わせた。
キニロサからシェヒルまでは馬で五日。王都からキニロサまでと同じ距離だ。
道中ノイレンは宿には泊まらずずっと野宿で過ごした。サフィアから路銀はもらっていたが、必要な分を除いて残りは全部御者の懐にしまわせた。
「私を連れて帰らなかったとして父さんは御者をクビにするかもしれないから、そのときはノイレンよろしくね。父さんをぎゃふんと言わせて。」
なんとも都合の良いことをサフィアは押しつけてきた。だから念のために路銀のほとんどを御者に持たせたのだ。
「見えた。シェヒルだ。」
ノイレンの心は逸った。離れていたのは二ヵ月ほどだが、いろいろありすぎて半年くらい帰っていないような気がしていた。
シェヒルに着くとまっすぐカーツォ商会の本部へ出向いた。出発のときと同じようにカーツォ自ら出迎えに出てきた。マメである。
御者は馬車を降りるとカーツォの顔色を窺うように背中を丸めて挨拶した。
「ただいま戻りました、会長。」
「遅かったな。ご苦労だった。ノイレンも護衛役ご苦労。」
カーツォは二人にねぎらいの言葉をかけて娘の姿を探した。しかしどこにもサフィアの姿がない。それに気づくと二人を睨むように眼光が鋭くなった。
「サフィアはどうした? なぜ馬車に乗っておらん。」
「それですが、会長、」
言いかけた御者をノイレンが制して彼の前に出た。
「その前に監査の報告書を受け取ってくれ。」
馬車から重々しくバッグを取り出すとサフィアに言われたとおりそのまま先に渡した。カーツォはその場で報告書を取り出すとパラパラと軽く目を通しただけですぐにノイレンに視線を戻した。
「これはあとでじっくり精査する。それよりもサフィアに何があったのか聞かせてもらおうか。」
「その中にサフィアからの手紙が入っている。ナディアからのもある。そいつを読んでくれ。わたしから話すよりずっとわかりやすい。」
カーツォはおもむろにバッグの中を漁った。封蝋にサフィアの頭文字が印された手紙を見つけて早速開いた。
「な、なんだと・・・。隊商を三隊も。しかもナディアも賛同しただと? あの聡明なナディアが。なんということだ。」
サフィアからの手紙を食い入るように読んでいたカーツォの手が次第に震えはじめた。手紙を掴む指に力がこもり紙がしわくちゃになってきた。このままでは破いてしまいそうだ。わなわなと震えながらサフィアの手紙を読むカーツォの顔が険しくなってくるのを見て取ったノイレンが一言だけ口にした。
「サフィアは姉ちゃんのナディアと協力してこの商会を今よりももっと大きくしたいんだと。それには『父さんたちとは違うことをしないとならない』って言ってたぜ。」
カーツォは上目遣いにギロリと視線だけノイレンに動かした。
「言いたいことはわかる。サフィアは私の跡継ぎだし、将来的にはあの子の好きにさせるつもりでいる。とはいえ、こんな私を出し抜くようなやり方をするとは・・・。だいたいこの計画はいくらなんでもリスクが高すぎる。商会を潰しかねん。何を考えているんだあの子たちは。」
「いいじゃねえか、やらせてやれよ。失敗したら反省すりゃいいんだ。」
ノイレンがニカっと笑ってそう言うと、カーツォは非常に険しい顔になって怒鳴った。
「ふざけるな! ただの護衛のお前に何が分かる。キニロサ支部が潰れるということはそこに勤める人たちとその家族が全員路頭に迷うということなのだぞ。しかもそれだけに止まらん。キニロサが潰れれば王都やアデナにある支部の売り上げも連動して下がる。私とシャリーがなぜ一番最初にキニロサに支部を築いたのか知りもせんで分かったような口をきくな!」
サフィアからの手紙をくしゃっと鷲掴みにしてカーツォはノイレンに食ってかかった。
「悪かったなただの護衛で。たとえホームレスになったって、歯を食いしばりゃなんとかなるんだぜ。」
ノイレンは自慢げな目でカーツォを見た。
「知った風な口をきくな。ええい、貴様とは話にならん。失せろ!」
「へっ、言われなくても帰るよ。でもな、これからも厄介になるかもしれないぜ。」
「何?」
こちらを睨んでいるカーツォを見てノイレンがニヤリと口角を上げると御者が口を挟んできた。
「あの、会長・・・」
「なんだ!!」
「わたしはこのあとどうすれば・・・」
「任せた仕事を満足にこなせん奴は我が商会にいらん。クビだ。」
「そんな・・・」
「へっ、サフィアの言ってたとおりだな。あんたは御者をクビにするだろうってさ。そんで確か『ケツメドに指でも突っ込まないと分かんない奴』だっけか、そんなことも言ってたよ。なんでも東方のコトワザとかいうらしいぜ。」
「そんな諺があるか。あの子の東方かぶれに影響されおって。」
「へっ、よくわかんないけど、その御者をクビにすんならあんたは分かんない奴ってことだよな。ケツメドってとこに指を突っ込まないと。」
ノイレンはニカっと笑った。カーツォの顔が怒りで真っ赤になった。
「お前にバカにされる謂われはないわ!」
「勘違いすんなよ、わたしじゃなくてあんたの娘のサフィアがそう言ってんだ。」
「ぬぬぬ・・・、わかった。クビは取り消す。しかし閑職に回すからな、覚悟しておけ。」
「会長ぉ・・・」
「失せろ。今はお前の顔は見たくない。」
カーツォは革のバッグを抱えて建物の中に入っていった。
「ナディアの手紙も入ってっからそっちもちゃんと読んでくれよ。」
ノイレンはカーツォの背中に呼びかけると馬さんに乗って本部を後にした。
本来ならばこのあとロンチャウのところへ出向き、依頼が完了した旨を報告、仕事の報酬を受け取るのだが、ノイレンはその前に街外れのあまり人の来ない寂しい場所へ向かった。
「ただいま師匠。今帰ったよ。」
ひっそりと佇むトレランスの小さな墓標の前で膝をついて、ノイレンはそこに眠る彼に静かに語りかけた。
「何から話そうか。やっぱりアデナのことからかな。わたし四年ぶりにアデナに行ってきたよ。そこにさカディンズタバンて酒場があってね、」
午後の陽差しが少し暖かくて心地よい。そよ風がノイレンのポニーテールに戯れていく。穏やかな時が流れた。
ひとしきり今回の旅で起きたことを話したノイレンはその目に迷いの色を浮かべて墓標をじっと見つめた。
「それでね師匠、一つ悩んでるんだ。わたしどうしたらいいと思う?」
ノイレンはふっと空を見上げた。青い空に白い雲がゆっくりと流れていく。風に流されて、丸かった雲がだんだんと細長くたなびいていく。
「ずっとシェヒルにいたい。ここには師匠もみんなもいる。でもサフィアの言うようにいろんな街へ行って、いろんな場所で踊りたいとも思う。隊商とかいうやつの用心棒も面白そう。」
墓標に視線を戻したノイレンは誰にも言わずに抱えていた葛藤を口にした。
「・・・わたしさ、『あなたが必要なの』って言われたんだ。だからできればサフィアの力になりたい。師匠前に言ったよね。わたしの人生を悔いなく精いっぱい生きろって。どうしたら悔いなく精いっぱいになるのかな。」
その時、ごま粒程度の小さな白い羽虫がノイレンの目の前をふわりふわりと円を描いて飛んだ。
『ずっとこの街で過ごすのも、別の世界を見て歩くのもノイレンの自由だ。大切なのは前を向くこと。前を向いて進んでいくこと、前を向いて選ぶことだ。それは全部ノイレンが決めていいんだぞ。』
その小さな白い羽虫がノイレンにそう語りかけてきたように感じた。
「師匠・・・なの?」
『シェヒルはノイレンの家だ。気が向いたらいつでも帰って来ればいい。カバレのみんなも、アニンも家族みたいなもんじゃないか。それに俺は、お父さんなんだろ。親父ってのはデンと構えて娘が帰ってくるのを待ってるもんだ。いつまでも手元に置いていたら、それは親バカなんかじゃない、ただのわがまま親父だ。俺はそんな親父になる気はないぞ。』
「あはは、師匠なら言いそう。」
『だからノイレンがやりたいこと、好きなことを精いっぱい楽しめ。それを楽しむ場所がたとえ世界の果てだろうと、ノイレンが前を向いて生きていればそれでいい。精いっぱいノイレンの人生を楽しめ!』
「師匠、わたし本当にここ以外で生きていっていいの?」
その小さな白い羽虫はノイレンの目の前で二回、上下に円を描いた。まるでノイレンの問いかけにこくんこくんと頷いたみたいに。
ノイレンは目を閉じ、両手を胸に当てて顎を引いた。もし誰かがその場にいたら、ノイレンが墓標に祈りを捧げているように見えたろう。
「ありがとう、師匠。わたし行くね。でも時々帰ってくるから。その時はまた話を聞いて。」
ノイレンは目を開けると墓標を瞼の裏に刻んで立ち上がった。その顔にもう迷いの色はない。ノイレンは空を見上げてにっこり微笑んだ。そのまま墓標にもう一度目を向けた。
「行ってきます。」
ノイレンは馬さんに跨り統括ギルドへ向かった。
統括ギルドのマスター、ロンチャウの執務室。
「ご苦労だった。予定より長くなった分は私が立て替えておく。遠慮なく受け取れ。」
ロンチャウは金貨の代わりに銀貨がぎっしり詰まった袋をドンと机に置いて差し出した。
「こっちのほうがお前も使いやすいだろう。」
「ありがとう。それからこれ。」
ノイレンは報酬を受け取り、代わりにサフィアからの手紙を差し出した。
「私にか?」
ロンチャウはそれを受け取るとノイレンの前で開封した。彼女は最後まで目を通したあと、その細い目の奥を光らせてノイレンを見上げた。
「それでお前はどうするつもりだ?」
「わたしはサフィアの力になりたい。」
「つまり私の下を離れてキニロサに行くと言うのだな?」
ノイレンは口を一文字に結んで力強く頷いた。
「そうか分かった。しかしカーツォにはそれ相応の代償を支払ってもらわんとならんな。私の優秀な駒を奪うというのだからな。」
「え?!」
「ふん、お前が心配することではない。気にするな。それよりもシャルキーは知っているのか?」
ノイレンは首を横に振った。
「ううん、まだ話してない。」
「ならばさっさと行って話せ。私よりも彼女の了承を得るのが先決だ。」
久しぶりのシャルキーズカバレ。まだ開店前の仕込みの時間。
店の裏に馬さんを繋ぐと、少しドキドキしながら裏口のノブに手をかけた。
『前にもこんなことあったな。』
静かにドアを開けてそっと中を覗く。誰もいないことを確認して中へ入っていった。そして店内に通じる扉を開けようとして思い出した。
『そうそう、前はここでドアを開けようとしたらシャルキーと鉢合わせしたんだった。シャルキーたらすごい飛び跳ねてたな。あんときは師匠がヘンな眼帯してたんだよね。』
そんな感慨に耽りながらドアノブを握る手に力を込めると、ノブがひとりでに回ってドアが開いた。
「ひゃあっ!」「うわっ!」
またまたシャルキーと鉢合わせした。今回は二人して三十センチくらい飛び上がった。
着地したあと二人は無言で数瞬見つめあってお互いに赤面した。
「またこの子は、いつもいつもあたしが開けようとすると、驚かして楽しいかい?!」
シャルキーは恥ずかしさをごまかすために怒鳴った。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃ、」
ノイレンがうつむき加減にそう言ったら、シャルキーの腕に包まれた。
「おかえり、ノイレン。」
シャルキーの声がとても優しい。
「ただいま、シャルキー。」
シャルキーの怒鳴り声を聞いたチーフが駆け寄ってきた。
「もしかしたらと思ったらやっぱりそうでしたか。」
チーフも以前のことを思い出したらしい。
「おかえりなさい、ノイレン。」
「ただいま、チーフ。」
シャルキーはノイレンの肩を掴んで腕を伸ばすと彼女の姿を頭のてっぺんから爪先までじっくりと見回した。
「あんたちょっと大きくなったんじゃないかい?」
「そう? 自分じゃわかんないや。」
「私の気のせいかね。」
その日のシャルキーズカバレはいつになく閉店まで盛り上がった。
「ノイレン、ビールおかわりだ!」
「嬢ちゃんこっちに腸詰くれ。」
「ノイちゃん今日は踊らないだにか?」
年末以来数ヵ月ぶりに見るノイレンに、常連たちは浮足立っているようだった。なんとなくそわそわしている。そしていつもより酔いが早い。
「うぉ~い、ノイレン、おかわりまだかぁ?」
「今持ってくよ、待ってろ。」
「ノイレンも腸詰食うか? 食っていいぞ。」
「ありがとう、でもシャルキーに怒られるから気持ちだけ。」
にっこり笑顔であしらい、ビールがなみなみ注がれたジョッキを十個も抱えてテーブルを回っていくノイレン。
「ノイちゃんのダンス見たいだに。」
「あはは、あとで踊るからそれまでお預けだ。」
ニカっと笑ってやり過ごす。
「嬢ちゃん、笑い方がトレランスみたいになってきたな。」
「まじか? なんかやだな。」
「どははは!」
「あっはは、それは言えてるな。」
ひとしきり常連たちの相手をしたあと、ノイレンはシャルキーとユニゾンした。
店内が膨らんだ期待で満たされ、まだ三月だというのに熱気でムンムンしている。演奏係が静かに弦をつま弾き始めた。ランプの光に照らし出されたノイレンとシャルキーの横顔が妖しげな艶をまとって常連たちを虜にする。
一糸乱れぬ二人の舞、二人の動きに合わせて衣装に付いた飾りが揺れる。ノイレンの”しっぽ”が生きているようになびく。シャルキーの綺麗な長い髪もはらりと広がり彼女の艶っぽさを引き立てる。ゆるやかに波打つ動作、滑らかに踊る二人の舞姫は見る者を釘付けにし、まるでステージから飛び出して客席を巡っているかのように錯覚させた。今夜のユニゾンは今までに見た中で一番迫力があった。
緩急をつけた演奏。それに合わせて二人のダンスもたおやかに、妖艶に、その色を変えて迫ってくる。
演奏の終わりとともに二人は横並びに立つと、お互いの手を握り、ともに腰を曲げて挨拶をした。割れんばかりの拍手が店を揺らす。
「なんかオレ、見ちゃいけねえもんを見ちまった気がする。」
「天使か悪魔か。」
「ちょっとわしをつねってくれ。本当にこの世のものだったのか。」
「もう死んでもいいだに。」
そんなことを言う常連もいたとか。ダンスのあとの客席回りではいつも以上に二人の胸が大きく成長した。
「やっぱりあんたとやるユニゾンはいいね。ラクスとじゃこうはいかないんだよね、なぜか。」
「わたしもシャルキーと踊れてよかった。今日のこと一生忘れない。」
「あたしもだよ。あっはっは。」
結局この日はシャルキーに話を切り出すことができなかった。
数ヵ月ぶりにカバレで踊り、自分はダンスが好きだということが心に沁みたノイレンは半分夢見心地でアニンとともに家に帰ってきた。
馬さんを厩に入れると、トレランスが『じゃあノイレン1号だ』と名付けた馬さんが「ぶひひん、ぶひん」とはしゃぎだした。
「馬さん久しぶり。元気してた?」
ノイレンは師匠の馬さんの首筋を優しく撫でて話しかけると、馬さんはその鼻面をノイレンの”しっぽ”に押し付けてぶふぅんと息を吹きかけた。
「うわっ、またやったな! 馬肉にすっぞ。」
ノイレンは自分の”しっぽ”を両手で押さえて睨みつけた。その様子を見ていた自分の馬さんが「ひひ~ん」と面白そうに嘶いた。
「ったく、こいつら絶対中身は人間だろ。」
ノイレンはぷうと頬をリスのように膨らませて二頭の馬さんをジトっと横目に見た。
「ちょっとノイレン、いつまで厩にいるつもりですの? 戸締りできないじゃないの。」
先に家に入ったアニンが玄関から顔を出して催促してきた。
「今行く!」
ノイレンは二頭の馬の頭を左右に抱えて頬に引き寄せた。
「おやすみ。」
「ぶひん。」「ひひん。」
「もう何をしていたのかしら。久しぶりに帰ってきたと思ったら馬の相手ばかり。」
玄関の鍵を閉めながらアニンがぼそっとこぼした。
「あれもしかしておばさん妬いてる?」
ノイレンはいらずらっぽくニヤついてアニンを見た。
「な、なにをバカなことを言っているのかしら。そんなわけないでしょう。私はただ、あなたの手紙に合った酒場のことを聞きたいだけですわ。お店じゃあなた、常連方の相手ばかりでちっとも話してくれないんですもの。」
「酒場? ああ、カディンズタバン。待って、今話す。」
食卓に向かい合って座るとノイレンは手紙には書ききれなかったことを思い出しながらアニンに語って聞かせた。
「そう、バオナーが。お父様はいらっしゃらなかったの? そう。それは残念だけど、でも安心したわ。みんな元気そうで何より。良かった。」
ノイレンの話を聞いたアニンはしんみりと少し寂しそうな色をそのきれいな紫の瞳に浮かべた。
「ありがとう、ノイレン。話を聞かせてくれて。私が言える立場じゃないけれど、ずっと心に引っかかっていたことが取れたわ。これで私はもう何も思い残すことはない。安心して先生のところへ行けますわ。」
アニンは手を胸に当てて目を閉じた。
「ちょっと待って! なんだよ師匠のところへ行くって。ふざけんなよ。そんなことして師匠が喜ぶとでも思ってんのか。」
ノイレンはテーブルをバンと叩き、眉を吊り上げて怒った。
「いやね、今すぐ行くなんて言ってないでしょう。いずれはあなたも私も天に召されますわ。そのときに心残りはないという意味よ。」
アニンはくすっと笑んでノイレンの顔を覗き込んだ。ノイレンは振り上げた拳を下せなくなって恥ずかしくなった。
「そ、それなら、いいけど・・・」
「私も元剣士の端くれよ。いくら先生をお慕い申し上げていても後追いなんてしませんわ。この命が尽きるその時まで先生の安息をお祈り申し上げるのが私の使命。」
この言葉を聞いてノイレンは思い出した。
「そうだ、おばさんに渡したいものがあったんだ。」
「なにかしら?」
「ちょっと待ってて。」
ノイレンはトレランスの部屋へ行き、ごそごそと何かを探して持ってきた。
「これ、おばさんに持っててもらおうと思って。」
ノイレンがアニンに手渡したのは、ノイレンがトレランスに贈ったスターサファイアが柄に嵌め込まれたサーベルだ。
「これ、あなたが先生に贈ったものじゃないの。」
「うん、だけどこれからはおばさんに持っていてもらいたいんだ。」
「どういう風の吹きまわしかしら?」
「おばさんも知ってのとおり、サーベルは片手で扱う。だから今のおばさんでも十分に使いこなせるよ。」
「そうは言っても私はロングソードしか扱ったことないわ。」
「大丈夫わたしが教えてやるよ。おばさんほどの腕があればすぐに上達するって。」
「でも私はとうに剣を捨てた身。今更剣士に戻る気はありませんわ。」
「別に剣士に戻れってんじゃない。自分を守るために持っていてほしい。」
「どういう意味ですの? あなた何か隠しているわね。」
アニンはキリっと目の表情を変えるとノイレンの心の内を探るような視線を向けてきた。
「実は、」
ノイレンはシャルキーよりも先にアニンにキニロサへ移住することを告げた。
「そういうことでしたの。もう先に言ってくださいな。最初にそう言ってくれていれば、先生のサーベルを素直に受け取りましたのに。」
「ごめん。」
「なにも謝ることはないですわ。わかりました。あなたに心配されたままじゃ私も寝覚めが悪いですもの、サーベルを使えるように訓練しますわ。」
「じゃ、さっそく明日からやろう。」
「ええ、よろしく頼みますわ。ノイレン先生。」
「え、ちょ、待って、それはやめて。おばさんにそんなこと言われるとなんかむずむずする、あのあたりが。」
ノイレンは腰を浮かしておしりを振った。アニンは眉を吊り上げながら頬を赤らめた。
「はしたないですわ! おやめなさい。」
カバレの常連がよく言う「ケツがむず痒くなる」を実感したノイレンだった。
次回予告
懐かしき面々に帰郷の挨拶をするノイレン。その言葉の裏には別れが隠されていた。関わりを持ってくれた人々にそれぞれのやり方でノイレンは別れを告げる。シェヒルに来てからトレランス以外で一番世話になったシャルキーにもきちんと心を伝えることができた。そしてシャルキーはノイレンの送別会ではなく壮行会を催した。
君は彼女の生き様を見届けられるか。
次回第百話『あんたも行っちまうのかい。』




