1話 日常の崩壊
高校の制服を着た長身の少女、磐守 依芙姫が林沿いの歩道を一人歩いていた。艶やかな黒髪を結んでいなければ、少年に見間違われても不思議ではない。
依芙姫は森や草花から溢れる柔らかな精氣を感じ取れた。草木の多い場所では、空気は清々しく軽く感じられる。
ある時、樹木が伐採された土地一面に並ぶ黒い板の太陽光パネルの傍を通りかかると、
『空気が重苦しい。なんでだろう? 』
依芙姫は日に日に草木の精氣は薄まり、一方で穢れや邪気の増大を肌で感じるようになった。
虹色の石を握りしめながら、碧威と歩いた風景が黒い海に覆いつくされ、碧威との思い出が色あせていくことに依芙姫は胸を痛めるのだった。
突如、右斜め前辺りから、重苦しいピリッとした気配を依芙姫は感じた。林の中から酷く痩せた黒い毛並みの犬が依芙姫の前に現れた。
「あっ、黒いワンちゃんだ! おいで! 」と依芙姫は近づき、手を伸ばしかけた。
犬は背の高さも見た目も気にしない。だから、依芙姫は犬が好きだった。
「でも、ヤバそうなワンだ……」と伸ばしかけた手を下ろした。
犬好きの依芙姫であるが、思わず恐れおののいた。黒い犬の目は血走ったように赤黒く光り口からよだれを垂らしているからだ。まるで、犬のゾンビのようだ。
「ぐるるっ」と黒い犬は依芙姫に飛びかかってきた。依芙姫は咄嗟に避けたが、くるりと方向転換した黒い犬は再び依芙姫に飛びかかってきた。
『野犬じゃない、妖……いや悪妖だ! 』
依芙姫は走り出したが、石に躓き転んでしまった。
転んだ瞬間を見逃さなかった犬の悪妖が依芙姫の両肩に乗っかった。すると、背中の悪妖が重くなり、少し大きくなったようだ。
噛みつかれまいと依芙姫はすくっと立ち上がり、犬の悪妖の顔面にカバンをぶちかましたが、何ともないようだった。
突然、鈴のシャンシャンの音と共に少年の声が響いた。
「ひふみ よいむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑにさりへて のます あせえほれけ」
ひふみ祓詞が響き渡る。弱い悪妖なら簡単に祓える祝詞だ。そして犬の悪妖は黒い塵となって砂場で作った砂山のように地面に降り積もった。
「おい、大丈夫か、依芙姫! 」と小麦色の肌に眼鏡をかけた少年−晴真に声をかけられた。
「うん、何とか……。ありがとう。晴真」と言いながら晴真の傍に向かおうと何歩か歩くと、少し頭がフラフラした。
「なんで先に帰るんだ! 」と晴真は酷く怒った様子である。
「晴真も祓師として忙しいし、毎日送り迎えしてもらうのは申し訳なくて……」
「馬鹿野郎! 許嫁のお前に何かあると、父さんに怒られるんだ、こっちは」と晴真は大きく溜息をつく。
晴真は依芙姫の幼馴染であり、親同士が決めた許嫁だ。同時に、悪妖や穢れ等を祓う祓師でもある。
祓師とは古来から人を襲い害をなす悪妖に堕ちた妖や穢れを人知れず祓い続けている。また、穢れや邪気に侵された土地を浄化するのも祓師の役目でもある。
「ごめん」
「たくっ、一人で帰るならせめて初歩的な祓いができるようにしろよっ」
依芙姫は生命力の源である神氣は桁違いに高い。しかし、未だに祓いは出来ないでいる。依芙姫は祓戸の大神の加護を受け取れなかったからだ。
依芙姫は8年前の父と亡き祖父の会話を思い出した。
「今、なんと!? 芽生は加護を授かれたのに、姉のの依芙姫は…… 」
「神氣の量はこんなにあるのになぜ……」
「祓師の家系でありながら、その加護を受けられぬとは……」
祖父はひどく落胆し、同時に哀れみの目で依芙姫を見つめていた苦い思い出を頭から振り払った-。
「祓いができないなら、俺が送り迎いを続けるからな」
晴真が依芙姫を送り迎えしているのは、神氣の高い人間を狙う悪妖が増えているためだ。つい先日も蛾の悪妖に襲われかけたが、晴真が祓い、難を逃れた。
妖は多くの人には見えない。人々は便利さを追い求めているうちに、自然の声や妖を見たり感じる力を失っていった。今では神社の宮司や祓師、神氣が高い者だけが、妖を認識できる。
「さっ、早く帰ろうぜ」
「うん」
林の中から、長い髪を揺らした人影が2人を見つめていた。獲物を見定めるような鋭い瞳が依芙姫を捉える。
「見つけた……」
「まだあいつのことを探し続けているのか? いい加減、忘れろよ」
「あんな別れ方をしたら忘れられないよ」
「たくっ」
そんなやり取りをしている内に、磐守家の玄関に着いた。依芙姫は玄関の戸を開けた。
「ただいまー」
「お帰りなさい」
リビングから顔を出したツインテールの黒髪の美少女が返事をした。彼女の名は芽生。依芙姫の2個下の妹で中学2年生だ。
「お邪魔します」
「あっ! 晴真さん、いらっしゃい! 」と満面の笑みを浮かべる芽生。
「こんにちは、芽生ちゃん」
晴真が芽生に優しく笑いかける姿を見て、依芙姫は胸が少し痛んだ。
『芽生は小柄で可愛くていいなぁ。私なんか晴真より背が高いし……。芽生の方がお似合いかも……』と深くため息をついた。
晴真と芽生が仲良く会話しているのを見て、居たたまれない気持ちになった。依芙姫は、晴真を芽生に任せ、自室でTシャツとズボンに着替えると、磐守神社の裏山へ向かった。
依芙姫が住む自宅は磐守神社の社務所に隣接している。
本殿の裏にも磐長姫を御祭神とする神社の御神岩がある。さらに、小高い裏山の山頂には古くから磐座として信仰されてきた巨石群がある。
初恋の少年の碧威を探すため、もう会えないとわかっていても、依芙姫は毎日のようにそこへ足を運んでいた。
15分程、新緑のトンネルに包まれた石段を駆け上がると、山頂から田園と森、その先に煌めく海が一望できる。
今日は依芙姫以外は誰もいないようである。依芙姫は碧威と出会った巨石群に近づき、ザラっとしたその岩肌にそっと触れた。
6年前、水色の浴衣を着て弱々しく泣いていた美しい碧威の姿を依芙姫は思い出した。
「どうしたの? なんで泣いているの? 」
「……」
「お父さんとお母さんは? 」
「母上に置いてかれた……」
「えっ、こんなところに!? お母さんが見つかるまで私が一緒にいてあげるから泣かないで……」
「えっ……」
「甘いものを食べると元氣が出るよ。ウチのお母さんのクッキーを食べると元氣が出るよ。一緒に食べよ」
依芙姫は手を差し出し、その子は震える手で握り締めた。二人は山を下りた。
依芙姫が連れてきたあまりにきれいな子供を見た、母親の里子が「依芙姫、その子は? 」と尋ねた。
「うちの山の巨石にいたんだよ。お母さんとはぐれちゃったみたい……」
里子は訝しんだが、皿に乗せられたクッキーをテーブルに置き、2人を居間の座布団に座らせた。
「美味しいから食べてみなよ」と依芙姫はクッキーを勧めた。
バターの甘い香りをクンクンと嗅いでから、碧威はおそるおそるクッキーを口にする。
「どう? 」
「僕、こんなに美味しいものはじめて食べた……」
「良かった! 僕!? 」
「僕、碧威。ありがとう」
「男の子なの? 」
小柄で儚げな美しさをまとっていたので、依芙姫はてっきり碧威を迷子の女の子だと思っていた。
「うん」
「碧威君、ご両親は? 」と里子は心配気に尋ねた。
「僕はダメな奴だから置いてかれた……」
「迎えにはいらっしゃるの? 」
「頑張ったら迎えに来てくれるかも……」
「えー、可哀そう。お母さんが迎えに来るまでウチにいなよ。お母さん、いいよね?」
「そうねぇ……」
両親は交番と市役所に届け出た上で、両親が見つかるまで、碧威を預かることにした。
しかし、天満月の夕方に碧威は服を残して消えてしまった。
『あの時、手を離さなければ……』
六年経った今もその後悔は消えない。だから、依芙姫は新たに親しい友人を作れなくなってしまった。
碧威に貰った石を握りしめながら『どこにいるの? もういないの? 』と今日も依芙姫は呟き、山を下りた。
依芙姫が自宅の玄関に戻ると、怒り心頭の様子の晴真が出迎えた。
「お前ひとりでどこに行っていたんだよ」
「裏山に行ってきた。芽生と楽しそうに話してたから、私がいなくても良いかと思って」
「別に楽しそうにはしてないぞ。ただ話をしていただけだ。それより、毎日、裏山に行ったって仕方ないだろう。いい加減、碧威のことは忘れろよ」
「あんな別れ方をしたんだもん、忘れられないよ……」
晴真が依芙姫の両肩をつかみ、
「お前は俺の許嫁だろ」
「親同士が決めたね。今時、許嫁なんて……。それに、男みたいな私よりも女の子らしい好きな子と一緒の方がいいんじゃない? 」
晴真より3cm高い175cmの身長は、依芙姫のひそかなコンプレックスだった。
「何言って……」
晴真が何かを言おうとすると、外から男達の言い争う声が聞こえてきた。
「本殿や祓社だいぶ傷んでいますね。修繕費の捻出も大変でしょう? 」
「大きなお世話だ」
「山の維持管理も大変でしょうし……。山の敷地をお売りいただ……」
「売らんぞっ! 帰れっ!! 」
「ひとまず、帰りますね。また……」
依芙姫が玄関のドアを開けると、背が高い端正な顔立ちの中年の男性、依芙姫の父・康晴が険しい表情で塩をまいていた。
「また塩まいてるの? 」
「無礼な奴にはああいう態度でいいんだ」と語気を荒げる康晴。
「どうしたんですか? 」と気遣わしげに晴真が尋ねた。
「おぉ、晴真君か。恥ずかしいところを見せてしまったな」
「お久しぶりです、お義父さん」
「晴真君、その呼び方はまだ早いぞ」
晴真は顔を赤らめながら、小さな声で言った。
「いえ、いずれそうなりますし……」
そして、ちらりと依芙姫を見た。
「それより、どうしたんですか? 」
「いや、何、ウチの山や敷地に風力発電を建てたいというんだよ。磐長姫がお守りくださるこの山を売るわけにはいかんのだ」
「そうですね」
「それより、晴真君、祓師としての活動頑張っているね」
「とんでもないです」
「いやはや謙遜しているね。今日は夕食を食べていくかね? 」
「すみません。外で食べると言ってきていないので今日は帰ります。また、今度」
「そうか、それは残念だ。依芙姫、晴真君を外まで送ってあげなさい」
依芙姫と晴真が鳥居まで来ると、晴真が小さな8個の鈴が付いた神具を依芙姫に手渡した。
「えっ、これって、鉾先舞鈴じゃない! 」
「持ってろ」
「高いんじゃない? 」
「いいから持ってろ」
晴真は深呼吸してガシガシと頭をかいた。
「最近、お前を襲う悪妖も増えている」
「そうだね」
「俺がいつも守れるとは限らない」
「晴真にいつも守ってもらっているのに、気にしないで」
「この鈴があれば、下級の悪妖は近寄れない」
古くから鈴の音色には邪を祓う力があるとされてきた。
悪妖に襲われた依芙姫を案じる晴真の不器用な優しさを感じ、依芙姫は素直に受け取った。
「ありがとう」
晴真の頬がほんのり赤くなり、依芙姫から視線を逸らした。
「おぅ。じゃぁな」
走り去る晴真を見つめながら、依芙姫は鉾先舞鈴をそっと胸に抱いた。
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