94「何度でもこてんぱんにしてやるよ。」
24年前、アヒラという娼婦が女の子を産んだ。
「アヒラよくやった! とても元気のいい女の子だぞ。ほら。」
汗だくになり放心状態でベッドに横たわっているアヒラは、赤子の父となった男に抱きかかえられた我が子が大きな声で元気に泣いているのを見て充足感に包まれた。
「あはは、大きな声だ。女にしておくのがもったいないくらいだ。あははは。」
父となった男はこぼれるほどの笑みを浮かべて生まれたばかりの我が子を慈しんだ。
「おおお、そうかそうか、お母さんの所へ行きたいか。」
自分の腕の中で元気よく泣く赤ちゃんがその小さい腕を動かしているのを見て、ベッドに横たわるアヒラの枕元に赤ちゃんをそっと添わせた。
「ほらお前も手を握ってあげなさい。」
男はアヒラの手を取り赤ちゃんの小さな手を握らせた。すると赤ちゃんは母親であるアヒラの人差し指をぎゅっと握り返した。アヒラはにっこりと微笑み赤ちゃんを見つめた。男はその光景をほほえましく眺め、うんうんと頷いている。そして両手のこぶしを小脇で握った。
「よし決めたぞ! この子の名前はナディアだ。どうだいい名前だろう。お前はどう思う?」
男はアヒラの反応を窺った。アヒラはにっこり微笑んで頷いた。男はまだ柔らかい赤ちゃんの頭をそっと撫でるように包み込んで何度も名前を呼んだ。
「ナディア、お前はナディアだぞ。ナディア。ナディア。」
それから一年。乳離れしたナディアは母のアヒラの元から引き離された。
「どういうこと? もうこの子に会っちゃいけないって、そんなこと聞いてない。」
「この子は私の後継ぎとして、これからは妻のシャリーに育てさせる。今のうちから商人としての才を磨くんだ。そういう約束だっただろう。」
「それは分かってる。でも今後一切子供に会っちゃいけないなんて、そんなことまでうちは約束してない! この子の母親はうちなのよ。」
「人の上に立つ商人になるにはそれなりの礼儀作法や教養を身に付けねばならない。それなのにそれがまるっきりないお前がいつまでも関わっていたらナディアにとって良くないことくらい分かるだろう。この子は私の後継ぎだ。カーツォの子として立派に育ってもらわねばならん。」
「そんな、」
「それにナディアが乳離れした今お前には仕事に復帰してもらう。」
「何よそれ。うちを身請けしておいて何を言ってるの?」
「私がいつお前を身請けしたというんだ。勘違いするな。娼婦にとって身籠っている間は仕事にならんし、赤ん坊には母親の乳が必要だ。だからその間は責任を取って面倒を見たまでだ。遣手婆にも初めからそう話をつけてある。」
「酷い、うちを騙したのね!」
「どこがだ? お前は娼婦だ。金で買われる女だろう。私はあとくされが面倒だから金で解決できる娼婦のお前を選んだんだ。そうでないと妻のシャリーが嫉妬してうるさいからな。」
アヒラは絶句した。目の前にいるこの男が初めて娼館にやって来たときは儚げで、悲嘆にくれる一面を垣間見せていたというのに。
約二年前、子ができないことが理由で妻との仲が冷えたカーツォは精神的に参っていた。その心の渇きと飢えを癒すために別の女の胸を求め娼館に足を運ぶようになっていた。
「すまないな。何の関係もない君にこんな話をして。でも私には安らぎが必要なんだ。」
「うちでいいならいくらでも癒してあげる。さ、来て。」
アヒラはカーツォの手を取り両手で優しく包み込むとそのまま自分の胸へ誘った。アヒラの女性のシンボルはふくよかで、温かく、柔らかかった。カーツォはそこに顔を埋め束の間の安息を得た。何度かアヒラを買っているうちにカーツォは名案を思い浮かぶ。
「もし君さえよかったら私の子を産んでくれないか。私には子供がいない。どうしても後継ぎが欲しいんだ。アヒラ、君に私の子を産んでもらいたい。」
金で買われる娼婦とはいえ、足しげく指名して通い、ほかの女には目もくれない客であれば情も湧く。
「でも、うちは・・・」
「大丈夫。私が面倒を見る。遣手婆には私から話を通すよ。」
「嬉しい。」
子を取り上げられ、再び娼婦として客を取って暮らせと突き放されたアヒラは恨めしそうにカーツォを睨んだ。
「初めから子供だけが目的でうちを騙してたのね。」
「騙してなどいない。お前の胸で癒されたのは本当だ。だがそれとナディアのことは別の話だ。」
「なんて酷い人。」
「なんとでも言うがいい。所詮お前は娼婦だ。今やキニロサに支部を構えるまでになった私の妻になれるわけがないだろう。そもそも私にはシャリーがいる。彼女は子が出来ないことを除けば私の大切な相棒だ。シャリーを失う人生など考えられん。カーツォ商会を今より大きくするためにもなくてはならない存在だ。」
「人でなし!!」
アヒラは精一杯の声を吐き出して涙をこぼした。
かくしてナディアはカーツォ夫妻のもとで育てられることになった。まだ一歳程度だったナディアはすぐにその環境に慣れた。それから二年。3歳になったナディアはまだ幼いとはいえ利発な面も見えてきた。
「じゃあナディア、もう一度最初から読んでみましょう。」
何度試しても子のできないシャリーはナディアを可愛がった。子煩悩と言ってもいいほどにナディアを慈しみ、愛情を注いだ。そしてそれと同じだけ幼いうちから読み書き計算を叩き込んだ。
「いち、に、さん、・・・じぃ、」
「違うわ、”よん”でしょ。はい、もう一回。」
「いち、に、さん、よん、ごぉ、」
「よくできました。あなた本当に賢いわね。」
「えへへ。」
読み書き計算のほか、おままごとのお店屋さんごっこのように遊びながら商売の基本も自然と身につけさせられたナディアは、5歳になる頃には周囲の大人たちがその将来を有望視するほどの片鱗を見せ始めた。しかしその矢先青天の霹靂がナディアを襲った。
オギャア、オギャア、オギャア
ナディアを我が子として育てるシャリーはどうしても自分の子が欲しくなった。そして数年ぶりに夫を求めた結果奇跡的にサフィアを身籠った。以前は何を試しても全く結果が伴わなくて夫婦仲まで悪くなったというのにだ。
「よし、この子の名前はサフィアにしよう。どうだ? ナディアと音が似ているだろう。きっと仲の良い姉妹になるぞ。」
カーツォはそう言って二人目の跡継ぎができたことをとても喜んだ。
「いい名前ね。サフィア。ナディアよりも上品な響きだわ。」
シャリーは夫以上に嬉しかった。自分がおなかを痛めて産んだ子だ。しかも子ができないことで、夫婦仲が冷めるほどに自分を責め、夫を責めたこともある。そして一度は諦めた。その過程があったからなおさらに嬉しかった。だから当然のようにシャリーの視界からナディアが消されていった。
「私とあなたの子ならナディアよりも才覚があるに決まってる。だって素地が違いすぎるもの。後継はサフィアにしましょう。」
「そうだな。ナディアにはサフィアのサポートをしてもらうか。」
そんな親たちの思惑など知る由もないナディアは初めての妹ができたと心から喜び、養母のシャリーとともにサフィアの面倒をよく見た。
「おね~、おね~。」
サフィアがその人生で最初に発した言葉。そろそろ一歳になるという誕生日が近づいたある日のことだった。
「サフィア、お姉ちゃんだよ~。」と、何度も繰り返し聞かせていたためだろう、最初に発した言葉がそれだった。しかしそれがナディアの運命をさらに狂わせた。
「悔しい。なんで最初の言葉が”お母さん”じゃないのよ。ナディアめ、妹を可愛がる振りをして実はサフィアを手懐けていたのね。」
サフィアと遊ぶナディアを横目にシャリーは眉間にしわを寄せてそうなじった。
「シャリー、何バカなことを言ってるんだ。ナディアはまだ6歳だぞ。いくら利発だといってもそんなことをできる歳ではない。」
夫のカーツォは疑心暗鬼に走る妻のシャリーをなだめるが焼け石に水だった。
「いいえ、ナディアには一歳の時から私が様々なことを仕込んできたのよ。だから私には分かるわ。あの子は危険よ。このままにしておいたら将来サフィアを蹴落としかねない。」
「シャリー・・・」
それからというもの、シャリーは何かにつけナディアを虐げるようになった。夫のカーツォには分からないように。
それから一年。ナディアが7歳、サフィアが2歳になったとき、カーツォはようやく気づいた。
「ただいま、ナディア、サフィア今帰ったよ。さあお父さんに可愛い笑顔を見せておくれ。」
「パパ、お帰りなさい。」
二人の娘を抱きとめようと腕を広げてしゃがみ待ち構えている父のもとへサフィアが2歳にしてはよく回るしゃべり方で駆けてきた。
「あはは、サフィアが一番乗りか。よしよし、いい子にしてたか?」
「うん!」
カーツォはサフィアを抱きしめると頬にキスをした。
「パパ、ほっぺ痛い。」
キスをしたとき少し伸びてきたヒゲがジョリっとサフィアの頬を引っかいたらしい。
「ごめんごめん。」
そう言いながらもカーツォは目がなくなるほど細めて笑い、サフィアをもう一度抱きしめた。
「さあ次はお姉ちゃんの番だ。ん? ナディアはどうした?」
そこにナディアの姿がない。カーツォはサフィアの顔を見た。
「お姉ちゃん、お部屋にいる。出てこないの。」
「具合でも悪いのかい?」
「わかんない。」
サフィアはあどけなく教えた。
「ナディア、私だ、入るぞ。」
カーツォはナディアの部屋へ行くとドアをノックして開けた。
「ナディア。」
部屋の片隅で膝を抱えて床に座っていたナディアは父が入ってきたことでビクっと体を震わせた。
「どうしたナディア。具合でも悪いのか?」
ナディアは何も答えない。首を縦にも横にも振ることさえしない。ただじっと固まっている。
「ナディア?」
カーツォはナディアの目の前にしゃがんで彼女の顔を覗き込み、その肩に手を置いた。
「!!」
ナディアはさっきよりもひどく体をびくつかせると父の手を力の限りに払い退けた。彼女の目は怯えきっている。
「どうしたナディア、なにがあった?!」
愛娘の惨状に心を痛めたカーツォはナディアを抱きしめようと手を伸ばして気が付いた。よく見るとナディアの顔が腫れているようだ。それに服の襟元には血が付いている。しかも上着の袖が縫い目から破れていてその下に覗く腕にアザが見えた。
「誰にやられた? ナディア教えなさい。」
カーツォは床に両手をつくとナディアの顔を覗き込み、怒りを抑えながら訊いた。しかしナディアはぶるぶると震えるだけで何も言わない。カーツォは部屋の中を見回した。けれども証拠になりそうなものは何も見つからない。
「何があったというんだ。」
カーツォは立ち上がった。そのときドアの陰からサフィアがこちらを覗き込んでいることに気づいた。カーツォはサフィアのもとへいくとしゃがんで目線を合わせて訊いた。
「サフィア、何か知ってるかい? 誰がお姉ちゃんを傷つけたのか。」
サフィアはおどおどしながら答えた。
「あのね、お昼にね、ママがご飯を作ってるときにね、お姉ちゃんと一緒につまみ食いしちゃったの。そしたらママものすごく怒ったの。」
サフィアの大きな目に涙が込み上げてきた。
「それは二人がいけないな。ママは一生懸命ご飯を作ってくれているんだ。それをつまみ食いするのはよくないぞ。」
「うん。」
サフィアはうつむいて黙ってしまった。
「ちゃんとごめんなさいは言ったか?」
サフィアは大きくうなずいた。
「でも、」
「でも、どうした?」
「ごめんなさいしたのに、ごめんなさいって言ったのに、ママ、お姉ちゃんを・・・」
「なんだと・・・?」
カーツォは振り返ってナディアを見た。膝を抱え、怯えきった蒼白な顔でじっと固まっている娘を。
その後激しい夫婦喧嘩があったことは言うまでもない。
「ごめんなさい、私もついカっとしてしまって。気づいたら手を上げてたわ。」
シャリーは反省しているふりをして夫の追求をかわそうと試みた。
「ナディアのあの様子、思わず手を上げた程度じゃないぞ。いったいどうすればあの子があんなになるんだ!」
カーツォはなおも妻に詰め寄った。するとシャリーは本音を吐露した。
「ナディアが悪いのよ! サフィアをそそのかしてつまみ食いさせたに決まってる。」
「ナディアがそう言ったのか?」
「いいえ。でも分かるわ。ナディアはそういう子よ。このまま(サフィアと)一緒にいさせてはサフィアまで悪い子になってしまうわ。」
「何を決めつけてるんだ。シャリー、お前らしくもない。いつもの冷静で的確な状況判断はどうした?」
「私は冷静よ。冷静だからナディアを危険だと言ってるのよ!」
カーツォはそれ以上詰め寄るのをやめた。妻がいつもの冷静さを失っているのが手に取るように分かったからだ。
「シャリー、ナディアも私の子だ。二人とも大切な子どもだ。」
「ええ、ええ、そうでしょうよ。でも私にとってはサフィアだけ! ナディアは薄汚い娼婦に産ませた子じゃないの!」
シャリーは自分のおなかを痛めた我が子かわいさに、サフィアが生まれる前はあれほど可愛がっていたナディアを敵視するようになっていた。
「お前というやつは・・・」
カーツォにはもう繋ぐ言葉がなかった。
現在。
キニロサ支部の中庭。ナディアは壁に背をもたれかけて地面に座っている。まだ植木鉢に打ち付けたところが痛むようで右手を頭に添えたまま話していた。
「なるほどね。それであんたのお父さんはあんたをキニロサに寄こしたってわけか。」
「そうだ。あのまま私をシャリーと一緒にしておいたら危ないと判断した父さんが私をここの支部長に預けたんだ。シャリーにしてみりゃ私がカーツォ商会に関わり続けるのは不本意だったろうがな。」
立ち合いに負けたナディアは帳簿をごまかし、資金を着服した理由を説明するのに、その生い立ちを語った。
「それで姉さんここに来たの。私全然知らなかった。」
サフィアは思い詰めた目でナディアを見た。
「知らないんじゃなくて、覚えてないんだろう。お前はまだ2歳だったからな。」
「姉さんが突然いなくなったから私とても寂しくて泣いたのは覚えてるよ。」
ナディアは複雑な色を浮かべた目でサフィアを見た。
「へっ、そんくらいのこと、なんだってんだ。」
お互いに見つめあっている姉妹にノイレンがつい口走ってしまった。サフィアの目の色が驚きと怒りに変わった。
「ノイレン!?」
頭を手で押さえたままのナディアはギロリとノイレンを上目遣いに睨んだ。
「お前にあの時の私の絶望や悔しさがわかるものか。サフィアが生まれてからはずっとシャリーにいじめられてきたんだ。知ったふうな口を聞くな。」
「そんなに悔しかったら掴みかかっていきゃよかったじゃん。手足を縛られてたわけじゃないだろ。」
ナディアはふんと顔を背けた。
「ノイレン、ちょっと酷いわ。姉さんはまだ7歳だったのよ。子どもが大人に勝てるわけないじゃない。」
サフィアは姉を庇い、姉に代わってノイレンを責めた。
「よせサフィア。こいつには何を言っても無駄だ。私らと違ってさぞかし手のつけられない子どもだったのだろう。」
ノイレンはなにか言い返そうとナディアを見下ろしたが、そこで出かけた言葉を飲み込んだ。
「・・・・・・」
サフィアはノイレンの前に立つと彼女の目をまっすぐに見つめた。
「あなたがどんな子どもだったか知らないけど、今のあなたは私にとって大切な相棒よ。姉さんとも仲良くして頂戴。お願い。」
サフィアが静かに怒っていた。こんな彼女を見るのは初めてだ。自分を見つめるその目に有無を言わさぬ圧が籠っていた。
「・・・悪かったな。」
ノイレンはポツリとそれだけ口にした。
「それで姉さん。姉さんは母さんに虐待されたのを恨んで、復讐のために支部を乗っ取るというの?」
サフィアはしゃがんでナディアの目を見つめるとズバリ尋ねた。ナディアは眉一つ動かさずサフィアを見ている。ナディアが口を開く前にノイレンがその沈黙をぶち壊した。
「帳簿をごまかすと復讐できるのか?」
ノイレンには公金横領による支部乗っ取りと養母への復讐がどう繋がるのかよくわからなかった。ま、いつものことだ。勢いを削がれたサフィアはがくんと首を折って深くため息を吐いた。
「あなたはホント、そういうことにはからっきしね。直感は鋭いくせに。」
「悪かったな。」
ノイレンはぷうと頬をリスのように膨らませた。
「さすがサフィアだ。お前はその黒髪とは違うな。」
ノイレンは頬を膨らませたままナディアを睨んだ。
「お前もフグになるくらいならもっと裏を読む感覚を磨くことだな。そんなことでは妹の相棒失格だ。素人にも足をすくわれるぞ。」
そんなことを言われてノイレンの頬はさらに膨らんだ。
その日の夜ノイレンとサフィアは支部の近くにある東方料理を出す店にいた。
「いい匂いだな。ああ腹へった。」
「姉さん、母さんにいじめられていたなんて私なんにも知らなかった。」
「早くこないかな。」
「でも思い返してみれば、心当たりがある。母さん、姉さんがいなくなったあとも何かにつけ姉さんのこと酷く言っていたもの。」
「おおっ来た来た、カレー。う〜ん美味そうな匂いだ。いただきます! 熱っ!」
料理の熱さも確かめずスプーンに山盛りにすくったカレーをいきなり頬張ったものだから、吐き出しそうになって、ノイレンは両手を口に当て悶絶した。
「ちょっとさっきから私の話まるっきり無視してなんなのよ!」
サフィアは深刻な顔色で心情を吐露しているというのにノイレンは喜劇のパフォーマンスのようにその場で首を振っている。
口に入れた熱々のカレーをようやく飲み込み、ビールを流し込んで口内の火事を鎮めたノイレンはやっとサフィアの会話相手になった。
「だってナディアがサフィアのお母さんを憎む気持ちはわかるからさ。ま、お父さんがまともなだけずっとマシだけど。」
「父さんがまともってどういう意味?」
「ま、それはいいや。」
「よくない。きちんと答えて。」
ノイレンは詰め寄るサフィアをまた無視した。
「それにナディアだってもう支部乗っ取りはやめるんじゃないかな。」
「どうしてそう思うの?」
「だってあれだけこてんぱんにされたんだぜ。わたしがソフィアと一緒にいる限り何もしようとは思わないでしょ。」
サフィアは思い出した。ナディアが昔話をし終えた直後再びノイレンに襲いかかったことを。
ノイレンがフグとバカにされてさらに頬を膨らませてナディアを睨んでいたとき、ナディアがいきなり地を這うような水平蹴りでノイレンの足をすくった。
「うわっ、」
コケたノイレンは受け身を取るが、そこにもう一度ナディアの水平蹴りが襲いかかった。蹴りはノイレンの脇腹に入った。
「ぐほっ、げほっ、」
中庭の地面に転がるノイレンを尻目にナディアは飛び起きると素早く彼女の剣を拾い、今度は斬りかかってきた。ナディアのブロードが上から襲いかかる。ノイレンは咄嗟に剣を抜きそれを迎え打った。そこに左のダガーが音もなく迫る。
ノイレンはうしろに飛び退いてそれを躱し、剣を構えた。
「やってくれんじゃんか。」
「ふん、まだ負けを認めるとは言ってないぞ。生き残っている者が勝利者だ。」
「おもしれえじゃん。何度でもこてんぱんにしてやるよ。」
「その減らず口、へし折ってやるわ。」
ナディアは上体を低くして、両手を斜め下に拡げ、突進してきた。迎え撃つノイレンはまっすぐにナディアの目を見据え、全身で彼女の動きを感じ取る。
ナディアの右手がわずかに動いた。しかしノイレンはブロードではなく左のダガーに向かって剣を振り下ろした。
「なにぃ!?」
ナディアは陽動が機能せずノイレンに真意を読まれたことに驚いた。
勢いよく叩かれたダガーはまたもナディアの手を離れ地面に転がっていく。左腕が痺れた。ナディアはそのままブロードを斜め上に向かって斬り上げたが、ノイレンはひょいとジャンプするとブロードの刀身に背中を添わせ、まるで剣とユニゾンを踊るかのようにバク宙で躱して着地した。
「あんたの目は正直だな。」
ノイレンはナディアの顔めがけて剣を突き出した。それを身体を横にひねって躱し、ブロードをノイレンの腹に向かって突きだしたナディア。ノイレンはつま先立ちの軽やかなステップでブロードをひらりと躱すと踊るようにナディアの周りを動き回って彼女を翻弄した。
「ちっ、すばやい奴。」
ノイレンを正面で捉えようと身体を回転させて追いかけるナディア。しかしノイレンの素早さに弄ばれる。
「ふざけるなっ!」
ナディアはノイレンの動きを止めようとブロードを闇雲に振り回し始めた。
ナディアは目が回ってきた。それにつれて足下がふらつきだす。足がもつれてナディアの動きが止まった瞬間、ノイレンのネオソードがナディアのブロードを叩き落とした。
ダガーと同じように乾いた金属音を立てて中庭の地面に転がるブロードソード。ノイレンはそれを踏みつけて、自分の剣先をナディアの鼻先にぴたっと据えた。
「一本。」
「まだだ、まだ終わらん!」
往生際の悪いナディアは身をかがめるとノイレンの身体に抱き着くように向かってきた。ネオソードの鈍色がナディアの耳元をかすめていく。ナディアはそのままノイレンの身体にしがみついて押し倒そうとしたが、ナディアの両腕は幻を抱きとめた。
ノイレンは高く飛び上がり、空中で体を捻ってナディアの背後に回り込むと、刀身を180度裏返して、裏刃のない峰部分でナディアの右肩をぶっ叩いた。
「がっ!!」
ナディアはその衝撃でガクンと膝を折り、両膝立ちになった。肩の骨が折れたかと思うような重たく鈍い痛みがじんじんとそこから体中に広がっていく。ナディアは体中が痺れたように動けなくなった。
ノイレンは手首をひねり、刀身を左に90度寝かせた。研ぎ澄まされた刃がナディアの首の皮に吸い付いた。
「いいかげんにしろよ。あんたを殺すつもりはないんだ。サフィアにも仲良くしろって言われたしな。」
ナディアは首筋に凍りつくような痛みを感じた。
「殺れ。」
ナディアは全身に広がる重たく鈍い痛みと、首筋に感じる冷たく鋭い痛みに気が遠のきそうになるのを堪えてその言葉を吐いた。
「殺らないよ。」
「私は負けは認めん。殺らないならいつかお前を殺す。」
「そんときはまた戦ってやる。いつでもきやがれ。」
「ふん、殺れるときに殺らないなんて、甘いな黒髪。」
「なんとでも言え。わたしは師匠の教えを守る。」
「師匠の教えだと?」
「殺られる前に殺る。それが師匠の教えだ。」
「なんだ、とどのつまり同じじゃないか。」
ノイレンの脳裏にトレランスの言葉がよみがえっている。飄々としたいつもとは違う真剣な表情で諭した言葉。
『いいかノイレン。殺られる前に殺るのと、殺れるときに殺るのは似ているようで大きく違う。勘違いしないようにな。』
ノイレンはナディアの首筋から剣を離し鞘に納めた。
「全然違うんだよ、勘違いすんな。」
次回予告
ナディアを完膚なきまでに叩きのめしたノイレン。ナディアに支部乗っ取りを諦めさせ、サフィアと仲良くさせるためにはどうすればよいかと考えたノイレンはある計画を立てた。そして二人をうまいこと言いくるめる。それを通してナディアの中に”姉”としての一面がよみがえってくることをノイレンは期待した。
君は彼女の生き様を見届けられるか。
次回第九十五話「なんか私たちノイレンに上手いこと乗せられてない?」




