101「我々の新しい門出に乾杯しよう。」
サフィアの好きな東方では桜の花びらが水面を美しく染め上げている頃、ノイレンはシェヒルの街に別れを告げた。
「他の人たちに挨拶しなくて本当によろしいんですの?」
「うん、顔を合わせるとなんか行きづらくなっちゃうし。それにこないだの壮行会でちゃんと挨拶してっからさ。」
「気を付けてお行きなさい。落ち着いたら手紙を。シャルキーが心待ちにしてますから。」
「分かってる。じゃあ行ってきます。」
馬上から手を振るとノイレンは前を向いて行った。ただ一人アニンだけにその背中を見送られて。
『いつの間にか一人前になっちゃって。アデナで初めて会ったときは負けん気だけのどうしようもない子供だったのに。小娘の背中、先生みたいな頼もしさが備わってきてますわ。なんかちょっと悔しいですわね。』
アニンは言葉にはしたくない感情を込めた視線を遠ざかっていくノイレンの背中に送った。
「ふう、さあ私も準備しなくちゃ。」
ギルド学校へ出勤する前にすべきことをこなすため、豆粒くらいになったノイレンの背中に背を向けると押しかけ女房のように居ついたトレランスの家を見上げた。
「私一人では広すぎますわね。」
アニンの心の中を一抹の冷たい風が吹き抜けた。
五日後、ノイレンはキニロサに戻ってきた。
「ただいま。今着いた。」
カーツォ商会のキニロサ支部に着いたノイレンは厩に馬さんを入れ、留守番をしていたわんこたちにもみくちゃにされたあと、支部長室へ顔を出した。
「随分と遅かったじゃない。十日あれば往復できるのに、もう一ヵ月よ、あなたが出発してから。」
執務机の前にある応接卓を姉妹で挟んでなにやら話し合いをしていたサフィアが不満そうに口を尖らせた。
「悪かったな。わたしにもあれこれあんだよ。ま、おかげで戻った早々タツノオトシゴが見られたぜ。」
「誰がタツノオトシゴですって?!」
尖った口がさらに突き出た。ノイレンは指さしながらケタケタと笑った。
「しっかりと挨拶してきたろうな?」
ナディアが訊いた。本当ならば父のカーツォと養母のシャリーがどんな様子だったかを真っ先に聞きたいのを抑えてノイレンの身の上を思いやった。
「ああ、シェヒルにいるみんなにちゃんと挨拶してきたよ。師匠の墓参りもしてきた。ありがとう。」
「それならばいい。疲れたろう、ゆっくりしていろ。」
さすが支部長だけのことはある、気遣いがこまやかだ。
「ところでノイレン、父さんと母さんはどんな様子だった?」
ナディアが我慢して気遣っているというのにサフィアは遠慮なく問うた。
「あんたたちのお父さんはすげー怒ってたよ。頭から湯気が出んじゃねえかってくらいカっカしてた。そんでサフィアの予想通り御者をクビにしようとしたからあれ言ってやったよ。」
「あれ?」
ナディアが首を傾げた。
「え、言っちゃったの? 本当に?」
サフィアが驚いて絶句した。
「サフィア、黒髪に何を吹き込んだんだ?」
サフィアの代わりにノイレンがさらっと答えた。
「ケツメドに指でも突っ込まないと分かんない奴。」
「ケツ・・・!?」
ナディアも絶句した。
「なんだよ、言っちゃいけなかったのかよ。だったらそう言ってくれよ。」
ノイレンは二人の反応を見てへそを曲げ、ぷうと頬をリスのように膨らませた。それを見てナディアは額に手を当ててため息をついた。
「お前、ケツメドが何か知っていて言ったのか?」
「知らない。」
ノイレンはあっけらかんと返事した。
「あのね、ちょっとうしろ向いてノイレン。」
サフィアがノイレンにうしろを向かせると、人差し指でノイレンのおしりの穴をつんとした。
「ひゃあっ、な、なにすんだサフィア!」
ノイレンのポニーテールがふわっと逆立ち、得も言われぬ不思議な感覚が全身を駆け抜けた。ノイレンは両手でつんとされた場所を押さえ、振り向いてサフィアを睨んだ。
「そこよ。そこのことなの。」
「ケツメド?」
サフィアは頷いた。ノイレンは真っ赤になった。ようやくカーツォに向かって自分の放った言葉の意味をしっかりと理解した。
「ところで母さんは?」
サフィアの問いかけにナディアの耳がぴくっと動いた。
「残念だけど直接お母さんには会えなかった。でも御者づたいに様子は聞いた。」
「で、どうだった?」
「お父さんと同じでものすごく怒ってたって。最初に話を聞いた時は『なんでサフィアが』って卒倒したってさ。」
そこまで聞いたナディアがぷっと含み笑いをした。
「そんで『ナディアがサフィアをそそのかしたに違いない』つって、『今すぐナディアを商会から追放しろ』とお父さんに食ってかかったって聞いたよ。」
ナディアはチっと舌打ちした。
「母さんがそんなこと言ったの? これは私が考えた計画なんだから、姉さんを責めるなんてお門違いも甚だしいわ。」
サフィアは腕組みするとふんっと鼻息を荒げた。
「まあシャリーならそう言うだろう。サフィア可愛さになんでも私のせいにしたがるからな。」
「姉さん、なんでそんなに落ち着いてるのよ。母さんはむちゃくちゃよ。ここはもっと怒るべきところでしょ。」
「ふふ。」
ナディアは涼しげな顔で笑んだだけだった。
「ところで黒髪。今夜私に付き合え。お前に会わせたい人がいる。」
ナディアは視線を動かしてノイレンを見上げた。
「誰?」
「名前はアミラン。隊商の隊長だ。お前がシェヒルに戻る前に話しただろう。商会と昵懇にしている隊商があると。三日前に東方から戻って来たんだ。今夜会う約束をしている。ちょうどいいから同席しろ。」
「わかった。」
「なにそれ、私聞いてないわよ。三日もあってなんで教えてくれないのよ姉さん。」
サフィアが半目でまたもタツノオトシゴになった。
「悪い、帰ってきたという報せを受けただけだったものだから、お前に教えるのを忘れていた。商談はこれからなんだ。」
「じゃあ私も今夜一緒に行っていい? その隊長さんと顔つなぎしたいし。」
「わかった。ついてこい。」
サフィアも来ると聞いてノイレンはいたずらっぽい笑みを浮かべて、面白半分に提案した。
「それじゃあそのアミランて人に二人の剣舞を披露してやったら?」
ノイレンの予想に反してナディアはまんざらでもないらしく、微かに頬を染めて妹に尋ねた。
「やるか?」
「やらないわよ!」
サフィアは半目でジトっとやりたそうな姉を睨んだ。
日が傾きかけた頃ノイレンたち三人は出かけた。ナディアは自分の馬に、サフィアはノイレンと一緒に”馬さん”に乗っている。
「どこへ行くんだ?」
ナディアのあとをついていくノイレンが訊くと、ナディアはちらと振り向いて口角を上げた。
「お前の良く知っている場所だ。」
ナディアは黙って馬を進めた。ノイレンにとってはよく覚えている通りばかりを抜けていく。
「サフィア、このまま行くとあそこに着くんじゃね?」
ノイレンはナディアの背中を見ながら、うしろに乗っているサフィアに呟いた。
「まさか姉さん、本当にまた剣舞やる気かしら。」
ノイレンの服を掴んでいるサフィアの両手に力がこもった。
「ちょっとサフィア、そんなに強く掴まないでよ。痛え。」
「あらごめんなさい。」
ノイレンの予想通りナディアの馬はヤシャダムの店の前で止まった。
「姉さんどういうつもり? こんなところで商談なんて。」
「誰も商談をするとは言っていないぞ。」
「どういうこと?」
「今日は再会と長旅の労をねぎらっての接待みたいなもんだ。酒が入れば東方の様子も聞きやすくなるし、どんなものを仕入れてきたか、シラフではダンマリでもつい口が滑ることもある。」
「へえ、ちゃっかりしてるわね、姉さん。」
サフィアは改めて姉の才覚に感心した。
「今までは別の店でやっていたんだが、ここでなら落とした金は回り回って商会に戻ってくる。一石二鳥てやつだ。黒髪がここを見つけてくれたおかげだな。」
「恐ろしいわ姉さん。」
サフィアは姉を敵に回さなくて良かったと内心安堵した。
「お前ほどではないがな。」
「どこがよ!?」
「実の父親を謀るようなことをしでかしておいて何を言っている。」
サフィアはタツノオトシゴになったが、事実だけに怒りをぶつけることもできずノイレンを睨んだ。
「なんだよ。」
中に入るとナディアは一人でカウンターにいるヤシャダムのところへ向かい、にこやかに挨拶をした。
「ナディアってば、いつの間にあんなにおやっさんと親しくなったんだ?」
構える様子もなくヤシャダムと話しているナディアの姿にノイレンは少し驚いた。
「姉さんは人脈を広げるのが得意だから、私たちの知らない間に(この店に)通ってたのかも。それにほら、姉さんて可愛いというより美人てほうでしょ。だから年配の男性からは好かれやすいのよね。」
「へえ、やるじゃんナディア。」
驚きが感心に変わった。
ヤシャダムの計らいで六人は座れる大きなテーブルに案内された。
「ノイレン久しぶりだな。今日は踊ってくれるのか?」
ナディアが話をつけているときからヤシャダムはノイレンのほうをちらちらと気にしていた。
「ごめん、踊りたいんだけど、今日はそうもいかないみたいで・・・」
「そりゃ残念。それなら明日はどうだ?」
ヤシャダムは何が何でもノイレンに踊ってもらいたいらしい。ノイレンは姉妹にちらりと視線を送った。二人とも話を聞いていないふりをしてそしらぬ顔をしている。
「明日は大丈夫かも。」
「そうか! じゃあ明日頼んだぞ。」
ヤシャダムはしわの深いその顔をまんまるに丸めてカウンターに戻っていった。
「あはは、おやっさんてば。」
ノイレンは一応そんなセリフを吐いて二人の反応を窺った。二人とも相変わらず涼しい顔をして知らんぷりだ。ノイレンは気を取り直してナディアに尋ねた。
「アミランてどの人?」
店内を見回してみる。
「まだ来ていない。じきに来るさ。それよりもまずは乾杯をしよう。」
ビールがなみなみと注がれたジョッキが三つ運ばれてくるとナディアは自分のを高く掲げた。二人もそれに倣った。
「我々の新しい門出に乾杯。」
ナディアは自分のジョッキを二人のにコツンとぶつけた。
「私たちの新しい門出に乾杯。」
サフィアも同じことを言ってジョッキをぶつけ返した。
「新しい門出ってなんだ?」
ジョッキをぶつけ合いながらもノイレンは意味がわからず疑問が湧いた。
「新しい出発ってことよ。あなた少しは語彙を増やしなさい。」
サフィアが言い換えて説明したがまたしてもノイレンの知らない単語を使ってしまった。
「語彙って?」
サフィアはジョッキを持ったまま眉を顰めた。
ノイレンはジョッキを空にしてしまうとソワソワしだした。食べ物の注文はアミランが来てからとナディアが言うし、その彼はあとどのくらいで来るか分からない。だから手持ち無沙汰になったノイレンはチラチラとステージに視線を送って落ち着かない。
「黒髪、そんなに踊りたければ行ってくればいい。お前のダンスならアミランも喜ぶだろうからな。」
ノイレンの心境などすっかりお見通しとばかりにナディアがそそのかすように許可した。
「いいの? そんなこと言ったらほんとに踊ってくるぜ。」
「構わん。私もサフィアも踊るななど一言も言ってないぞ。それにかしこまってるお前を紹介してもつまらんしな。それからお前がこっそり衣装を持ってきていることくらい先刻承知だ。」
「なんだかよく分かんないけど、やったね。ちょっと行ってくる。」
ノイレンは嬉しそうにヤシャダムのところへ話に行った。
ダンス衣装に着替えたノイレンが控室から出てくると、それをめざとく見つけた常連が囃し立てた。するとそれに気づいた他の客たちもやんややんやと騒ぎ出した。
「いよっノイレン、久しぶりだな。」
「今日はついてるぜ。」
「いいぞいいぞ、早く踊ってくれ。」
ノイレンは満面の笑みを浮かべてステージに駆け上がった。その熱気に圧倒されたサフィアは目を丸めた。
「前に見て知ってるけど、ダンサーとしてのノイレンてやっぱりめちゃくちゃ人気あるのね。」
「店のおやじが言ってたぞ。あれは漆黒の魔女だってな。」
「漆黒の魔女?」
「まあ、見ていろ。そうすれば分かる。」
ナディアはテーブルに片肘をついてステージに注目した。
今夜の演奏係はいつもの人とは違ってリュートではなく笛を持っていた。横笛と縦笛の二人組。二人の息がぴったりとあってそれだけでも十分に面白い余興だ。
淑やかな横笛の音色と軽快な縦笛の音色が融合した演奏に合わせてノイレンは踊り始めた。
客たちを魅了するために出来るだけステージの端から端まで動き回って、その妖艶な肢体を間近で見せつけた。ブラッドオレンジの衣装がランプの光に照らされて濃く、深く見える。それだけでも吸い込まれそうだ。そこにやわらかく滑らかな手足の振りが加わると、動きに合わせてふわりと舞う衣装がノイレンの魅力を引き立てる。
スネイクアームズ、シミー、フィギュアエイト。シャルキーに教わった様々な技を取り入れて舞うノイレンに誰もが釘付けになった。小刻みに揺れる胸や腰、それに合わせて生きているようになびく長いポニーテール。かと思えばヘビのように柔らかくくねくねと波打つ全身。年頃になったノイレンの曲線が際立った。
ヤシャダムも仕事を忘れて見惚れてしまった。決して深入りしてはいけない魔女が確かにそこに存在していた。
店中がノイレンの魔力に痺れ、酔いしれていると、ひとりの泥酔した男がふらふらとステージに上がってきた。
「ひぇっへへへ、よう、ねえちゃん。色っぺえじゃねえか、おいらと好い事しようぜえ。ひぇっへへ。」
泥酔した男はよくコケないものだと感心するくらいふらつきながら大股で歩き、ノイレンに抱きつこうとした。もちろんノイレンはそれをスっと躱し、男を睨んだ。
「邪魔すんな、引っ込んでろ。」
その妖艶なダンスに似つかわしくないぶっきらぼうな言葉遣いでノイレンは冷たい視線を男に投げた。
「おめえ邪魔だ! ステージから降りろ!」
「どこのどいつだ。」
「おらどけ! このやろう。見えねえだろうが。」
魅入っていた客たちが騒ぎ出した。ヤシャダムが慌ててカウンターの向こうから走ってきた。
泥酔した男は尚もノイレンに絡んだ。
「いいだろうねえちゃん。減るもんじゃなし、おいらとヤろうぜえ。ひぇっへへへ。」
両手の指をいやらしくくねらせながらノイレンの体を触ろうと男は手を伸ばす。ヤシャダムが男を止めようとステージに足をかけたとき、男はヤシャダムの目の前を仰向けで飛び過ぎて行った。
「え?」
ヤシャダムは自分の目を疑いながらその男が客席に落ちていくのを目で追った。
ガラガラと大きな音を立てて男はステージの前にあるテーブルを一つ破壊し、瓦礫とともに客たちの足元に転がった。
「え? え?」
ヤシャダムが視線をノイレンに向けるとそこには、右足一本で立って左足をまっすぐ水平に伸ばしたノイレンの姿があった。
「あはは、おやっさん大丈夫? 怪我してない?」
ノイレンは足を下ろすとにこっと微笑んでヤシャダムを気遣った。
「ごめん、おやっさんに当たりそうになってびっくりしちゃったよ。」
「いや、ワシはなんともないが、ノイレンあんた、ダンスだけじゃなく腕っ節も大したもんだ。やっぱり魔・・・!」
「ま?」
「あ、いや、なんでもない、なんでもない。」
おやっさんは慌てて言葉を濁した。
『危ねえ危ねえ。魔女なんて聞かれたらこっちまでぶっ飛ばされちまう。』
ヤシャダムがステージの端で冷や汗をかいている間に泥酔した男は他の客たちによって店の外に放り出された。
「ごめん、おやっさん。壊れたテーブルとかあとで弁償すっから。」
「あんたのせいじゃない、気にすんな。弁償ならあの男にさせるさ。」
ノイレンとヤシャダムがステージの上で話していると客たちからブーイングがあがった。
「おやじ! いつまで話してんだ。早くノイレンのダンス見せろ!」
「そうだそうだ、おやじのダンスなんか見たくねえぞ。」
ヤシャダムがさすがにムスっとすると、ノイレンが皆に笑顔を向けた。
「ごめんみんな。やり直すから機嫌直してくれよ。」
「ノイレンが謝ることじゃねえ、気にすんな。」
「そうだ悪いのはあの男だ。」
「それより早く続き見せてくれ。」
客たちは口々にノイレンを気遣った。
「ありがとう、みんな。」
ノイレンはステージの真ん中に立つと、両足を前後に揃え、両腕を上げてスっと背筋を伸ばした。
淑やかな横笛が少し切ないノスタルジックなメロディを奏で始めた。それに合わせてノイレンは先ほどとは違う、しっとりしたダンスを披露した。
無粋な男のために荒ぶってしまった場の空気が穏やかに潤いを取り戻し、見る者の心に瑞々しさが満ちた。
次回予告
キニロサに移ってきた初日にいきなり派手な歓迎を受けたノイレン。そして派手な歓迎にも動じないノイレンをアミランは気に入る。そればかりかアミランが連れてきた彼の片腕のライラという女性剣士もノイレンを一目見て気に入ってしまう。一方アミランを労うだけのはずだった会でナディアは商談をまとめた。
君は彼女の生き様を見届けられるか。
次回第百二話「さすがだな黒髪。」




