38話 最後の上書き
大嶽丸が碧威に炎を放とうとした瞬間、依芙姫は大嶽丸に抱きつくやいなや、大嶽丸の口を強引に塞いだ。口移しで酒と共に三錠の睡眠薬を飲み込ませようとした。大嶽丸の喉がわずかに「ゴクリ」と動いた。
「貴様〜」と言って大嶽丸は依芙姫を炎を出してない反対の手で思いっきり振り払った。依芙姫は旅館の外に吹き飛ばされ、窓に激突し、窓ガラスがガッシャンと割れた。割れた窓ガラスが下敷きとなったが、依芙姫はすぐに立ち上がった。
あらかじめ硬質化した神氣を体全体に覆っていたため、割れた鋭い窓ガラスの破片に傷つかずに済んだのだ。
大嶽丸は「薬を盛ったぐらいで……」と言いつつ、「うっ」と額を手で押さえた。睡眠薬が効いてきたようで、視界が回っているようだ。
「許さん! 」と大嶽丸は依芙姫に小さな赤黒い炎を投げつけた。
依芙姫は着物から蜂比礼の布を取り出し、炎を大嶽丸に返した。大嶽丸はチッと言って自分の拳を突き出して炎を相殺した。
大嶽丸は右手を挙げると、空が墨汁を垂らしたように急に暗くなった。大嶽丸が振り上げた右手を下ろすと、ピカッと眩しい稲妻が光った。ゴロゴロドガーンという音と共に、依芙姫の傍に雷が落ちた。
『酒と睡眠薬の効果で、正確に狙いが定まらないんだ』と思いながら、依芙姫は雷が落ちた箇所を見た。地面が黒く抉れていた。
「お前らごとき虫けら、この拳だけで十分だ」と言って、大嶽丸は依芙姫に向かって突進をし、依芙姫の腹、続いて左頬を殴った。ガンガンと音が鳴ったが、依芙姫は倒れなかった。
「馬鹿な……。人間の小娘がなぜ、俺の拳に耐えられる!? 」と大嶽丸は困惑した。
すると背後から殺気立った碧威が大嶽丸に回し蹴りを放った。碧威はすでに狼の神獣の姿になっていた。
「貴様は人間ではなかったのか? 騙しおって、許さんぞ! 」
碧威が大嶽丸と戦っている最中、康晴と晴真が旅館の玄関から駆けつけた。
「依芙姫!! 大丈夫か!? 」
康晴が依芙姫に駆け寄った。
「……うん。それよりも大嶽丸を……」
大嶽丸が拳を碧威に突き出すが、素早い碧威には全く当たらず、庭の灯籠にあたり、崩れた。逆に、碧威は鋭い爪で引っ掻き、蹴りを入れて、大嶽丸にダメージを重ねていった。
「動き回っていて祓えませんね」
「あぁ。せめて、一瞬でも止まってくれれば……」
すると、碧威は大嶽丸の首を鋭い牙で噛みついた。
「ぐっ……」
首から血を滴り落ちながら、大嶽丸の顔色が真っ青になっていった。
「ワシの力を奪うのか」
碧威は大嶽丸から離れ、口の周りについた血を右袖で拭った。碧威は大嶽丸から離れた。
「晴真君、今だ!! 」
「はい!! 」
康晴と晴真は同時に、
「かしこみかしこみ申す。瀬織津姫、速開都姫、氣吹戸主神、速佐須良姫、祓戸の大神、大嶽丸を祓い給え清め給え」と大祓詞を唱えた。
「他にもいたのか!? 」
康晴と晴真に気付いた大嶽丸は、よろめきながら炎を作り出そうとした。
それよりも早く晴真の八握剣の柄から青白い神氣が刀を、康晴の八握剣の柄から濃紺の神氣が大太刀の形を作った。そして、二人は大嶽丸に八握剣を突き刺した。
「グワァァァッ。俺が人間と狼ごときにヤラレるとは……」と言い残して、大嶽丸の体は徐々に黒い塵となり崩れた。畳の上に黒い塵の山が降り積もった。
フウッと息を吐きながら、康晴は「なんとか祓うことができたな。二人とも、よくやってくれた」と言った。
「それにしても部屋がめちゃめちゃだな。破損箇所は窓ガラスと庭の灯籠くらいで済んで良かった。旅館の主人に謝らねばな」と康晴は部屋を出て、男に話しに行った。
晴真が依芙姫に「大丈夫か」と声をかけた。
「……うん」と言いながら、依芙姫は青い顔をして部屋を出ていった。
依芙姫は廊下にある女子トイレに行き、手洗い所で何度も口をゆすぎ、唇を念入りに洗った。 大嶽丸との口づけは、とても気持ち悪かった。
『お母さんが止めたのに、それでも自分で選んだことだ』
依芙姫は両頬を軽く叩き、気持ちを切り替えようとした。
『碧威君を守れたんだから、良かった』と自分に何度も言い聞かせて、依芙姫は女子トイレを出て、碧威達の元へ向かった。
康晴と温泉宿の男が話しているのが聞こえてきた。
「ありがとうございます。恐ろしい鬼を倒してくださったので、修理代はいいですよ」
「関東祓師協会から修理代は出ると思うが……」
男は両手を広げ、ブンブンと両手を振った。
「もともと、ボロい旅館ですし……。何より、美しい娘さんを用意できなかったら、我々が殺されるところでした」
「そうか……」
依芙姫が受付にやって来たことに気付いた晴真が心配そうに、「依芙姫、大丈夫か? 」と声をかけた。
「……うん」
「では、全員揃ったことで、我々は帰ります」
「ありがとうございました」と温泉宿の男は深々とお辞儀をした。
依芙姫達はスーパーマーケットの駐車場に向かった。
「大嶽丸がいなくなったことで、空気が幾分、軽くなりましたね」
「大嶽丸が封印されていた岩の周辺の大量の不法投棄の撤去と浄化をすれば、さらに軽くなるだろう」
「祓ますか? 」
「いや、不法投棄されたものを撤去されない限り、すぐに汚れや邪気が溜まる。あとは、関東祓師協会と奥森市に任せよう」
「そうですね……」
康晴と晴真が会話する中、車の中でも依芙姫と碧威は終始無言だった。1時間後、晴真を福竹神社に送り届け、依芙姫、碧威、康晴は磐守家に帰ってきた。
依芙姫は康晴に「気分転換をしたい」と言って自宅には戻らなかった。磐守神社の裏山の頂上までの階段を勢いよく駆け上がった。巨石群に触れながら、遠くに見える海を見渡した。
背後から「依芙姫ちゃん」と碧威の声が聞こえた。
振り返ると、銀色の毛並みの大きな狼、碧威がいた。琥珀色の目の半分ほどが赤黒く濁っている。
「碧威君、どうして、ここに? 」
「依芙姫ちゃんが落ち込んでいるように思って……」
「誰かに見られたら、大変だよ」
「今のところ、人の気配は磐守家の人以外は感じられないから大丈夫」
碧威は依芙姫に近づき、前足を蹴り立ち上がった。
依芙姫はギョッとした瞬間、碧威が依芙姫の顔全体と口をベロベロと舐め出した。
「碧威君、ちょっと……」と依芙姫は言いながら、近くの岩に腰掛けた。
「上書き。狼の姿だから、いいよね? 本当は人間に変身している時か神獣の時がいいんだけど……」
「えぇっ」
「大嶽丸に口付けをして、後悔しているんじゃないかと思って……」
依芙姫の瞳から涙が溢れた。
「自分が取った行動なのに、落ち込むなんておかしいよね。ごめん……」
「僕を守るために取った行動なんでしょ? ありがとう」
「好きでもない、しかも悪妖に口付けは気持ち悪かった」
「ごめんね」と言って、碧威はベロンベロンと依芙姫の顔を舐めまわした。
「碧威君、顔がベトベトだよ」
「これだけ舐められたら、忘れられるでしょ!? 」
「確かに! 碧威君、撫でていい? 」
「いいよ」と言って、碧威は依芙姫の横にお座りした。
依芙姫は碧威の銀色の毛を撫でながら、『碧威君は、いつも私を気遣ってくれる。そういう優しいところも好きだな……』と感じた。
『でも、こんな風に撫でるのは、いい加減やめないと。ますます、歯止めが効かなくなっちゃう……』
スマホの着信が鳴った。依芙姫はスマホの画面を見ると、里子からのメールだった。
「お昼ご飯ができたみたい」
「ちょうど、お腹も空いてきた頃だったんだ」
「そろそろ、帰ろうか」
「そこの茂みで服を着るから、先に帰っていて」と碧威は言った。
「うん。また、後でね」
依芙姫は石の階段を降り始めた。熱を発散する真夏の太陽に影がさし、静かに翳っていった。
碧威の瞳が完全に琥珀色に戻っておらず、微細な赤黒いシミが点在していることに、依芙姫も碧威も気付いていなかった。
そして、銀色の毛並みを撫でられるのが本当に最後になるかもしれないとはこの時は思わなかった。
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