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ノイレン〜黒の純真  作者: 山田隆晴
第六部『ノイレンの空』

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80/83

80「お父さんとお母さん。」

 朝晩はともすれば寒ささえ感じるようになってきた頃、辺境伯の下へ派遣されていたコージャが帰ってきた。

「お帰りなさい、お父さん!」

 コージャの顔を見るなりアニーは飛びついていった。

「ただいまアニー、いい子にしてたか?」

 出かける前に比べて少しやつれた感のあるコージャはしゃがんで愛娘を抱きしめるとそのいかつい手でアニーの頭を撫でた。

「うん!」

「そうかそうか。」

 コージャは立ち上がってうしろにいるレイトワに視線を向けた。

「お帰りなさい。」

「ただいま。」

 2人とも主従の関係とは思えない声音であいさつを交わした。傍でそれを見ていたノイレンはピンときた。

「こちらのお嬢さんは?」

 コージャがレイトワに訊いた。

「ノイレンよ。ほらロンチャウさんが派遣すると言っていた護衛兼お守り役の。」

「おお、このお嬢さんが。」

 レイトワに紹介されてノイレンはぺこりと会釈した。

「いやあ、私はてっきり、」

「男が来ると思ってたんでしょ。」

 コージャの言葉を遮ってノイレンが彼の言いたいことを代弁した。

「はは、そのとおり。いや、申し訳ない。」

 コージャの顔がにこやかにほころんだ。派遣されたのが女性と知って彼はこの3ヵ月の間心の内に抱えていたことが杞憂だったことを喜んだ。

「いいって、よく言われるから慣れっこだし。」

「お父さん、ノイレンねすごいんだよ。強いし、ダンスも上手いんだ。」

 アニーがコージャの足に抱きついたまま父の顔を見上げて自慢した。コージャはそのいかつい手をアニーの頭に乗せて微笑んだ。

「そうなのか。じゃああとでたっぷり話を聞かせてくれるかい。」

「うん、でもね一緒に走っちゃダメ! 危ないんだから。」

 いまだに根に持っているらしい。ノイレンは冷や汗を垂らして苦笑いしている。

「あはは・・・」

 アニーはずっと父の足にしがみついている。これではコージャはその身体を休めることができない。

「それよりお疲れでしょう。すぐにお湯を沸かしますから荷物を置いて体を拭いてくださいな。アニー手伝って。」

「うん!」

 疲れているコージャを労うためにレイトワがアニーに声をかけると彼女は素直に返事をし、一緒に水を汲みに井戸へ行った。

 コージャはようやく娘が離れてくれたと安堵したのと同時に、アニーの様子にひどく驚いた。目を丸めてノイレンに視線を持っていき質問した。

「あの、アニーはいつから彼女、レイトワと、」

 コージャは驚きのあまり最後まで言葉を続けられなかった。レイトワに出会ってからの数年、ずっと彼が密かに願っていたことが現実になっていたのだ。

「この3ヵ月の間に何があったんですか?」

 コージャの顔にどうにも信じられないといった色がありありと見て取れる。

「わたしがここに来てひと月経つか経たないかくらいの時にちょっと事件があって、それから、です。」

 ノイレンは白豚イケメンの件をコージャに話した。コージャは話を聞いている途中怒りを露わにしたり、結末に安堵したりと表情がころころ変わって忙しかった。

「あの男のことは私も知っています。レイトワを身請け、いや迎えたときにさんざん困らされましたから。だから不安でメルチェリオスさんを通してロンチャウさんに依頼したんです。」

 コージャはとても優しい目になりノイレンを見つめた。

「あなたにはたくさんお世話になりましたね。なんとお礼を言っていいものか、ありがとうございました。」

「いや、それがわたしの仕事だから。気にすん・・・しないでください。」

 ノイレンはコージャが真剣な顔でお礼を述べるものだから恥ずかしくなってきた。まともに彼と目を合わせていられなくなって視線をずらして、頬を赤らめ照れた。

「いいえ! あなたはとても素晴らしい。レイトワと娘を守ってくださっただけじゃなく、彼女たちの仲も取り持ってくれたんです。私がいくらアニーに仲良くするよう言っても全く聞かなかったのに。」

 コージャは今度は嬉しくて泣きそうという表情になってノイレンを見ている。

「こんなに嬉しいことはないです。留守にしている間に私の夢まで叶ってしまった。そうだ、あなたへの報酬を上乗せしましょう。ここまでしていただいて銀貨100枚ではあまりにも安すぎますよね。」

 コージャが手を打ち合わせて提案したがノイレンは首を横に振った。

「約束は銀貨100枚だから、それ以上は貰わないよ。」

「でも、それでは私の気が収まりません。受け取ってもらえませんか。」

 ノイレンは無言で首をもう一度横に振った。コージャは少し考えこんで笑顔になった。

「ではロンチャウさんにあなたのことをたっぷり褒めておきますね。それくらいは許してください。」

 ノイレンは恥ずかしさで引きつった笑顔を作った。

「大きな仕事も決まるし、アニーも彼女と仲良くなったし、ああ、まったく夢のようだ。これでようやく、」

 満面の笑顔で内から湧き出てくる喜びを口にしていたコージャはそこまで言いかけて口をつぐんだ。

「レイトワと結婚するってんでしょ?」

 ノイレンがさらっと口にした。コージャは目を丸め驚きながらも赤面した。

「よ、よくわかりましたね。」

 コージャは頭を掻きながらしどろもどろになって照れ隠しにノイレンからしばし目を逸らした。

「まあね。」

 ノイレンは得意げに人差し指で鼻をさすった。


「お父さんお湯沸いたよ、こっち来て。」

 アニーがドアの向こうからひょこっと顔を出した。コージャはノイレンに会釈するとアニーの待つ庭へ行った。それを見送ったノイレンは自室に戻り荷物をまとめ始めた。

「これでこの仕事も終わりだ。さあ帰ろう。」

 ノイレンの目の前に師匠やカバレのみんなの顔が浮かんできた。わずか3ヵ月だというのにもう半年も一年も会っていないような気がする。

 いそいそとまとめるが荷物といっても小脇に抱えられるくらいの小さい袋が一つだけ。中身も大して入っていない。ノイレンはまとめ終えると庭に出た。

 物干しの近くにコージャたちがいた。彼は上半身裸になり椅子代わりの木箱に座っている。その広い背中をアニーが一生懸命に拭き、レイトワは愛おしそうにコージャの手を取り腕から彼の胸板を拭いていた。時折コージャと目を合わせながらはにかむように微笑みを浮かべて。


「アニー!」

 ノイレンは父の背中を拭いているアニーに声をかけた。彼女が振り向くと手招きした。

「なあに?」

 ノイレンはアニーの耳元でひそひそ。アニーは最後まで聞くと喜びで顔を丸め大きくうなずいた。

「うん!」

 アニーは2人のもとへ戻ると木の棒を使って地面に文字を書き始めた。木箱に座っているコージャはそれを眺めながら訪ねた。

「アニー何を描いてるんだい?」

「まだ内緒。」

 アニーは間違えないよう一心に書いている。すると代わりにレイトワが答えた。

「字を書いてるのよ。」

 コージャは自分の耳を疑った。驚いてレイトワを見上げた。

「字?!」

「そうよ。」

「だって、どうして? 私も君も字なんか知らないじゃないか。」

 レイトワは柔らかいまなざしでコージャを見つめた。

「ノイレンよ。彼女がアニーに教えてくれたの。」

 コージャは木箱に座ったまま身体の向きを変えてノイレンを見た。

「彼女が? レイトワ、ノイレンて何者なんだ?」

「さあ、それは私も知りたいわ。」


「できた!」

 文字を書き終えたアニーは立ち上がると2人に向かって胸を張った。

「アニー、字が書けるようになったんだって? すごいな。」

 コージャは木箱から降り、その場にしゃがんでアニーの書いた文字を見つめた。

「えっへん。」

 アニーは得意げな顔でとっても嬉しそうだ。

「それでなんと書いてある? お父さんに教えてくれ。」

 アニーは人差し指で鼻をさすると一つ一つ説明しだした。

「これはわたしの名前。」

「これアニーと読むのか。」

「そうよ。で、こっちがお父さん。コージャって書いたの。」

 アニーの名前の右隣にコージャの名前が書いてある。

「おお、私の名前はこう書くのか。それじゃこっちのはもしかしてレイトワ?」

 コージャはアニーの名前の左隣にある文字を指さして尋ねた。

「そう、レイトワよ。」

 レイトワはコージャの隣に並ぶと手を膝について(かが)み嬉しそうにそれを見た。だってアニーを挟んで3人で横並びに名前が並んでいるんだもの。

「アニー、これは? 私と旦那様の名前の下にはなんて書いてあるの?」

 コージャとレイトワの名前の下にそれぞれある単語が書かれている。レイトワがそれらを指さして尋ねた。その2つは字面から違うものだということだけは誰の目にもわかった。

「これはね、」

 アニーはちょっと照れくさそうにちらりとコージャとレイトワの二人を見てからコージャの名前の下に書いたものを指さして答えた。

「これは”お父さん”。」

 そしてレイトワの名前の下の言葉を指さした。

「これは”お母さん”。」

 レイトワは両手で口を覆い感動で立ち尽くした。目を大きく見開き今にも涙がこぼれそうなほどにその瞳を潤ませて。コージャも驚いたまなざしで娘を見た。

「アニー。」

 アニーは恥ずかしくて照れながらもにこやかな笑顔を浮かべている。

「お父さんとお母さん。」

 アニーは二人を見て言った。コージャはアニーをしっかと抱きしめた。その上からレイトワが二人を包むように抱きしめた。

 ノイレンは数歩離れたところからそれを見て涙ぐむ。

『よかったね、アニー。』

 ノイレンの心はとても晴れ晴れしていた。そのまま静かにその場を離れると馬を連れに行った。


「さ、わたしたちも帰ろう。師匠やシャルキーたちが待ってるよ。」

 馬さんに話しかけ、その首を優しく撫でた。

「ひひん!」

 馬さんが答えるように(いなな)いた。


「ノイレン!」

 馬の嘶きで気づいたアニーが駆け寄ってきた。

「行っちゃうの?」

「うん。わたしの仕事はもう終わったからね。」

「まだダンス教えてもらってないよ!」

 アニーはぷくうとカエルのように頬を膨らませてノイレンを見上げた。

「それは、アニーがもっとお姉さんになったら教えてあげる。」

 そう言ってノイレンはその薬指の長い手をアニーの頭にぽんと乗せた。アニーは頬を膨らませたままカァァと顔を赤らめた。

「あはは、じゃあね、カエルタコちゃん。」

 ノイレンは馬に跨がった。

「違うもん!」

 アニーは背をそらして馬上のノイレンを見上げて大きく頬を膨らませ、顔を赤くして叫んだ。

 ノイレンはコージャとレイトワに手を振って帰途に就いた。


 ここからトレランスの家までは自分の足で歩いても2時間ほどで行ける。3ヵ月の間に顔を出しに行こうと思えばいくらでも行けたが、それをしてしまうと自分ひとりに任された仕事がぐずぐずになりそうで一度も帰っていない。帰らないだけでなく毎朝の走り込みでも近くへ行くことさえしなかった。

 自分ひとりの力だけで最後までやり遂げなければ「師匠に自慢できないじゃん」と思ったし、師匠ならまず間違いなく『なんだノイレン。もう帰ってきたのか。さては怖じ気づいたな』とバカにしたようにニカっと笑うはず。そんなことはノイレンには耐えられない屈辱だ。想像するだけでその負けん気に火が付く。


「みんな元気かな。あの大工のおっさん、わたしに会ったこと話してるかな。」

 空気が澄んで遠くまで見渡せる青空を眺めながらそんなことを考えた。

「この時間じゃ家に行っても誰もいないし、お店に行ってみっか。」

 自然とシャルキーズカバレへ向かった。アニー親子に()てられたせいもあって、ノイレンは少しでも早く自分を受け入れてくれる誰かに会いたかった。


 通りの向こうにシャルキーズカバレの建物が見えてきたとき、ノイレンの心は沸き立った。心臓が早鐘のように鼓動するのを感じた。カバレの佇まいを見た時ノイレンの胸を占めた思いはそれだけ深かった。

 ノイレンは(はや)る気持ちを抑えつけて店の裏に馬をつなぎ、裏口からそっと中へ入っていく。この時間なら仕込みをしている最中だ。トレランスが来るまでまだ少し時間がある。

 ドキドキしながら奥の部屋を覗く。中には誰もいない。

『そっかわたしがいないからシャルキーがお店の掃除とかしてんだな。』

 すべてのテーブルを布巾で拭いて回っている彼女の姿を思い浮かべながら店内に通じるドアを開けて覗き込んだ。案の定シャルキーはテーブルを拭いていた。彼女のその存在を認めた途端走り出したくなったのを我慢してノイレンはトコトコと近づいていった。胸に手を当てて気持ちを落ち着けながら。


「ノイレン!」

 近づいてくる彼女に気付いたシャルキーが嬉しそうに声をかけた。その声を聞いて厨房からチーフも顔を出した。

「ただいま。今日で仕事終わったから帰ってきた。」

 ノイレンはあえて平静を装っているが、その顔はとても嬉しそうだ。

「おかえり。で、家にはもう行ってきたんだろうね。」

「ううん。(うち)には誰もいない時間だから直接こっちに来た。」

「なんだって、それじゃ早く家に帰んな。」

 久しぶりにノイレンに会えて嬉しいはずのシャルキーがなぜかそんなことを言ってきたからノイレンは不思議に思った。

「なんで? この時間じゃ師匠もアニン(おばさん)もいないよ。」

「行けばわかるさ。早く。」

「う、うん。じゃあ行ってくる。」

 ノイレンは追い出されるようにカバレを出た。


『シャルキーのあの感じ、なんだろう、師匠かアニン(おばさん)に何かあった? 大したことじゃないといいけど。』

 馬を走らせながらノイレンはあれこれと想像をめぐらす。あのシャルキーが追い出すようなことをしたのだ、なにかあったのは間違いない。幸いなのはノイレンの胸にはまだ嫌な感覚は湧いてきていない。それだけが救いだった。


 懐かしいトレランスの家が見えてきた。わずか3ヵ月なのにとても懐かしい。ノイレンは改めてこの場所に、ここにいる人々に愛着を抱いていることを実感した。

 敷地の中へ入ると馬から飛び降りて玄関へ走る。馬さんは賢いもので自分で厩に向かっていった。

「ただいま! 師匠、おばさん、誰かいる?」

 玄関を開けるなり大きな声で中に呼び掛けた。すると廊下の向こうからアニンが駆けてきた。

「ノイレン! 帰ったのね。」

 アニンが憎まれ口も叩かず出迎えた。まるでノイレンの帰りを待ち望んでいたかのようだ。ノイレンにしてみれば『なんですの、せっかく先生と二人っきりを楽しんでいたのに。帰ってくるのはもっと遅くていいのよ。』とか言われるんだろうなと思っていたから、彼女の意外過ぎる態度にノイレンは一気に不安になった。それまで欠片も湧いてこなかった嫌な感覚がぶわぁっと心の中に溢れてきた。

「こっちに来て。」

 アニンに言われるままトレランスの部屋へ入ったノイレンは愕然とした。

「ノイレン、おかえり。」

 そこにはベッドに横たわるトレランスが。飄々としたその顔に翳りがあり、頬が少しコケているのをノイレンは見逃さなかった。

「師匠どうしたの?!」

 思わず大きな声を出してしまった。慌てて枕元に駆け寄るとトレランスの顔を覗きこんだ。

「いやあ、大したことはない、あはは。」

 トレランスは上体を起こそうとして頭を押さえた。

「先生無理なさらないで。ドクターからあまり動かないようにって言われてるじゃありませんか。」

 アニンはトレランスを支えて寝かせると、その指が細く長い綺麗な手で彼の頭を包み込むようにしてそっと枕に沈めた。

 ノイレンの心に黒い霧が立ちこめてきた。

「師匠、病気・・・なの?」

 ノイレンは茫然と立ち尽くしたまま、少し頬のコケたトレランスの顔を見ていた。黒い霧の粒子一粒一粒が悲しみで構成されていく。ノイレンは足が震えてきた。何かに掴まらないとまともに立っていられないくらいに世界が揺れ始めた。

「ノイレン、ちょっといい?」

 ノイレンのその様子を察したアニンが彼女の背に手を当ててドアの外へ連れていき事の次第を話した。


 膝から脇腹へ上がってきた痛みが、ノイレンが留守にしている間に胸に上がってきてトレランスの身体を蝕んだ。ドクターから以前のように動き回ることを禁止されてしまい一日の大半をベッドの上で過ごすようになっていた。そしてその痛みは少し前から頭に移っている。そのせいだろう時折言動もおかしくなっていた。

「そ、そんな・・・」

 話の最後にアニンの口から出てきた決してあり得るわけがないはずの言葉、想像するなんて露ほどもできない事実にノイレンは体中が痺れた。まるで脳天から稲妻で貫かれたような衝撃。

「師匠が死ぬ?!」

次回予告

「家族」というものを自身の中にも実感したノイレン。単独での初仕事を終え懐かしい”我が家”に戻ってきたノイレンを待ち受けていた悲しく過酷な現実。最期の時を悟ったトレランスはネオソードとともにその使い手に連綿と受け継がれてきた言葉を、自身の師から受けた言葉を思い出しながら愛弟子に授けた。

君は彼女の生き様を見届けられるか。

次回第八十一話「最期に笑って死ねるように。」

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