109「一つお願いがあるんだけど。」
五月。二人の掃除屋たちの一件から半月ほど経ち、新緑の季節に移ろっていた。
体の傷がすっかり癒えたノイレンは支部の中庭の隅で膝立ちになり、胸に両手を当てて祈りを捧げている。
そこにはナディアの粋な計らいで、ノイレンを守って犠牲になった二匹のわんこたちの亡骸が埋葬されていた。この時代貴族でもなければペットが亡くなったあとは毛皮を素材として売り、残りはゴミ捨て場に放るのが一般的だった。
ノイレンは目を閉じて二匹のわんこたちが虹の橋で元気に遊んでいることをひたすらに願った。
『わたしがそっちに行くまで元気に過ごしてて。』
ノイレンは立ち上がるとカーツォ姉妹の執務室へ向かった。
執務室にやってきたノイレンはサフィアの顔色を伺い、申し訳なさそうに訊いた。あの一件でサフィアが受けた心の傷はまだ膿んだまま。一向に元気にならない。
「サフィア、申し訳ないけど、三週間近く留守にしたい。大丈夫か?」
膿んだ心で仕事に身が入らず、消え入りそうな瞳のサフィアはおもむろに顔を上げて呟くように訊き返した。
「どこへ行くの?」
「シェヒルにいる武具職人のところだ。わたしの怪我も治ったから、剣を直してもらいに行きたくて。」
一刻も早く剣を直したくてこの半月いてもたってもいられず、ノイレンは歯がゆい思いを抱えていた。
「この街の職人じゃダメなの?」
「師匠から貰った大事な剣だから、近衛師団御用達品質で打ってもらいたくてさ。」
「それなら商会でも扱ってるじゃない。好きなのあげるわよ。」
「ごめん。こいつはそこらのサーベルより剣身が長いんだよ。既製品じゃ柄とのバランスが取れねえ。やっぱりちゃんと作ってもらわないとなんないんだ。」
ノイレンは腰に提げているネオソードの柄に手を当てて訴えた。
「そうなの。仕方ないわね。」
理解があるような受け答えをしているが、サフィアは心ここに在らずといった感じでその瞳にあまり生気がない。
「ごめんサフィア。出来るだけ早く帰ってくっから。」
ニカっと笑って早速出かけようとしたノイレンをサフィアは呼び止めた。
「待って、父さんに手紙を書くから、ついでに持って行って頂戴。」
ノイレンは渋い顔をした。
「サフィア、気持ちはわかるけど、手紙を書いたって意味ないぜ。(掃除屋の)あいつらから連絡がなけりゃまた別のやつを雇うだけだろうさ。そう簡単に諦めるとは思えねえ。」
「そうだな、私も黒髪に同意見だ。」
黙って聞いていたナディアが横から口を挟んできた。
「だから手紙を書くの。もう私たちに構わないでって。」
二人に意味ないと言われサフィアはムキになった。
「それで聞き入れるくらいなら、去年ここで話した時にわかってもらえてるだろう。そもそも先日の掃除屋たちだって、会長の差金に間違いはないだろうが、証拠は何もないんだぞ。しらを切られたらそれまでだ。そうしたらどうするんだ?」
ナディアに追い打ちをかけられたサフィアは黙って立ち上がると、ナディアのうしろにあるハンガーのところへ行き、そこに掛けてある彼女のダガーを抜いた。
「何をする気だ?」
ナディアが身構えて訊くとサフィアはダガーを自分の首に近づけた。
「やめろサフィア!」
ノイレンとナディアは同時に駆け寄った。けれどもサフィアは手を止めない。うなじのところで束ねてある髪を掴み一気にダガーを引いた。
彼女の亜麻色の髪がバッサリ斬り落とされた。
「サフィア!?」
ナディアとノイレンは呆気に取られて同時に叫んだ。しかし当のサフィアは気にする様子もなく、ダガーを鞘にしまうと生気のない目で微笑んだ。
「この髪を一緒に届けて。そしてサフィアはノイレンと間違われて死んだって伝えて。そうすれば父さんだって諦めるわ。」
「しっかりしろサフィア、お前の手紙と一緒じゃウソだというのがすぐにわかってしまうだろ。」
「あ、そっか。じゃあ姉さん書いてよ。」
ナディアはおでこに手を当てて呆れた。
「あのなあサフィア。お前が死んだと伝えたら会長はすぐにも飛んでくるぞ。」
「そのときは帰るまで隠れてるわ。」
「お前の墓へ連れて行けと騒ぐだろうな。どうするんだ?」
サフィアはノイレンを見た。
「ノイレン、絶対内緒ってことにしてね。」
ノイレンは肩をすくめた。
「サフィア、そんなのすぐにバレるし、どのみちわたしは狙われる。だったらそんな面倒なことしたって意味ないだろ。」
サフィアは心が疲弊しすぎていつもの知恵が回らない。切り落とした髪を手に持ったままぼーっとそれを見つめた。
「わかった、わかったよ。その髪は親父さんに届けてやるよ。ただし、死んだってのは無しな。」
ノイレンは致し方なくサフィアの頼みを聞くことにした。
「待て二人とも、いいことを思いついたぞ。」
ナディアは顎に手を当ててなにやらにんまりしだした。
「サフィア私の言うとおりに手紙を書け。あの会長とシャリーなら間違いなく謀れる。掃除屋の問題も片付くぞ。一石二鳥ってやつだ。」
五日後、ノイレンはシェヒルに帰ってきた。
ノイレンはその足でまっすぐ武具屋に向かった。トレランスに贈ったサーベルを作ってもらった店。最初は辺境伯の御用も務めたコージャに打ってもらいたいと思ったが、あそこに行けば間違いなくアニーがダンスを教えろとせがんでくる。レイトワの手前それは避けたかった。
「こんにちは、おやっさんいる?」
ノイレンが声をかけながら中へ入っていくと、奥の工房から店のオヤジが出てきた。以前は”おじさん”と呼んでいたのにいつの間にか”おやっさん”呼ばわりになっている。ノイレンにとってはこのほうが親しみがあって呼びやすい。
「おやノイレン。久しぶりじゃな。今日はどうした?」
「実はこいつを直してもらいたくて。」
ソードベルトを外して台の上に置いた。オヤジはそっと持ち上げて顔色を変えた。
「こいつは、いったいどういうことじゃ?」
「あは、やっぱりおやっさんにはわかっちまうか。いやあ、こないだ戦ったやつがソードブレイカーの使い手でさ、折られちまった。」
罰が悪そうにノイレンは頭を掻きながら説明した。オヤジは剣を鞘から抜くと残った剣身をじっくりと観察した。
「その使い手、相当な腕だったじゃろ。ここまで綺麗に折るなんざ、そう簡単にはできねえ。」
「そう、なんだ。」
「ああ、ソードブレイカーってな名前は仰々しいが、実際に使うとなると相手の剣を折り曲げるくらいがいいところなんじゃ。ポッキリ折るのは案外難しいんじゃよ。」
「へえ、やっぱおやっさん詳しいね。」
「伊達に武具屋を何十年もやっとらんわい。そのわしから一つ言っておこう。気休めにしかならんだろうが、この剣な、作られてからかなり経っとる。よく今まで折れずに持っていたものじゃ。」
「そうなの?」
「わしのように何百、何千と見てると一目見て分かるようになる。」
「どのくらい前なの?」
「そうじゃな、少なく見積もっても百年近くは経ってるな。トレランスの師匠の師匠の、そのまた師匠くらいの時かもな。」
ノイレンは感慨深げにその剣身を見つめた。師匠の三代以上も前から受け継がれてきたことに思いを馳せると、自分もその一人になれたことを誇らしく思えるし、また、折ってしまったことを申し訳なくも思った。
「で、直してもらいたいんだけど、何日かかる?」
「いやこれは新しく打ったほうがいい。わしが精魂込めた逸品を鍛えてやる。」
「おやっさん、一つお願いがあるんだけど。」
ノイレンは肩にかけていたバッグから布に包まれたものを取り出してオヤジに渡し、願いを伝えるとオヤジは途端に難しい顔になった。
「できるにはできるが、新品と同じ強度を出すには相当手間がかかるぞ。一週間、いや十日は必要じゃな。」
「それでもいい。やってくれ。」
難色を示すオヤジにノイレンは真剣な目を向けて頼み込んだ。オヤジはその目をまっすぐに見つめ返しているうちにノイレンの思いの深さを知ったようで渋い表情がにんまりとしてきた。
「やれやれ、久しぶりにやって来たかと思えば、厄介な仕事を頼みやがる。」
オヤジはぶつぶつと文句を吐いたが、その顔はどこか嬉しそうだ。腕の見せ所だと心が躍りだしたらしい。
「それじゃ頼んだぜおやっさん。」
「ああ、任せてくれ。連絡はカバレでいいんだな?」
「うん、シャルキーかチーフに言付けてくれれば大丈夫。じゃよろしく!」
ノイレンは店を出ると馬さんに跨って空を見上げた。大きく晴れ渡った青い空にニカっと笑うトレランスの顔が浮かんだ。
ノイレンは次にカーツォ商会の本部へ向かった。しかし正面玄関で門前払いを喰らった。
「会長はお会いになりません。お帰りください。」
受付の事務員が伝えた。
「へっ、そんなこと言って、実はわたしが来たから焦ってんだろ。」
「なんのことですか?」
事務員は掃除屋のことは聞かされていない。
「サフィアから預かったものがあるんだよな。『父さんに渡して頂戴』て頼まれてんだよ。」
「それならば、私がお預かりして会長にお渡しいたします。」
「わたしはそれでもいいけど、あんたは『なぜ追い返した』ってとばっちり受けるぞ。それでもいいのか?」
「それは私に仰られても困ります。私は会長のお言葉を伝えただけですので。」
ノイレンはふんとその事務員を一瞥するとサフィアからの荷物をその人の手にボンと乗せた。
「確かに預けたぜ。あとのことは知らねえからな。」
ノイレンは去っていった。
ノイレンが門前でそんなやりとりをしていた頃、カーツォは自分の執務室の机に両手をついて固まっていた。
『なぜノイレンが生きている? しかもこれ見よがしにやって来おった。まさか、掃除屋を雇ったのが私だとバレたのか? いいやそんなことはあるまい。あいつらもプロだ。依頼主のことは口が裂けても言うはずがない。もしかしてその口を裂かれたか?』
あれこれと憶測を巡らしながら、仕返しされるかもしれないという恐怖に慄いていると、そこへ荷物を預かった事務員がやってきた。
「会長、これを預かりました。サフィアお嬢様からだそうです。」
事務員は荷物を机に置くと出て行こうとした。
「待て、あいつは何の用で来たんだ?」
「さあ、よくわかりませんが、サフィアお嬢様から預かったものを持ってきたとだけ言ってました。」
「なんだと言うんだ?」
カーツォは急いで乱暴に開封した。
「なっ!?」
中から出てきたものを見たカーツォは肝が潰れ、絶句した。そこには紐で束ねた亜麻色の綺麗な髪の毛が。事務員も愕然として髪の主の名を口に出しかけた。
「会長、もしかしてその髪は・・・サ、」
「言うなっ!」
カーツォの剣幕に事務員はそれがサフィアの髪であることをはっきりと認識して口をつぐんだ。カーツォはその事務員の目を睨むように見据えて脅した。
「このことは他言無用だ。一言でも口にしてみろ、お前はクビだ。」
「は、はい。」
「それから、ノイレンをここに連れて来い。今すぐにだ。」
「え? 彼女ならもう居ません。会長が追い返せと、」
「愚か者! 私がどう言おうと、状況を判断して最善を尽くすのがデキる受付だろうが。今すぐに連れ戻してこい!」
実に理不尽だ。
カーツォが事務員を怒鳴りつけていると、リハビリを兼ねて私室で執務をしているカーツォの妻シャリーがやってきた。
「あなた、さっき例の護衛が来ていたようだけど、サフィアが戻ってきたの?」
「うわ、シャリー、」
カーツォは彼女の姿を見た途端慌ててサフィアからの荷物を机の引き出しにしまった。
「あなた、今何を隠したの?」
シャリーはまぶたを半閉じにして夫をジロリと見つめた。
「いや、何でもない。これは大したものじゃない。お前は知らんでもいいものだ。」
シャリーはツカツカとカーツォの目の前まで迫ると、じぃっと彼の目をえぐり出すように見つめた。まるでヘビに睨まれたカエルのようにカーツォは冷や汗を垂らし、まぶたを忙しなくぱちくりさせた。
「昔言ったわよね、覚えてるかしら? あなたは嘘をついたり、なにかをごまかしたりするときって必ずまばたきが増えるの。」
「そ、そうだったか、はは、そんなことはないぞ。私にはやましいことなぞ何もないからな。」
そう言いつつもまぶたは正直だ。シャリーは傍らにいる事務員に訊いた。
「あなた知っているわよね? 会長が慌てて隠したものは何?」
「そ、それは・・・」
事務員はシャリーに顔を向けながらちらちらとカーツォに視線を動かした。カーツォは「絶対に言うなよ、言ったらお前はクビだ」という険しい表情で睨んでいる。それを察したシャリーは二択を迫った。
「言わないとあなたクビよ。どう? 言う気になった?」
事務員は洗いざらい吐いた。言っても言わなくてもクビになるなら、もうどうにでもなれと思った。
事務員の話を聞いたシャリーは無理やり引き出しを開けさせ、そこにあった愛娘の亜麻色の綺麗な髪を見て血の気が引いた。その場でまた倒れてしまった。
「シャリー、大丈夫か? だから言ったんだ。」
カーツォは妻を抱えると彼女の部屋へ連れていった。
「あなた、一体どういうこと?! なんでサフィアの髪が?! あの子に何があったの?!」
気を取り戻したシャリーはカーツォの腕にすがって顔を歪め、涙で目を潤ませて夫に問うた。カーツォはシャリーの目をまっすぐに見ることができず、視線を逸らし、苦い表情を浮かべて言い淀んでいる。シャリーは夫のその顔を涙目でじぃっと見つめた。
「私にも・・・よくわからん。サフィアが無事なのかどうかも、どうなったのかも皆目見当が付かん。」
「あなた、この期に及んでウソはやめて。」
「ウ、ウソなどついておらん。」
「ウソよ! あなたのまぶたが白状しているわ。」
カーツォのまぶたはまた忙しなくぱちくりしていた。彼は観念して掃除屋のことを話した。最後まで聞き終わるとシャリーは複雑な表情を浮かべて沈黙した。
「シャリー?」
「・・・・・・」
「どうした? 掃除屋なんて非合法な連中を頼みにした私に愛想をつかしたか? それとも、」
カーツォはシャリーの気持ちを聞き出そうとあれこれ言葉を変えて尋ねた。何度目の質問の後だろうか、シャリーが口を開いた。
「なんて言えばいいのか、正直私にもわからないわ。だって掃除屋に依頼したのは護衛のほうなんでしょ。それなのにサフィアの髪をその護衛が持ってきたってことは、もしかしてサフィアは間違われて・・・」
「やめろ! そんなことあってたまるか。私はちゃんと黒髪のポニーテールと伝えた。サフィアの髪とは似ても似つかんではないか。」
「じゃあ、あれはどういうこと?」
「そ、それは・・・、私にも分からん・・・」
二人は沈黙して項垂れた。重たい空気に沈み込んでどのくらい経ったろうか、閉塞感に息が詰まったのかカーツォは自己弁護ともとれる言葉をぽつりぽつり吐き出し始めた。
「すまなかった。しかし、どうしてもサフィアを翻意させたかったんだ。それはお前もわかってくれるだろう。あの子の計画はどう見たって無謀すぎる。」
「それはわかるわ。でも・・・」
シャリーはおなかを痛めて生んだ愛娘がもうこの世にいないかもしれないと思うと、奈落の底に叩き落されたような落ち込みようだ。なかなか子ができず散々精神的に参ったあとにようやくできた子なのだ。母親としては当然の反応だ。
「すまん・・・」
カーツォはシャリーの手を握り力無く謝った。心の中では彼もまた最愛の娘を失ったかもしれないという後悔と自責の念にかられ、姿勢を保つのがやっとだった。膝に力が入らない。
このときの彼はまだサフィアの髪に同梱された、ナディアがサフィアにしたためさせた手紙に気づいていなかった。
「あなたサフィアの髪をもう一度見せて頂戴。」
「しかしお前、大丈夫か。また倒れたりしないだろうな。」
「大丈夫よ、お願い。」
シャリーは消え入りそうな声で頼んだ。
「わかった。ちょっと待ってろ。」
カーツォはおぼつかない足取りで自分の執務室に愛娘の髪を取りに行った。
しばらくしてカーツォはドタドタと足音も荒く慌てて戻ってきたかと思うと、シャリーの私室に入るなり笑顔で叫んだ。
「シャリーこれを見てくれ! あの子は無事だ!」
カーツォは嬉々としてその手に握ったものを差し出した。
「あなた?」
「これが髪と一緒に入っていたんだ。あの子からの手紙だ。読んでみろ! サフィアは無事だし、それに私らの言うことを理解してくれたぞ。わかってくれたんだ。」
シャリーはそれを受け取ると注意深く読み進め、最後まで読むとにわかに顔が険しくなった。
「なんなのよこれ! サフィアが翻意したというよりナディアがノイレンと結託して全部奪い取ったってことじゃないの? やっぱりナディアはろくでもないわ。だからあんなのはさっさと追放するべきだって言ったのよ。それをあなたは『私の娘だ』とか言って甘やかすから!」
手紙からサフィアが無事と知るや否や、シャリーの頭にはナディアやノイレンへの敵意が湧いてきた。
「な、なにを言い出すんだ。そもそもナディアはサフィアの無謀さに気づいて、すべてを自分でかぶってくれたかも知れんのだぞ。そんな言い方はないだろう。」
「ふんっ、あれは薄汚い娼婦に産ませた卑しい子ども。サフィアを庇ったなんて方便に決まってる。そうやってあなたを騙して自分のいいようにしただけよ。」
「シャリー、いくらなんでも言い過ぎだ。お前だってサフィアが生まれるまでは可愛がっていたじゃないか。」
「そんなこと今はどうでもいいわ。問題なのはやっぱりナディアはろくでもないってこと。それにノイレンもね! 剣の腕はいいのかもしれないけど、粗野な人間はサフィアに近づけちゃいけないわ。ま、結果的に別れてくれたようだからよかったけど。」
サフィアからの手紙にはこう書いてあった。
―― 拝啓 会長殿
新緑が清々しく目に眩しい季節、会長および皆様におかれましてはますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
さてこの度、姉ナディアはカーツォ商会キニロサ支部の支部長を退任し、ノイレンとともにナディア商会を立ち上げて独立することとなりました。会長が懸念されておりました、愚女の計画は全てナディア商会が承継してくださいました。カーツォ商会において心配の種は一切消尽いたしましたのでどうぞご安心いただきますよう、重ねて申し上げます。
つきましてはナディア商会の設備が整うまでの間、カーツォ商会キニロサ支部の施設を一部間借りさせますことご容赦願います。これは新たにキニロサ支部長に就任した私、会長代理でもあるサフィアが了承を与えました。
尚、本来であれば、私がそちらまで出向くべきところ、前任より引き継いだ支部の業務が山積しておりますため、取り急ぎ書面にてご報告させていただきます。
また、会長がご懸念なさった無謀な計画という重たい肩の荷を下ろしたことで私は非常に心安く、毎日を楽しく過ごしております。心を入れ替えて仕事に邁進するべく髪を短くいたしました。以前の愚かな娘はもうおりません。その証としてそれをお送りいたします。ご査収の程よろしくお願い申し上げます。重複いたしますが、私は元気です。くれぐれもご心配なさらぬようお願い申し上げます。
では皆様ご自愛ください。
敬白――
「ああ、かわいそうなサフィア。今頃独りでどうしているかしら。」
シャリーはサフィアを溺愛している。それ故に元気でやっていると聞いても心配でならない。
「手紙によれば、あの子は元気だそうじゃないか。髪を見たときは私も肝を冷やしたが、手紙を読んで楽になった。」
今まで懸念していたことがすべて解決したばかりか、サフィアは心機一転キニロサ支部を盛り立てるべく奮闘しているとカーツォは手紙からそう読み取った。
「何を言ってるの! つまりサフィアは今独りで放り出されて大変な目に遭っているってことよ。まだ二十歳の女の子なのよ。それが遠く離れた街で孤軍奮闘しているんだから、きっととんでもない苦労しているわ。何とかしてあげないと。」
「シャリー・・・」
シャリーがあれこれ勝手な思い込みで妄想を膨らませ始めたのを見たカーツォは逆にだんだんと落ち着きを取り戻してきた。そして娘を溺愛するあまりの妻の短絡思考に少し呆れた。
「シャリー、気持ちはわかるが、私らが同じくらいの歳だった頃を思い出せ。あの頃はとんでもなく大変だったじゃないか。」
「それはそうだけど、でも私たちは二人だったわ。あの子は一人なのよ。」
「それなら心配は無用だ。近いうちにあの子にふさわしいパートナーを私が見つけてやる。」
「お願いよ、すぐにいい人を探してあげて。今すぐに!」
「任せておけ。」
カーツォはサフィアからの手紙を鵜呑みにして、すっかり信じてしまったようだ。
その頃、理不尽な叱責を受けた受付の事務員は荷物をまとめて本部を後にしていた。行きつけの飲食店へ行き、そこで昼間から酒をかっ喰らって不貞腐れている。
「一体私がなにをしたっての。言われたとおりにしただけじゃない。それを会長も会長補佐もよってたかって私を悪者扱い。冗談じゃない。あの黒髪にこてんぱんにされりゃよかったんだ。」
まあ、気持ちはわからないでもない。
次回予告
ナディアの思惑通りに事が進み難を逃れたノイレン。人の思いは巡る。連綿と受け継がれて、過去から未来へ。ノイレンもその一人として師匠たちの思いを受け継ぎ、使命を全うする決意を新たにした。そしてそれを託すことになるかもしれないまだ見ぬ弟子のために、前を向いて進んでいくことを改めて誓うノイレンだった。
君は彼女の生き様を見届けられるか。
次回最終話「わたしもこれからの人たちに繋いでいける。」




